最後の章となりました。
おおざっぱに書いてきましたが、私だから「こんな雑な書き方」なのはご理解いただけているかと思います。
もっともっとましな、上品で優しい書き方があるでしょう。でもね、私という個性で書かせれば「こう」なるということでしょうね。でも、内容においては違えてはいけないのが鉄則ですから、それだけは信じていただきたく存じます。
終わる前に。
「これ」を解いたという方が、こうおっしゃっていた事を思い出します。
『この全ての内容全部を、それぞれの宗教の用語で書き表せ。そしてそれを、信者の前に提示してみよ。この世はみんながキリスト教者ではない。だから、各国の宗教で書き直せ』と。
さしずめ日本は、「神道」だから、神道風の用語で書き直せということになる。それを国民に提示してみよ・・・、と。
しかし、いまもって誰もやってはいない。
最も日本は、あの世の毛沢東に言わせれば、「日本は宗教を蔑視する国ゆえ」、難題中の難題かもしれないが・・・。
人間は「親なる神」と、姿形は似せて造られはしたが、魂・霊においては「親と似ても似つかない者」と、結果的になってしまった。そしてそれは、今現在に及んでいる。
その「目に見えない魂」を、神の創造の姿、つまり本来の姿・形に再度生みなおす(復活)のが、「キリスト」あるいは「メシヤ」の存在であり、立場であった。
時代や時間経過もさることながら、その「血統」においては、決して譲れないものがある。
つまり「キリスト」は、「神の血統」からでなければ、救いは成立しない、となる。
形のない神が、どうして形ある人間に「血統」を残せるのか・・・?。
聖書「マタイ伝」の最初が「それ」である。
つまり、イエスがなぜ「神の子」、つまり「神の血統」なのか・・・。
その系譜が長々と書いてある。どうすれば、堕落の末裔つまり「カインの末裔」から「神の血統」になるのか・・・。(それを学びたい方は、聖書を熟知されれば分かるが)
そのためには、イエスの血は「大工ヨセフ」ではなく、最も神に近い者の血をひいて、マリアという信仰深い女性の体を通して生まれてきた事実を「隠しながら」も、この世の誕生を図った神でもあった。
それを知らないと、「イエスが神の子」だと言っても、我々と同じではないか~、となる。
「神々しい方」にするためには、天使を使い、聖霊を使って身ごもらせ、とにかく「別格の方」として印象づけなければならなかった。
だから、「聖霊によって身ごもるはずがない!」とする「私の父」のような者は、不信仰者の極みとして、牧師からたしなめられ続けたのだ。(父が電気技師でなければ、「イワシの頭も信心から」で、難なくキリスト者になれたかもしれないのに・・・)
そのイエスと私達は、どこがどう違うのか?・・・。
形は全く同じだ。男か女かの違いがあるだけだ。
しかし彼は「メシヤ」で、今の私達は「救いを必要とする者」になっている。
神の創造原理から言えば、もしあの「エデンの園」の出来事がなかったら、アダムもイブもイエスも、みんな「個性をもった」それも「神の個性を一つ持った」同じ個人(人)として同列に配し、お互いに「有るもの」を発揮しながら、「相手のもつ神の部分」に手を合わせながら、暮らしたはずである。
もし、「キリスト」によって神の国がこの地上に出来たら、「イエス」と「わたし」は、神の前に兄弟姉妹である。「天上天下唯我独尊の個人的立場」は何も変わらない。
「イエス」にない個性が、「あなた」にあるからだ。
夢のような「ざれごと」とお思いか?、さにあらず、これこそが来たるべき地上天国である。
しかし堕落の末裔たる「わたし」は、いわれもない(?)「原罪」の中で「今」いる。
だから「メシヤ」を迎えて、もう一度元の位置(場所)に戻ろう・・・と、こうなるのである。
キリスト教の中では、もう一つ難解な「もの」がある。
それが「三位一体論」である。
詳しく知りたい方は、神学を勉強するか、牧師に聞かれたし。
ただ、私が学んだ中で、頭の悪い私がようやくつかめたもので説明できるとすれば・・・。
神の創造原理は「三位一体」ではなく「四位一体」であった。
上段に「神」、中段に「アダムとイブ」(人)、下段に「子供」という形、つまりこの「ダイヤ」の型が、人が幸せになるという形だった。そして神も親として幸せになるのだ。
そのダイヤの形に「神」と「イエスと聖霊」を、そして「キリスト信者」をあてはめれば次なる時代の到来を告げる「絵」が見えてくる。
たしかにメシアが来た意味はそれもある。しかし、イエスの人としての生涯は「子ども」を持つ一人の男性としての「幸せ」も持っていなければならないし・・・。そして子供をもって、初めて知る親ごころ、という領域を知るのだ。
「三位一体」とは、十字架によって死んだ「肉体を失ったイエス」(霊)が、霊である妻を迎えて結婚し、新たなる霊たちを生み出すという「仕組み」を言ったにすぎない。
だからどんなに数多く「生まれて」も、それは霊的な生まれ、つまりキリスト教を信じるという信者として生まれるだけの話で、血統的には何も変わることはない。
その人個人の問題であって、家族や子孫は続いていかないことになる。(信仰という意味)
牧師の家庭から「神は死んだ!」「神はいない!」と叫ぶ子供『マルクス』が生まれることになるのだ。
世界にキリスト教者が増えること、そのことが目的ではない。
しょせん形(肉体)をこの世に持たない「イエスの子」が、この世にどんなに増しても、天国にはならない。
霊肉をもった親から生まれてこその「血統的子女」であり、天国は「この世」つまり地上に出来ることになる。
神の創造で、「今」私達が受け継いだものは、体という形だけとなっている。
「心・魂・霊」は、親なる神とは似ても似つかない「もの」と化した。
化け物と呼んでもいい、悪魔と表現してもいい。
それが「エデンの園」以来、今日に至るまで続いている。
霊肉ともに「神の子」になるために、「メシヤ・キリスト」が必要となり、その方は「また来る!」のだ。
これが「キリスト教」の教えである。
あなたは、何ものであるか・・・。
どこから来て、どこへ行く?・・・。
もし、あの世で「地獄の門」の前で私が聞いたら、もう「あなた」は答えられるでしょう。
せめて「これ」だけは答えられる、というのが「今回」の『七つの封印された巻物を解く』という内容でした。
今回のこれだって、例えて言えば、ほんの「あんぱんのゴマの一粒」であり、「さしみのつま、あかめの一粒」くらいなものでしょう。(あかめって何?って・・・、調べてみてね)
余談になるが、私はいやいやながら「親の顔をたてて」華道を習ったことがある。
その形が「天・地・人」だった。
三つのバランスがそれぞれの花と、形と色で「みごとな」味を出す。
さらにそこに「その人」の個性が加わる。
だから、最初は先生が生けた「そのまま」を、一度崩して、再度自分で「真似て」生け直すという作業を、来る日も来る日も繰り返したものだった。
(私にだって創造性があるのに・・・、と思いながらも飽き飽きするまで「その作業」が繰り返された)日本の「道」と名のつくものは、案外それが多いようだ。
そして「基本」が身に着いていく。体が覚えていくのだ。
私が習ったのは「池坊流」でした。それでも「免許皆伝」が頂けたのだから、親には感謝している。
いつか来る日。それは「いつ」とは分からないが、必ず来る日。
来たる「良き日」が一日も早まるように、祈りながら、終わりにいたします。
長い時間、ありがとうございました。
(これで「あなた」はもう、「知らなかった!」とは、言わせませんぞ!・・・ふふふ)
おおざっぱに書いてきましたが、私だから「こんな雑な書き方」なのはご理解いただけているかと思います。
もっともっとましな、上品で優しい書き方があるでしょう。でもね、私という個性で書かせれば「こう」なるということでしょうね。でも、内容においては違えてはいけないのが鉄則ですから、それだけは信じていただきたく存じます。
終わる前に。
「これ」を解いたという方が、こうおっしゃっていた事を思い出します。
『この全ての内容全部を、それぞれの宗教の用語で書き表せ。そしてそれを、信者の前に提示してみよ。この世はみんながキリスト教者ではない。だから、各国の宗教で書き直せ』と。
さしずめ日本は、「神道」だから、神道風の用語で書き直せということになる。それを国民に提示してみよ・・・、と。
しかし、いまもって誰もやってはいない。
最も日本は、あの世の毛沢東に言わせれば、「日本は宗教を蔑視する国ゆえ」、難題中の難題かもしれないが・・・。
人間は「親なる神」と、姿形は似せて造られはしたが、魂・霊においては「親と似ても似つかない者」と、結果的になってしまった。そしてそれは、今現在に及んでいる。
その「目に見えない魂」を、神の創造の姿、つまり本来の姿・形に再度生みなおす(復活)のが、「キリスト」あるいは「メシヤ」の存在であり、立場であった。
時代や時間経過もさることながら、その「血統」においては、決して譲れないものがある。
つまり「キリスト」は、「神の血統」からでなければ、救いは成立しない、となる。
形のない神が、どうして形ある人間に「血統」を残せるのか・・・?。
聖書「マタイ伝」の最初が「それ」である。
つまり、イエスがなぜ「神の子」、つまり「神の血統」なのか・・・。
その系譜が長々と書いてある。どうすれば、堕落の末裔つまり「カインの末裔」から「神の血統」になるのか・・・。(それを学びたい方は、聖書を熟知されれば分かるが)
そのためには、イエスの血は「大工ヨセフ」ではなく、最も神に近い者の血をひいて、マリアという信仰深い女性の体を通して生まれてきた事実を「隠しながら」も、この世の誕生を図った神でもあった。
それを知らないと、「イエスが神の子」だと言っても、我々と同じではないか~、となる。
「神々しい方」にするためには、天使を使い、聖霊を使って身ごもらせ、とにかく「別格の方」として印象づけなければならなかった。
だから、「聖霊によって身ごもるはずがない!」とする「私の父」のような者は、不信仰者の極みとして、牧師からたしなめられ続けたのだ。(父が電気技師でなければ、「イワシの頭も信心から」で、難なくキリスト者になれたかもしれないのに・・・)
そのイエスと私達は、どこがどう違うのか?・・・。
形は全く同じだ。男か女かの違いがあるだけだ。
しかし彼は「メシヤ」で、今の私達は「救いを必要とする者」になっている。
神の創造原理から言えば、もしあの「エデンの園」の出来事がなかったら、アダムもイブもイエスも、みんな「個性をもった」それも「神の個性を一つ持った」同じ個人(人)として同列に配し、お互いに「有るもの」を発揮しながら、「相手のもつ神の部分」に手を合わせながら、暮らしたはずである。
もし、「キリスト」によって神の国がこの地上に出来たら、「イエス」と「わたし」は、神の前に兄弟姉妹である。「天上天下唯我独尊の個人的立場」は何も変わらない。
「イエス」にない個性が、「あなた」にあるからだ。
夢のような「ざれごと」とお思いか?、さにあらず、これこそが来たるべき地上天国である。
しかし堕落の末裔たる「わたし」は、いわれもない(?)「原罪」の中で「今」いる。
だから「メシヤ」を迎えて、もう一度元の位置(場所)に戻ろう・・・と、こうなるのである。
キリスト教の中では、もう一つ難解な「もの」がある。
それが「三位一体論」である。
詳しく知りたい方は、神学を勉強するか、牧師に聞かれたし。
ただ、私が学んだ中で、頭の悪い私がようやくつかめたもので説明できるとすれば・・・。
神の創造原理は「三位一体」ではなく「四位一体」であった。
上段に「神」、中段に「アダムとイブ」(人)、下段に「子供」という形、つまりこの「ダイヤ」の型が、人が幸せになるという形だった。そして神も親として幸せになるのだ。
そのダイヤの形に「神」と「イエスと聖霊」を、そして「キリスト信者」をあてはめれば次なる時代の到来を告げる「絵」が見えてくる。
たしかにメシアが来た意味はそれもある。しかし、イエスの人としての生涯は「子ども」を持つ一人の男性としての「幸せ」も持っていなければならないし・・・。そして子供をもって、初めて知る親ごころ、という領域を知るのだ。
「三位一体」とは、十字架によって死んだ「肉体を失ったイエス」(霊)が、霊である妻を迎えて結婚し、新たなる霊たちを生み出すという「仕組み」を言ったにすぎない。
だからどんなに数多く「生まれて」も、それは霊的な生まれ、つまりキリスト教を信じるという信者として生まれるだけの話で、血統的には何も変わることはない。
その人個人の問題であって、家族や子孫は続いていかないことになる。(信仰という意味)
牧師の家庭から「神は死んだ!」「神はいない!」と叫ぶ子供『マルクス』が生まれることになるのだ。
世界にキリスト教者が増えること、そのことが目的ではない。
しょせん形(肉体)をこの世に持たない「イエスの子」が、この世にどんなに増しても、天国にはならない。
霊肉をもった親から生まれてこその「血統的子女」であり、天国は「この世」つまり地上に出来ることになる。
神の創造で、「今」私達が受け継いだものは、体という形だけとなっている。
「心・魂・霊」は、親なる神とは似ても似つかない「もの」と化した。
化け物と呼んでもいい、悪魔と表現してもいい。
それが「エデンの園」以来、今日に至るまで続いている。
霊肉ともに「神の子」になるために、「メシヤ・キリスト」が必要となり、その方は「また来る!」のだ。
これが「キリスト教」の教えである。
あなたは、何ものであるか・・・。
どこから来て、どこへ行く?・・・。
もし、あの世で「地獄の門」の前で私が聞いたら、もう「あなた」は答えられるでしょう。
せめて「これ」だけは答えられる、というのが「今回」の『七つの封印された巻物を解く』という内容でした。
今回のこれだって、例えて言えば、ほんの「あんぱんのゴマの一粒」であり、「さしみのつま、あかめの一粒」くらいなものでしょう。(あかめって何?って・・・、調べてみてね)
余談になるが、私はいやいやながら「親の顔をたてて」華道を習ったことがある。
その形が「天・地・人」だった。
三つのバランスがそれぞれの花と、形と色で「みごとな」味を出す。
さらにそこに「その人」の個性が加わる。
だから、最初は先生が生けた「そのまま」を、一度崩して、再度自分で「真似て」生け直すという作業を、来る日も来る日も繰り返したものだった。
(私にだって創造性があるのに・・・、と思いながらも飽き飽きするまで「その作業」が繰り返された)日本の「道」と名のつくものは、案外それが多いようだ。
そして「基本」が身に着いていく。体が覚えていくのだ。
私が習ったのは「池坊流」でした。それでも「免許皆伝」が頂けたのだから、親には感謝している。
いつか来る日。それは「いつ」とは分からないが、必ず来る日。
来たる「良き日」が一日も早まるように、祈りながら、終わりにいたします。
長い時間、ありがとうございました。
(これで「あなた」はもう、「知らなかった!」とは、言わせませんぞ!・・・ふふふ)