昨日のだんなの実家に帰るボヤキに対し、多くのコメントをいただきました。
みんな、それぞれいろんな思いをかかえている。大切な人を亡くした悲しい気持ちは一緒なのに、悲しみに暮れる親と生きていかなくてはいけない私たち。私たちは悲しいのは同じだけれども前に進まなくてはいけない。それを悲しんでいないと取られてしまう苦しみ。
皆さんのコメントを読んでいて亡くなってから生活が軌道に乗るまでに様々なことがあったことを思い出した。のんべの遺品を整理して義母に怒られたこと。さっさと就職を決めてしまいいやみを言われたこと。保育園に通うのにのんべの車は大きすぎたので小さな車に買い換えて雷をくらったこと。あの時は「なんていじわるなんだ」と思ったけど、義母の「のんべが亡くなったこと」から動けない、つらい気持ちの現われだったんだろうなと、今になって思います。
でも、義母の悲しみから動けないのも、私たちが悲しみから這い上がり新しい生活を築こうとすることも、亡くなったのんべへの思いの違いだからしょうがないんだろうな。
だから、昨日のうそをついてまで義母のところに帰るのをやめようと思った私はやっぱりいけない。気持ちとしては家にいてゆっくりしたいけど、義母の、孫に会えるのを楽しみにしている気持ちを踏みにじるようなことはしないでいよう。
この日記を書きながらBGMはenyaのCD。のんべの葬儀にかけていたもの。まもなく5年、随分長い月日が流れたようだけど、やっぱりenyaを聞くとあの日に、あのときに引き戻されてしまいます。
立場によっても違うと。
1人の大切な人が亡くなった事実は一つですが。
我が家の場合で言えば、たった1人の女性が妻であり、母であり、また娘である訳です。
私は妻を亡くした、義父は娘を亡くした、そして私の息子は母を亡くした。
それぞれの形のそれぞれの悲しみそれぞれの苦しみも有るのです。
お互いに理解出来ればいいのですが、自分の悲しみに向き合う事で精一杯になり、相手の悲しみを理解しきれない部分も有るわけです。
「悲しいのは私だけじゃない」
解っていても、つい自分の悲しみだけが最大と思ってしまう。
人は哀れで悲しいものです。どんなに広い心を持とうと思っても、追い込まれた状況ではエゴが出てしまいます。
そんな自分が嫌いになりそうです。