霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

あの世のことは「門外不出」?

2013年05月26日 | 心霊現象
私が様々な霊界模様をブログで書いてきた「このような事は」、多分門外不出な事かもしれない。
が、私はそれを承知であえて門外に引きずり出して、今に至っている。
そんな私を充分見て取って、彼ら「霊界人」もまた承知のうえで私の耳に入れ、その場に同席することをあえて許してきたと思える。
決して同席も、耳に入れることもダメな時は、はっきりと「余人には教えたくない!」と退席を促したものだ。
だから全部が全部、聞いたり見たり納得出来たわけではない。
今になって気付くことは、「私」も関係し、それを解く渦の中にいた時に限り、「他家」の事情を知る事が許されてきた、という事実をもって腑に落ちる。
どうりで「知らせてもらえなかった」事が多いわけだ。
しかし、こと「あの世の実相」に首を突っ込んでしまった私とすれば、事例は多いほどよい。
「あれ」も「これ」も、「それ」もみんな知っておきたいという人情にかられるのもまた正直なところである。


聞き耳をたてる私のほうには、かすかだがところどころだけ聞き取れる。
多分、霊能者K氏は「こう」言っているのだろう。
『今後、結婚ということを前提に、つまり縁を結ぼうとの意図で相対する人物は、ほとんど全て死に至らしめ
 られるでしょう・・・』
(つまり、結婚したら相手は死ぬぞ、という警告だった)

ことの発端はこうだ。
一人の女性が相談にみえた。
相手(男性)からもらった「アクセサリー」の数々を持っての来訪だった。
一人からのプレゼントではない。持参した数だけ「相手」があるわけだ。
その人達があれよあれよという間に、死んで行く。
「わたしはよほど不幸な女、不吉な女なのでしょうか?・・・」と、彼女はその意味を解明したいと出向いたわけである。
いろんな人生の中でも、こんなショックな人生はあまりにも異常であり不吉だ。
「私も知りたい!。是非その真相を!」と身を乗り出した私に、「余人はまかりならぬ!」という「ダメ」が出た。K氏が霊視した直後、さっそく退場を命じられた私であった。
同席させてもらえない。シャットアウトされて、私は「これが霊界だろうな・・・」とむしろ納得していた。
秘密主義とか、もったいぶっての事などではない。
一族の秘中の秘を、どこの馬の骨か分からない人物に聞かせるほど、血統の事情は簡単な事でも穏やかな事でもない。だから公開できるわけがない。
そうか「余人(よじん)ねぇ~」。
はっきり言えば「あんたには、関係ねぇだろうが!」ってことである。

色々な仕事には「守秘義務」がある。
今思えば、霊界あるいは一族の守護霊が語る内容こそ、一等級の守秘義務が課せられてしかるべき内容といえる。
それを私は、いけしゃあしゃあと、よくもまあ綴り続け、公開し続けたものよ・・・。
血統の秘密を「暴露」する。言い方をかえれば私のやってきた行為は、そういうことでもあった。
だから、一件一件祈り、公開する事を神に聞き、報告しその後のとるべき態度や行動を伺い続けてきたつもりであった。
そんな私の、たった一つの「言い訳」がある。
それが「救い」であり、「神へ誘われるための手法」という大義名分を持って「よし」とした。
何を?・・・、「公開」をである。
しかし、それさえもまかりならんと言われるのであれば、重々覚悟の上ゆえ、命でも何でも召し上げなさりませ!、とばかりに挑み続けてきた。

その結果が、霊界からの「恫喝」、あの言葉がきた。
『なんの権威をもって、他家の因縁を云々する!』
丁度私が「こんなことを」始めて、半分くらいまで歩いた頃だろうか・・・。
その覚悟のほどを試す「言葉(恫喝・どうかつ)」が霊界に鳴り響いた。(夢の中での事)
相手は一人ではない。霊団である。いくつもの霊の集団が、一挙に圧力をかけてくる。台詞はその一つだけ。
そこで私が答えた事は、こうだ。『黙らっしゃい!、救いの為だ!!』と、声を限りに全身全霊で叫んだ。
彼ら霊団は、霧が晴れるように無くなっていった。


だからね、皆さま。いろんな事例は自分の為に、霊界が恥を忍んで教えてくれた尊いものと思召して、
いざという、自分の血統の救いの為の時に使わせていただきます、という思いで「頂いて」くださいませね。
あの時の「相手が皆死ぬ」という彼女の話ね、いまだにK氏は一言も喋りません。
だから私も、何一つ書くことが出来ませんでした。


いままでブログに書いたものは、すべて破り捨てるか、燃やしてしまって何も残っていない状態です。
門外不出のものであればなおの事、形がなくてあたりまえ。
パソコンという不思議なものに書き込んだ内容も、空に飛び回っているだけでは無形のもの。
目標を絞り、的を得て、初めて公開した内容にたどり着けたというものであれば、多分霊界もようやく辿り着いた「旅人」を、むげに締め出すことは出来ますまい。
心から、皆様を大切に受け入れてくださるはずです。

いつまでもは続かないこのブログであれば、いましばらく、しばらくお目こぼしくださいませ~。
と言いながら今日もまた綴っています・・・。



「さとり世代」といわれる若者

2013年05月25日 | 心霊現象
さとり、つまり「悟り」とは老人の専売特許かと思っていたら、今の「若者」の特許らしい。
その若い「みそら」で、何を悟ったというのだろうか・・・。
とある週刊誌を読みながら、だんだん合点がいってきた。
そこで説明されていた事は、元来の「悟り」とは程遠い、むしろ「諦め・挫折」の人生を言っていた。
彼らの目標は「そこそこの人生」だった。
「そこそこ」って、どこまでをいい、何を目指すのか?・・・。
冒険もしない、夢を追わない、摩擦もおこさないetc・・・。それって、最初から諦めた、闘わない人生をいうだけの話ではないか。
ある適当なところで「線」を引く。その囲いの中での「安心・安全なる人生」を生きる。
それをこれからの長い、未知なる我が人生に「その先」を見たいとは思わないのだろうか。
闘ってでも勝ち取るものは、ないのか・・・。そうだ、きっと「無い」のだろう。

だって、彼らの世代の「運動会」にしてそうだ。
順序をつけるのが「差別」とばかりに「かけっこ」をしても一等も二等もない。みーんな同じ。
そんなところから、死にもの狂いで勝つ意味も喜びもあるわけがない。
どうせ「がんばって」走ったところで結果は同じものが待っている。そんなところからは夢も希望も喜びも味わうことはない。
彼ら「さとり世代」をつくったのは、まさしく大人たちだ。
闘って闘って生きても、何も残らなかった人生よりも、そこそこの人生が手に入ればそれでいいではないか・・・。ひょっとして、そんな「腑抜けた大人」の人生観がそうさせたのではないか?
若者は、親の背中を見なくなったのか?。そうかもしれない。
父ちゃんが、家にいること自体不自然だった過去のあの時代。汗を流して臭くなって家へ帰ってくるのが「いいお父さん」だった。泥だらけでもいい、大工道具を抱えてもいい、ちょっと酒臭くてもいい。みんな「働くお父さん」の姿だった。
今のお父さんは、汗臭くないだろう。子供に嫌われる?。ましてや泥などつけて帰らないだろう。
奥さんに叱られる?。さらに酒など飲んで帰ろうものなら、玄関先で締め出しを食うかもしれない。
「健全な家庭」が、判を押したように「ひな形」のように示される世の中に、そこから「はみ出た家庭」など想像も希望もしないだろう・・・。

彼ら若者もきっと「悟った」のだ。彼らなりに「自分の将来・人生・家庭」の在り様を・・・。
もしそうだとしたら、可哀そうに!。あまりにももったいない人生ではないか!。
一回ぽっきりの「今生の人生」。自分だけの他人には決してない特性を生かそうとは思わないか・・・。
その特性を探そうとは、思わないか?
それが「天上天下唯我独尊」であることを、親は教えるべきである。それをこそ追求し、我が人生を生きてこその神が一人に一つづつ与えた「天稟(てんぴん)」であり「神性」である。
それを探す旅が「人の巣立ち」ともいえる。(親が教えてくれれば、別であるが)

就職や結婚相手をさがすこと、つまり「就活」や「婚活」は二の次である。
自分を知らずして、何が始まるというのか・・・。だから探し当てるまでは転職し続けることは仕方がない。
しかし、結婚は一度したら「霊界の仕組み」の中に組み込まれる。血統という見えない世界で、歴史の清算者にもなりうる。縁を結ぶのは一回で終わりたい。
自分が何者であるかを知っての婚姻をお勧めする。順番はそれが妥当である。
不安定な土台からは、所詮不安定な将来しか見えてこない。
ブーイングを覚悟で言わせていただければ、「自分を知り」「確率した自分」を見出す『悟り』をこそ出発点として、人生を闘っていただきたい。
土台、つまり自分が何者であるかという「しっかりした」ものの上にたってのことであれば、夢も冒険も勝負も人生につきものであれば、覚悟して進んでいかれると思いたい。

若者が『悟る』のは、「今」であり、その内容は「自分は何者か」という問いを続けることである。


さあ、「さとり世代」といわれる若者よ、順序が逆だっただけのことだ。
先はまだまだ、ずーっと長く続いている。今これから本気で悟ればいい。
もう一つの「さとり」は、年寄に任せておけばいい。我々の世代が、しっかりと受け取りましょう。
知らなければならないことも山ほどある。
実際に経験しなければならないことも、山ほどある。
人の心を結ぶものに、実際経験しなければならないものもある。
酷な事でも、「それ」を経験したがゆえに、結ばれる魂もある。
きれいごとの人生より、深く人の情に染み入る経験者としての人生もある。
それは全て、死後の「あの世」にこそ、その価値を発揮してくれる「あなた」の財産となる。


さあ、どっちを選ぶかはあなた次第です。
クラーク博士も言ったではないか、「ボーイズ、ビー、アンビシャス」と。
名言は時代をこえ、世代を超えて、色あせることなく「永遠」に語り継がれる特性をもつのですねぇ~。

日本は侵略国家であったのか・・・(田母神俊雄氏メモから)

2013年05月24日 | 心霊現象
これからご紹介する「メモ」は、元防衛省航空幕僚長 空将であった「田母神(たもがみ)俊雄氏」から出たものである。
いま巷ならず、世界にまで波及した「歴史認識」の大いなる「差違」は、はたしてどこかで終止符がうたれ得るものなのだろうか・・・。
なによりも歴史の生き証人がだんだんいなくなる現状で、はたして「真実」なるものがいったいどこから出てくるというのか?。
歴史の真実は、勝利者あるいは為政者によって勝手に塗り替えられ、間違った歴史観にたってことが進められてきたことは周知のとおりである。
ましてや日本においては、第二次大戦から現在に至るまでの「近代史」といわれる部分は、学校でも教えていないと聞く。
電車の中で聞く中学生の会話に、痛く傷ついた「老兵」は、一人涙を流し「あれは、自分は、友はいったい何のために戦ったのだろう・・・」と、人生の最も大切な青春を失ったことを二重の苦痛で耐えたという。
その会話はこうだ。
『おい、日本がアメリカと戦争したって、本当かよ?
 まさかな。そんなこと聞いてないよな。もしやったとしたらバカだよ・・・』


結果、私をも含めて日本人はほとんど、第二次大戦の真実を知らず、その無知に忍び込むようにどこからか与えられた「自虐史観」の中で、日本とこれからの自分を組み立てていくようになった。
他国とりわけ日本の隣国である国々は、「日本は悪」とばかりの「歴史認識」で迫ってくる。
それに対し「異」を唱えようものならば、「右翼的」とか「軍国主義再来」などとかまびすしく叫びまくる。

本当に、あの時何があったんですか?!


私も知らない「事」を、今日は元幕僚長の「たもがみ氏」のメモからたどります。
その前に2、3の言葉を、あなたは聞いたことがおありだろうか。そしてそれは「何」の事ですか?・・・。
知らない方は、歴史を語り、歴史を認識する以前の問題、つまり無知でありそれを語る資格すらない、ということになります。(まず、私がそうです)

一、「ハル・ノート」って何?

二、「侵略」って何をすること?

三、日本が植民地化したという国をあげ、その国は前と後で、何がどう変わったの?

まだまだありますが、この三つが説明出来なければ「歴史を知らない」事になる。
ましてや、日本を取り巻く戦争のさ中、何が真実かを知るなど、ほど遠い・・・、となる。


では、次の文が「氏」のメモです。(長いのでところどころ略します)

『日本は侵略国家であったのか』

アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。
二国間で合意された条約に基づいているからである。
我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。
日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了解を得ないで一方的に軍を進めたことはない。

我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しょうとした。
当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。
我が国は他国との比較で言えば、極めて穏健な植民地統治をしたのである。
満州帝国は、成立当初の1932年1月には3千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。
満州の人口はなぜ爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。
農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。
朝鮮半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が、2千5百万人と約2倍に増えている。
日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。
戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には、日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。
我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。
また1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学を設立した。
日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。
その後8番目が1931年の大阪帝国大学、9番目が1939年の名古屋帝国大学という順である。
なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。(中略)

李王朝の最後の殿下である李垠(イ・ウン)殿下も陸軍士官学校の29期の卒業生である。
イ・ウン殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られることになった。しかし、日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。
このイ・ウン殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(なしのもとのみやまさこ)妃殿下である。
この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりなら、このような高貴な方をイ・ウン殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。
ちなみに宮内省はお二人のために1930年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。

これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると、日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校にいれることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。
これはオランダ、フランス・アメリカなどの国々でも同じことである。
一方日本は第二次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り混じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。(略)

さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、ついに日米戦争に突入し3百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しのつかない過ちを犯したという人がいる。
しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。
1933年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。
ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。
当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、日本と闘う蒋介石を、影で強力に支援していた。
ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第一撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。(略)

結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。
文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは、放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で、支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。
強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
もし日本があの時、大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、二百年遅れていたかもしれない。
東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63年(今は68年)を経てもなお日本を惑わせている。
このマインドコントロールから解放されない限り、我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。
諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。
今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に堪えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。
しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。
タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。
我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。(略)

私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。
歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。 』

以上です。もっと長い文ですが後はまたの時に・・・。


知らないよりは、知ったほうがいい。
誰から、いつ、どんな形で知るのかは分からない。
が、今知るべき時が来ている。
マインド・コントロール・・・、確かにそれは「無知」を狙ってやってる「魔」であり「罠(ワナ)」だ。
これから私も、知るための努力をしょう。
世界中が日本を踏みつけにしても、「真実」は一つであり、それを知る行為も潔(いさぎよ)く行わなければならない。出た結果には、真摯な態度で臨むことは言うまでもない。
かつて私がブログで書き、ご紹介した「パラオ諸島」も、一つの真実である。
学校を建て、勉学を勧め、道路を整備し、空港を造った。その日本兵(日本)を偲んで今の彼らがある。
彼らが常用する日本語も多い。子供の名前も日本名がついた。
心から「日本」を慕い、残してくれた文化を今も大事にする彼らに、「怨み」や「敵意」はない。
行ってみて始めて分かるもの。案外わたしたちは戦後の「デスカバリー・ジャパン(日本発見)」を怠ってきたのかもしれない。
日本はどうせ悪よ・・・、という邪念に侵されてしまった魂で先を見ようとしなかったようだ。

少しの暇とお金があったら、あなたにお勧めしたい。是非パラオを、ペリリュー島を訪ねてくださいと。
日本人は、捨てたもんじゃなかった・・・、と彼らから「逆輸入」して元気になって帰ってくること請け合いです。
戦争のさ中、敵の船が沈むのをみるにみかねて「船員」を助けた話もある。
いまだにその遺族が日本へ来て、感謝の意を表す。
こんなことが、ごっそり抜けて、真実が伏せられてきたとするならば、日本の損だけではない、人類の大損と言わなければならない。

大東亜戦争が、アジア諸国を列強大国から守り救うためにやらざるをえなかった戦争であり、
日本一国を滅ぼしても、アジアを守れたら本望だ、と日本がアジアの母として立つための「聖戦」であったとする『映画』も上映されました。
が、日本の映画館は上映することを拒み、数えるほどでした。そのかわり、「南京虐殺はあった」とする中国の映画は多数の映画館で上映されました。どこの話かって?
日本での話です。
そのくらい何かがおかしく、狂っているといってもいいくらいの有様でしたねぇ~。
あと100年も経てば、真実が真実として大手を振る時がくるでしょう。
私も楽しみにして、あの世から応援団を送ることにいたします。
皆様もこれをいい機会と思って、「真実」探しの旅に出られることをお勧めいたします。

最後に「あなた」にお聞きします。
それでもあなたは、日本が好きですか・・・。








尊厳死の宣言書(リビング・ウイル)

2013年05月23日 | 心霊現象
「食べること」は「生きること」につながる。
という出だしで始まったある番組。
ガン患者の末期にあたる「ホスピス」の場面である。
『最期に食べたいもの』を、何でも提供したい、というのがこの病院の特記するべきところである。
ガン末期の患者にとって、過去に食べたものの「思い出」は、何にも代えがたいものとして心に残っている。
そしてそれを「果たし得ぬ夢」として、今終わろうとしている、せめてその「食」を提供してやろう。
患者は言うに及ばず、その家族の心も、きっと満たされたものを味わい、思い残すことが少しでも軽くなれば、たやすいことである。
大阪のとある「ホスピス」は、過去板前を経験した「三人の調理師」を厨房に立て、あとわずかになった「この世」の名残に、「今思い出す一番食べたい献立」を、一人一人の希望を聞いてそれぞれに食卓に用意した。
ある人は、若いとき食べた「ばってら」。生ものをいっさい食べさせてもらえなくなった病院の食事だが、この時ばかりは「希望」が叶う。
昭和2年の思い出が、今その人を元気な一時に引き戻す。
食欲がないはずの人に、食欲を出させ、目の力さえ増して「最期の食事」に家族ともども、話に花が咲く。

ある人は「スキヤキ」を希望した。
自分が死んだ後一人残される若い奥さんと一緒に食べる「鍋」が、いつまでも思い出として残るように・・・、と。
病院側は二人分の鍋(スキヤキ)を用意し、座敷つきのベッドの間にゆっくりと「その時間」を味わってもらえるようにと、心の限りをつくす。
患者であるご主人は、焼酎のグラスを手にして一個の豆腐のかけらを食べただけだった。が、最期のとっておきの食事は夫婦の絆をいっそう深め、死後にも結ぶ力を強めたようだった。
彼ら患者の満足度は、計り知れない。大阪淀川にある「ホスピス」の話である。

あとわずかの命の人には、痛みを抑える薬は制限をしない。後遺症が出るとわかっていても、その時までは生きていないことが分かっていれば、今は痛みをなくすることに医師は専念してくれる。
「何でも聞く。どんな献立でも再現する」。「デメリットよりもメリットのほうが多い」という意義をとる。
一人一人が味わう「人生のあの時の思い出の味」を最期に味わう・・・。

食べることは、生きることだ、と最後に「生きた味と心」を提供して「あの世」へと送ってあげるのだ。



さて、「日本尊厳死協会」という団体をご存じだろうか。
そこの会員には「尊厳死の宣言書(リビング・ウイル)」が送付される。
中身はこうだ。

     尊厳死の宣言書(例)

この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に書いたものであります。
従って、私の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、又は撤回する旨の文書を
作成しない限り有効であります。

①私の傷病が、現代の医学では不治の状態であり、既に死期が迫っていると診断された場合には徒に
死期を引き延ばすための延命措置は一切おことわりいたします。

②但しこの場合、私の苦痛を和らげる処置は最大限に実施してください。
そのため、たとえば麻薬などの副作用で死ぬ時期が早まったとしても、一向にかまいません。

③私が数か月以上に渉って、いわゆる植物状態に陥った時は、一切の生命維持装置を取りやめて
ください。


以上、私の宣言による要望を忠実に果たしてくださった方々に深く感謝申し上げるとともに、
その方々が私の要望に従ってくださった行為一切の責任は私自身にあることを付記いたします。


                      平成 年 月 日

 フリガナ
 氏  名            (印)   年  月  日生
 住  所



こう書いてある一枚のメモのみで、出所は「ある著書」の一部かと察せられるのですが・・・。
きっと、いずれ私もその「協会」の会員になって、この宣言書を残すつもりでいたことは確かです。
部屋の片づけも、時には役立つようで、しかし早めにやっておくべきでしたね?。
先にブログで書いた「エンディング・ノート」と合わせて用意すれば、もうこの世の準備は全てOKと言っても過言ではないようですが・・・。
さあ、あと残すはあの世の準備。(実はこれが大変といえば大変なのですが・・・)

いかがですか。
こんな事に目がいき、耳がいき、心がいく私は「あの世」が近いんでしょうかねぇ~。
でもね、若い方も、今から心の準備だけでもされていたって、損はありませんよ。
いつくるかわからないものに、「竜巻」と「死」?

地下にシェルターをつくり、その中で尊厳死の宣言書を用意し、「最期の献立」を考える。
非日常的な事も、たまにはいいんじゃないでしょうかねぇ・・・。
(竜巻で亡くなった方々に、合掌)
 

富士山検定

2013年05月22日 | 心霊現象
富士山が世界遺産に認定されて以来、周りがあわただしくなってきました。
円安も手伝って、外国からのお客さんがおおいに増えたようです。
めでたし、めでたしと手放しで喜んでばかりはいられません。
だって、私達は「富士山」をどれだけ知っているんでしょうか・・・?。
私はまだ、登ったことがありません。恥ずかしいながら。
見たことは?、はいはい見ただけなら何度かあります。
箱根旅行の時、ロープウェーからそれはそれは見事な富士山を拝ませていただきました。
それに「富士山」を見るならと、旅行社に勧められて「日本平」へ行き、観光写真そっくりの「すばらしい富士」のたたずまいを心に刻んでまいりました。
「霊峰富士」、この言葉が「本当」に思えたのは山梨県に行った時でしょうか。
「ほら見て!」と言われて振り返り見たその山は、鳥肌が全身にたったものでした。
生まれてみた富士山の印象が「鳥肌」だったものですから、そういう意味から言えば、この山は私にとっては「別格」なのです。

さて、富士山についての「知識」は、多分その高さ「3776」の数字くらいが私の知る限りのものではないかと・・・。
そこで「富士山検定」となるわけです。
検定があること自体、知らない人も多いでしょう。私も知らなかった、TVを見るまでは・・・。
この検定試験は、1級から3級まであるそうです。
ちなみにどんな問題か?と。

一、頂上の気圧は、地上の何分の一か?

二、富士山の体積は、東京ドーム何個分?

三、富士山の頂上部分は、何県?

四、富士五湖で一番湖面が澄んでいる湖は、何湖?

とまあこんな問題が出るんですって。これで3級の初歩の段階ですから、1級ともなれば「富士山博士」ならぬ「おたく」にでもならない限り無理かと・・・。

さあ、答えはいかがでしょうか?。
一問の答えは「地上の三分の二」。二問の答えは「東京ドーム113万個分」。
三問の答えは「どこでもない」。(またがっている県の、中心にあると思いたい人の心かと)
四問の答えはね、聞きそびれちゃいました。(各自お調べください)


次はハードルがきっと高くなって、受験者を悩ませる出題ではないかと思いながら、最近特に騒がれ出した
「富士山爆発」。こんな問題が出たらもう、お手上げです。
しかし、検定はおいといても、富士山が爆発したら・・・という想定は、いまだから必須な事項でもあるのでしょう。
新聞記事に、こんなふうに載っていました。
これも、富士山を知る大切な事柄だと思い、書き留めます。

 『江戸時代、宝永噴火(1707年)で3メートルを超す火山灰に見舞われたとされる静岡県小山町。
  噴火からおよそ一日で溶岩流が到達するとされる同町・須走地区の住民の避難経路を地図に赤線で示し
  3月以降、同地区の学校や防災組織の担当者に説明している 』


これも「富士山」のもつ一面と思えば、「美しい」だけでもなく、信仰の対象だけでもなく、現実的なつまり
今も生き生きと活動を続けている「活火山」であるという事を、忘れてはいけない。
地震と火山と温泉の日本。どこから見ても美しい景観の恵まれた日本。
しかし、危険と命がけが背中合わせになった日本の風土でもある。

日本の富士山。あの霊峰が怒り狂う日。鳥肌をたてて魅入った私には、きっと「その意味」を探りたくなるだろう。(なぜお怒りになったのでしょうか・・・と)
日本の象徴とされてきた「富士山」を、私はあまりにも知らな過ぎたことを今反省している。

世界遺産に認定された今を期に、富士山の「いい事」も「都合の悪い事」もみんな今から学ばねばなるまい、と思っています。
「富士山検定」の方は、若いこれからの皆様にお任せするとして・・・。(がんばってね!)