霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

歴史の「恥部」は、闇に葬られたのか?・・・

2013年05月20日 | 心霊現象
しばらくの間、氷川丸の渡辺先生を訪ねて留守にいたしました。
丁度それと同時するように、「慰安婦」の内容で天下が大騒ぎとなっています。
歴史において「真実とは何か」など、探ることはヤボといえば怒られるでしょうか?・・・。
『歴史認識』って何をいうんでしょうかねぇ~。

第二次大戦のその恥部は、世界中の国が互いに隠しあう。
そして「それ」を「真実」の前に検証し、正そうとはしない。
闇から闇へ葬り去ったものを、今更掘りだして何とする・・・。
時はIT時代、宇宙文明を見据えてここまで来たのだ。忘れてこその供養になる、と心のどこかで思っていはしないだろうか。

「先生」はもう、「氷川丸」に乗ったことさえ忘れている。
ましてやその船に同乗していた「慰安婦」のことなど、聞いても何一つ答えは返ってこない。
確かに「彼女ら」は、看護婦の手伝いをしながらも、祖国に帰る日を待ち続けたと「私」は話を聞きながら思っていた。
しかし、先生が記憶のあるうちに書き溜めた「短歌」の中では、その情景のいくつかが謳われていた。
それを全部「あなた」にあげる、わたしにはもう用がないから・・・、と言ってこの度は頂いて帰ってきた。
「魔の海峡・マカッサル」の句が多い。
なぜだろう?・・・。
第二次大戦中、「そこ」を通過して日本へ帰ることがどれだけ危険であったかは、他の書物でようやく具体性をもって理解できる。
それだからこそ「氷川丸」が損傷少なく、復元可能をもって現在も横浜港に浮かんでいるのは、「奇跡」というしかないと納得できるのである。

では、先生はどんな短歌を詠まれたのか。
そこから何がみえてくるのか。短歌に興味もなく、慰安婦に特別感心もない「戦争を知らない人」も、是非に
お読みください。(字余りや、足らないものもあるようで・・・)


 エンジンの音たえまなし マカッサル魔の海峡を 氷川丸にて

 夜の甲板に上れば 船尾にフカの群れ 海峡は暗く空し ここは戦場

 マカッサル魔の海峡を生還す 氷川丸といふ病院船にて

 あふれたる若さも才も 一瞬の海の藻屑となりし 戦争を見き

 共に往き共に還りし友よりの 賀状うれしき元日の朝

 忘れえぬやさしき心 娼婦という船底にいる人ら ひたすら手伝いしてくれし

 生徒らと修学旅行の横浜で 山下埠頭にて再会する氷川丸


まあ、こんなところで。
さらに次の文をお読みください。

 『暁南丸が襲われたのも、日の出時であった。水平線の一角がチカッと光って、沖からしだいに金色の鱗波
 となるころ、暁南丸は潜水艦の攻撃を受けた。ダダダーン。兵らの足もとから火の玉がうずまいたとたん、 跳ね飛ばされた兵たちは船橋に叩きつけられた。船はたちまち傾斜しだした。
 すでに制海、制空権を米側ににぎられていたバシー海峡での出来事である。
 ハッチを閉めたのは、聖戦をたてまえとした日本軍隊が随伴させた性囚ガールを、おもてむき知られたく
 ないからであった。淫界の地獄に堕としめた側は、彼女たちを人肉としか考えていなかった。
 慰安婦を船底にとじこめたまま、兵から昇進した石郷少佐ともどもに海没する暁南丸は、当時までの日本帝 国そのままの姿といえた。
 暁南丸を呑みこんだバシー海峡では、かつて李玉英のように、狩りこまれ、強制連行された朝鮮人慰安婦た ちが、押し付けられた非業にいきどおり、身を投げた海でもあった。
  そのことを「朝鮮評論」で高成浩はこう述べている。
 「あわれなのは婦女子の場合である。労働補充のために、青壮年の狩だしをするのと同時に、未婚の女子や
 子のない人妻も狩り出された。その中の何千人かは勤労奉仕の名目で日本に送った。ところが、この勤労奉 仕が大変な奉仕で、軍は彼女らを慰安婦として南方に送るために輸送船に積み込んだ。
 何も知らぬ彼女たちに軍部の連中は、彼女たちの肉体を要求した。彼女たちが拒絶すると、彼らは<目的地 についてから捨てるのも、いま捨てるのも一緒ではないか!>といってそれらの提供を迫り、そこではじめ て彼女たちはだまされたことを知った。彼女たちは貞操を失うより死を選んだ。一隻の船から何十何百人も の女性たちが、相次いで怒涛の逆巻く太平洋の荒波に身をおどらせた。これにこりた軍部は、その後いっそ う激しく監視をつけ、ついに白骨と化せしめたのである」(中略)
 慰安婦の死は海だけではなかった。その海峡につづく島のカラハン山岳に消えた朝鮮人慰安婦たちや、島の
 南部で捨てられたナガ駐屯軍の慰安婦たち、それらの話はほかに無数にあり得たことであるのに、生死とも
 ども消息のすべては伝えられていない。
 バシー海峡にはビルマ派遣軍を例にとっただけでも、連隊ごと沈んだ師団も多い。またビルマには四千数  百名といわれる慰安婦が配布されたが、そのうち何名が生きてこの海峡を渡れて帰れたというのだろう。
 大正九年、中国や海峡植民地、そしてフィリッピンなど、アジアで接待業にかかわっていた女は、六千七百
 三十六名もあった。
 女たちは自らの意志というより、だましの女衒にあったものは、密航婦として船の石炭庫に積み込まれ、飢 えと熱気とガスで船底で死ぬ者、水槽タンクで果てる者などもあったし、渡海先の娼館で娼売につかされる 直前に、自殺し終える者などがあったのである。(略)
 終戦まで日本の喪失船舶は正しくは二千三百九十四隻とすると、慰安婦輸送も五千や一万だけだと思う方が
 まちがいであろう。
 ともあれ、百十名の朝鮮人慰安婦を、ハッチの底で悶え死に追い込んだ聖戦とは、いったいなんだったのだ ろう。
 助かったIたちは、台湾高雄港での報告の際、
 「女たちは搭載物件でかまいません。軍人の海没員数だけを書くように」
 と、注意を受けた。
 Iは赤鉛筆で、「軍需品百十個アパリにて搭載、軍需品百九個暁南丸ハッチにて水没、軍需品一個駆潜艇
 内で発狂」
 と、記させられたという 』

この文は、以前私がブログで書いた「徹子の部屋」に出演した女史の名前を失念したという山田女史の著作
『慰安婦たちの太平洋戦争』からひいています。
部屋を探して、ようやく出てきたこの本。
それによれば、女史は「山田 盟子(やまだめいこ)」。本名光子。
1926年生まれ。宮城県登米郡に生まれる。
佐沼高女を経て海軍省航空本部に勤務、のち海軍省マカッサル研究所に移る。
戦後執筆活動に従事。

ほんの一部の、そのまた一つかみの内容でしかないかもしれない「この文」の中に、わたしたちが知らないものがいっぱいある。
ためいき混じりで読むこの内容は、知ればしるほど「日本」がかつて戦争という名のもとで犯した罪が目の前に、あぶり出されてくる。
しかし、これさえも「真実」だろうかと疑う人も多いかもしれない。
靖国に祀られている人はまだしも、名もなく人の扱いさえ受けず、人肉として扱われた「女たちの怨念」は、この世で蓋(ふた)をしその叫びを封印したかにみえるが、霊だけは蓋のしょうがない。
本当に、何があったのでしょう・・・。
それをまず、知らなければならない。
「歴史認識」が違う、と言うことは誰でも言える。
十人十色。10の国があれば10の色がつく。
しかし歴史の事実は、たった一つである。
それを知ってこそ、認識も、謝罪も貢献も可能となる。
さらにタブーが一つある。
「わたしもやったけど、そういうあなたもやったじゃないですか~」。
これを言ってはいけない。事実の前に真摯なる態度を示す。人はどうでもいい。他国はどうでもいい。
知った自分が示す態度。これに人は感動し、指した指を恥ずかしく思うのです。


昔、マグダラのマリアに人は「石」を投げた。
イエスが言った言葉は何か・・・。
「ここにいる人の中で、罪のないものが石を投げよ!」と。


同じ大正、そして昭和の初期。
この言葉をはいた駐日フランス大使がいた。
おとぎ話でも夢の話でもない。かくもあった「日本の姿」を今私達は思い出し、偲びたいと思う。

「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でただ一つ、どうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、
 それは日本人だ」

大正末期から昭和の初めにかけて駐日フランス大使を務めた詩人の「ポール・クローデル」の言葉だそうである。(著書「国家の品格」から)