霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

歴史の同時性

2013年05月04日 | 心霊現象
『歴史は、螺旋階段のように「同時性」をもって現れる』
誰が言った言葉だったでしょうね・・・。
これからの「お話」は、私が習った事であれば、あとは信じるかどうかの問題だけとなります。
自分の一生を生きた人間が、「それ」を知ることは、あまりにも生きた時間が短く、さらに歴史というものが
あまりにも長い時間の経過であれば、歴史を解くという難題は、無理の一言に尽きるといっても過言ではないでしょう。
しかし、「七つの封印の巻物」は、いつか解かれる日を待って、真実を告げてくれると信じれば、歴史に何か
、そうきっと「神がかり」な事がからまって、今に至っているに違いない。
こう考えるのも一つの考え方であります。
では、歴史がいつ、どこでどう神と関わったか・・・?
それこそが、「同時性」を生む大きな原因と言わなければなりません。

小さくは「わたし」の歴史、つまり人生に「同じこと」が二度、あるいは三度と起きたことはないか・・・。
「二度ある事は、三度ある」となぜ言われてきたか?
さらに「三度目の正直」とは、何なのか?
日常使っている言葉(諺・ことわざ)は、暗に何かを伝えているものだと思えば、きっと見えてくるものが
あるのかもしれません。
「歴史は繰り返す」という背後のものに、「なぜ?」を投げかけてみたとき、あるはっきりとした「歴史の同時性」が語りはじめます。


同時性とは、決して誇らしい事ではない。
「繰り返してでも、取り戻さなければならない事象」あるいは「条件」といってもいい。
失ったものを、もう一度取り戻す。二回目に失敗した。だから三度目がきた。
今度は失敗はゆるされない。三度目の失敗は「レッド・カード」にあたる、ということだ。
個人から民族、国家において、同じ鉄則が適応されて「歴史」がながれてきた。
だから「同じ何かを取り戻すために」、人が代わり、国が代わり、現象が代わって目的を果たすために「時間」だけが流れてきた。
それを「歴史の螺旋階段」の最上階からみたとき、どこかで「同じ事象」が下階に見えている。
最上階は「今」をいい、見つめる「わたし」は、「ここ」にいる。
まるで夢をみているような話だが、こうして歴史とくに人類歴史、さらに西洋史を覗くとき、「まてよ!」
と思い当たる節の「時代」がみえてくる。
コードは「神」と「キリスト教」の歴史に光、あるいはコンパスを当てることになる。
そこで必須となる「数」がある。(歴史を解くカギとなる)
宇宙の数、あるいは創造の数であり、あるいは「神の数」であり「人の(完成)数」である。
結論だけいえば、「12」「4」「21」「40」が歴史の時間を計る単位になる。
この数で年表が綴られてきた、と言っても過言ではない。

「エデンの園」から始まった神と人間の歴史、つまり「親と子」の歴史が綴られていく。
歴史は流れ、現在に至っていまだ続く。
今の時計で計る時間単位で歴史を綴れば、はっきりとは「BC」、つまり「イエス」を中心とした時間単位で示される。それ以前は「AD」とされ時間単位からは同列に並べるというよりも「事象」で示さざるを得ない。なぜかは、「旧約聖書」の世界だからである。
歴史学者、あるは神学者が切り捨てた「旧約聖書」の中にこそ「繰り返しの事象」があり、失敗の数々が意味深く記されているのである。
そして、常に親なる神が関わり、その都度「その言葉」が聞こえている。


歴史の同時性は「三本の線」のようにも見えてくる。
しかしやはり「螺旋階段」が一番分かりやすい。
最上段から見てみる。
すぐ下に「1517年・宗教革命」が見えてくる。
学校で教えられた「ルター」や「フス」「ウイクリフ」が登場する。
さらに時代を遡る。「マラキ」が預言を告げる。「メシアが来る!」と。これが一つの同時性となる。

さらにもっと昔、ヤコブの家庭がハランよりカナンに戻る。
最上階から見える歴史上の事実は、「実体的同時性」である。
少し遡る歴史は「形象的同時性」であり、さらなる古い歴史は「象徴的同時性」である。

同時性はまだある。
西洋史「1309年・教皇捕虜及び帰還時代」というのがある。
ローマ法王クレメンス五世が南仏アヴィニヨンへ移される、という事件である。
これと全く同じ様相を過去の歴史に見ることができる。
「ユダヤ民族」捕虜及び帰還時代である。この二つは時間こそ流れはしたが、全く同じ様相を呈し、「繰り返し」を如実にしめしている。ただ、捕虜になったのが、ユダヤ民族と法王の違いである。
いったい「何」を取り戻すための再度の仕組みであり「同時性」だったのか?
一致して210年が経って、ようやく帰還が成った。

さらに、西洋史「919年・東西王朝分立時代」は、過去の「南北王朝分立時代」の同時性である。
十字軍の遠征もあり、400年の月日が流れた。
さらに、西洋史「800年・チャールス大帝の即位」から、その後120年続く「キリスト王国時代」である。
これらは、螺旋階段の最上階から、「ある視点」で見れば、はっきりと歴史が示す何かが見えてくるというものである。
歴史の「軸」が、キリストを中心に回っているという証拠に、イエス死後400年続いた「キリスト教のローマ帝国迫害時代」がある。
西洋史「392年・アウグスチヌスの神国論などで、テオドシウス一世により、コイリスト教が国教とされる」。この間400年。
遡れば、アブラハムからモーセまでの400年間は、「エジプトの苦役時代」があり、まるで先の見えない苦難の時代を過ごした。ただ、「必ず我々に救い主が現れるという」一縷の望みだけが、生きるすべだった。
そして、「出エジプト」を迎えるのである。
しかし、彼らイスラエルの民は、ことあるごとに「モーセ」に愚痴をいい、「ごちそうがあったエジプトのほうがよかった」とまでいい、さらに偶像の「金の子牛」をつくって「不信仰の極み」をつくす体たらくであった。
いずれも、聖書の作り話のように語られてきただけの「物語」である・・・。


「マラキ預言者」から400年後、イエスが生まれた。
イエスが誕生する前、BCと呼ぶ時代あちらこちらに賢人が輩出されたのは、なぜか?
「孔子」であり「釈迦」であり、「アリストテレス」であり・・・。
偶然でしょう、とはいえない世界が、「歴史の同時性」がもつ、つまり言えかえれば「神と人間の織りなす歴史の意味」である。

さらに興味のある方は、ご自分の年表を作ってじっくりと眺め、歴史の同時性から読み取れる何かを発見されたし。
歴史のもつ謎、あるいは闇が「あなた」の前に躍り出てくるはずであるから・・・。



歴史学者でもない私であれば、「こんなこと習ったんですよ~」としかいいようがない。
しかし、なぜ繰り返すのか、どこまでいくのか、何をもって終わるのか、それは「いつ」なのか・・・。
答えは人間側にある、ということだけははっきりしている。
神、つまり親は「待って、待って、待って・・・」果てしなく待って今に至っている。
・・・、とまあ、代弁すればこうなるということ。

さて、これは悪までも、人類歴史のこと。
国やあるいは氏族、民族のことは「解くべき方」がいらっしゃるゆえ、その方に使命分野として残されています。
「個人」から氏族まで、その歴史を解くのは「あなた」の仕事なのです。
だから、何も知らないでは、何も解けません。
かく言う私もそうなのです。
まず知ること。自分の足元をじっくりと観察し、「神のメガネ」あるいは「神のコンパス」で単位を計り始めてください。
もしもしもね、何度も繰り返すことがあったら、決して見過ごしてはいけません。
「偶然でしょ」だけは、言いっこなしです。
では、一族を引きいる皆様。
歴史という時間を計る「計器」をお渡しいたしました。
ご先祖さまを交えて、これから始めてくださいませ。
謎解きならぬ、歴史の罪を解く作業を始めましょう。

「わたし」は歴史の結実体であり、氏族の代表者でもあれば、せめて「その使命を果たす」特使としての役割を人生に課すくらいの覚悟をもってお励みくださいますよう、この場からお祈りもうしあげます。
(そういう私も同じなのですが、難儀なことはご同情申し上げます)