くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

米沢から会津にいざ!会津の武家屋敷へ!!

2012年06月26日 | 参陣記
2年ぶりに参陣した上杉まつりを終え、喜多方経由で会津に入り、まずは藩校日新館を見学。
会津武士を育てたここは、不思議と身が引き締まり、凛とした雰囲気がありました。

このあと、やはり中心街から少し外れたところにある【会津武家屋敷】に行きました。

ここには、会津松平家で代々顕職を歴任した西郷頼母家(上士、1,700石)屋敷や、白河領米精米場、中畑陣屋(松平軍次郎領)などが復元・移築されています。

見学順路の最初は、西郷頼母家屋敷です。
屋敷表門前には、9代近悳の養子で“姿三四郎”のモデルとなった西郷四郎が豪快に技を決めています。

そして、その前を通って屋敷表門を潜り、屋敷内へ入ります。

保科姓と九曜の紋の許しを得ていた西郷家に相応しい、立派な門構えです。
その先に在る、格式を感じさせる式台(表玄関)。

ご丁寧にも、お出迎えがあります。けど、上がれません(苦笑)


会津公の御成が有ったのか、屋敷内には御成の間が設けられています。

そこから見える庭は、小ぢんまりとしてはいますが、季節の枝垂れ桜がよかったです。


会津のご城下は、残念無念で理不尽極まりない会津戦争で大きな被害を受けたので、西郷頼母家屋敷も日新館と同じく復元された建物ではありますが、それとはあまり感じない、往時よりここに建っていたかのような佇まいがあります。

ただ、惜しむらくは屋敷内に上がれないこと。

上がることの出来る機会はあるようですが...
保存・管理の面で難しいかとは思いますが、外から見るというのはちょっと物足りなさを感じました。

さて、9代近悳は西軍への恭順を説いていましたが、家族は西軍の会津若松侵入に際して自刃して果ててしまいました。

敵に辱めを・・・という論理からですが、中には幼い子供も含まれていたとか。

落涙せずにはいられません。。。
この時の様子は、この先の順路の途中にある資料館で解説しています。

武家屋敷内には、先に触れたように頼母屋敷以外にも建物が3棟あります。
資料館の先に在った蔵の様な建物は、隣国白河領に在った水車を利用した精米所。

結構な迫力があります!


順路通りに屋敷裏門から出、屋敷の片長屋に沿って行くと茅葺の屋敷に辿り着きます。

表門の途中でもあるこの建物は、白川郡内に設けられた松井流松平軍次郎家領(公儀寄合、5000石)の代官屋敷。
今の西白河郡矢吹町からここに移築し、重文にしていされているとか。
ここも、勿論上がれません...。

その隣には、かつて鶴ヶ城内に建てられていたという茶室が在ります。

これは、蒲生氏郷が城主の時に千利休の子・少庵が造ったとか。
小ぢんまりとしていて、侘び、さびを感じ・・・ます。

けど、ここは上がるどころから間近に寄れなかったのが難点です。

ちなみに、ここでも弓道体験が出来ます。
会津、いいところですね!

武家屋敷には、米沢の【上杉城史苑】のような施設が併設されています。

中心から離れたところではありますが、こういう施設があるのは有り難いですね。
この一画で、地の銘酒会津中将」の試飲が出来たんですが・・・車を運転しなければならなかったので、極めて無念な涙を呑んで、ここを後にして、この近くに在る【松平家墓所】(院内廟所)に向かいました。

▼ いざ、学舎日新館へ ▼◇▲ 会津と松平家の歴史を観に、いざ! ▲

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