霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

キリスト論

2013年10月28日 | 心霊現象
最後の章となりました。
おおざっぱに書いてきましたが、私だから「こんな雑な書き方」なのはご理解いただけているかと思います。
もっともっとましな、上品で優しい書き方があるでしょう。でもね、私という個性で書かせれば「こう」なるということでしょうね。でも、内容においては違えてはいけないのが鉄則ですから、それだけは信じていただきたく存じます。

終わる前に。
「これ」を解いたという方が、こうおっしゃっていた事を思い出します。
『この全ての内容全部を、それぞれの宗教の用語で書き表せ。そしてそれを、信者の前に提示してみよ。この世はみんながキリスト教者ではない。だから、各国の宗教で書き直せ』と。
さしずめ日本は、「神道」だから、神道風の用語で書き直せということになる。それを国民に提示してみよ・・・、と。
しかし、いまもって誰もやってはいない。
最も日本は、あの世の毛沢東に言わせれば、「日本は宗教を蔑視する国ゆえ」、難題中の難題かもしれないが・・・。


人間は「親なる神」と、姿形は似せて造られはしたが、魂・霊においては「親と似ても似つかない者」と、結果的になってしまった。そしてそれは、今現在に及んでいる。
その「目に見えない魂」を、神の創造の姿、つまり本来の姿・形に再度生みなおす(復活)のが、「キリスト」あるいは「メシヤ」の存在であり、立場であった。
時代や時間経過もさることながら、その「血統」においては、決して譲れないものがある。
つまり「キリスト」は、「神の血統」からでなければ、救いは成立しない、となる。
形のない神が、どうして形ある人間に「血統」を残せるのか・・・?。
聖書「マタイ伝」の最初が「それ」である。
つまり、イエスがなぜ「神の子」、つまり「神の血統」なのか・・・。
その系譜が長々と書いてある。どうすれば、堕落の末裔つまり「カインの末裔」から「神の血統」になるのか・・・。(それを学びたい方は、聖書を熟知されれば分かるが)
そのためには、イエスの血は「大工ヨセフ」ではなく、最も神に近い者の血をひいて、マリアという信仰深い女性の体を通して生まれてきた事実を「隠しながら」も、この世の誕生を図った神でもあった。
それを知らないと、「イエスが神の子」だと言っても、我々と同じではないか~、となる。
「神々しい方」にするためには、天使を使い、聖霊を使って身ごもらせ、とにかく「別格の方」として印象づけなければならなかった。
だから、「聖霊によって身ごもるはずがない!」とする「私の父」のような者は、不信仰者の極みとして、牧師からたしなめられ続けたのだ。(父が電気技師でなければ、「イワシの頭も信心から」で、難なくキリスト者になれたかもしれないのに・・・)
そのイエスと私達は、どこがどう違うのか?・・・。
形は全く同じだ。男か女かの違いがあるだけだ。
しかし彼は「メシヤ」で、今の私達は「救いを必要とする者」になっている。
神の創造原理から言えば、もしあの「エデンの園」の出来事がなかったら、アダムもイブもイエスも、みんな「個性をもった」それも「神の個性を一つ持った」同じ個人(人)として同列に配し、お互いに「有るもの」を発揮しながら、「相手のもつ神の部分」に手を合わせながら、暮らしたはずである。
もし、「キリスト」によって神の国がこの地上に出来たら、「イエス」と「わたし」は、神の前に兄弟姉妹である。「天上天下唯我独尊の個人的立場」は何も変わらない。
「イエス」にない個性が、「あなた」にあるからだ。
夢のような「ざれごと」とお思いか?、さにあらず、これこそが来たるべき地上天国である。
しかし堕落の末裔たる「わたし」は、いわれもない(?)「原罪」の中で「今」いる。
だから「メシヤ」を迎えて、もう一度元の位置(場所)に戻ろう・・・と、こうなるのである。


キリスト教の中では、もう一つ難解な「もの」がある。
それが「三位一体論」である。
詳しく知りたい方は、神学を勉強するか、牧師に聞かれたし。

ただ、私が学んだ中で、頭の悪い私がようやくつかめたもので説明できるとすれば・・・。
神の創造原理は「三位一体」ではなく「四位一体」であった。
上段に「神」、中段に「アダムとイブ」(人)、下段に「子供」という形、つまりこの「ダイヤ」の型が、人が幸せになるという形だった。そして神も親として幸せになるのだ。
そのダイヤの形に「神」と「イエスと聖霊」を、そして「キリスト信者」をあてはめれば次なる時代の到来を告げる「絵」が見えてくる。
たしかにメシアが来た意味はそれもある。しかし、イエスの人としての生涯は「子ども」を持つ一人の男性としての「幸せ」も持っていなければならないし・・・。そして子供をもって、初めて知る親ごころ、という領域を知るのだ。

「三位一体」とは、十字架によって死んだ「肉体を失ったイエス」(霊)が、霊である妻を迎えて結婚し、新たなる霊たちを生み出すという「仕組み」を言ったにすぎない。
だからどんなに数多く「生まれて」も、それは霊的な生まれ、つまりキリスト教を信じるという信者として生まれるだけの話で、血統的には何も変わることはない。
その人個人の問題であって、家族や子孫は続いていかないことになる。(信仰という意味)
牧師の家庭から「神は死んだ!」「神はいない!」と叫ぶ子供『マルクス』が生まれることになるのだ。
世界にキリスト教者が増えること、そのことが目的ではない。
しょせん形(肉体)をこの世に持たない「イエスの子」が、この世にどんなに増しても、天国にはならない。
霊肉をもった親から生まれてこその「血統的子女」であり、天国は「この世」つまり地上に出来ることになる。
神の創造で、「今」私達が受け継いだものは、体という形だけとなっている。
「心・魂・霊」は、親なる神とは似ても似つかない「もの」と化した。
化け物と呼んでもいい、悪魔と表現してもいい。
それが「エデンの園」以来、今日に至るまで続いている。

霊肉ともに「神の子」になるために、「メシヤ・キリスト」が必要となり、その方は「また来る!」のだ。
これが「キリスト教」の教えである。


あなたは、何ものであるか・・・。
どこから来て、どこへ行く?・・・。

もし、あの世で「地獄の門」の前で私が聞いたら、もう「あなた」は答えられるでしょう。
せめて「これ」だけは答えられる、というのが「今回」の『七つの封印された巻物を解く』という内容でした。
今回のこれだって、例えて言えば、ほんの「あんぱんのゴマの一粒」であり、「さしみのつま、あかめの一粒」くらいなものでしょう。(あかめって何?って・・・、調べてみてね)

余談になるが、私はいやいやながら「親の顔をたてて」華道を習ったことがある。
その形が「天・地・人」だった。
三つのバランスがそれぞれの花と、形と色で「みごとな」味を出す。
さらにそこに「その人」の個性が加わる。
だから、最初は先生が生けた「そのまま」を、一度崩して、再度自分で「真似て」生け直すという作業を、来る日も来る日も繰り返したものだった。
(私にだって創造性があるのに・・・、と思いながらも飽き飽きするまで「その作業」が繰り返された)日本の「道」と名のつくものは、案外それが多いようだ。
そして「基本」が身に着いていく。体が覚えていくのだ。
私が習ったのは「池坊流」でした。それでも「免許皆伝」が頂けたのだから、親には感謝している。



いつか来る日。それは「いつ」とは分からないが、必ず来る日。
来たる「良き日」が一日も早まるように、祈りながら、終わりにいたします。
長い時間、ありがとうございました。
(これで「あなた」はもう、「知らなかった!」とは、言わせませんぞ!・・・ふふふ)


予定論

2013年10月27日 | 心霊現象
はい、今日は「予定論」です。
「七つ」の六番目に当たります。
さて、昨日の問題の答えは、もちろんもうお分かりになっていますよね。
答えは「責任分野・責任分担」です。それも「人間における責任」です。

この封印を解いたという方が、ある日神様に聞いた。
「天国は、いつ、この地上にくるのでしょうか?」と。その答えは「こう」だったという。
『わたしは、知らない・・・』。
えっ、神様も分かんないの?、何それ!・・・、とおっしゃるなかれ。
当たり前の答えなのです。
では「ケセラセラ」の内容について、申し上げれば。
それは、まさしく「あなたの先のことは、わたしには分からない。だって、あなたの責任分野は、親といえどもいかんともしがたいもの。あなた次第ですよ」、となる。

これが「予定」です。
まさしく「予定は未定」と言うではありませんか。
「分からない」のです。しかし、だからといって「果たせないわけではない」。
予定したことは、必ず「成る」ことが目的ではあるが、「いつ」と言われても、『人間次第』。
その人間も三段階の成長期を経過しなければ、「成人」とはならない。
その期間に、必須条件として与えたのが、責任分野であり、神の愛であり、人間が「神の子」となる他のものにはない「内容」であった。(人は神のロボットではないという証拠)
万物の霊長として、神に代わって「この世」と「あの世」を全て治めるには、人間しかない。
神はそう造られた。他の創造物で、責任分野を与えられたものは、どこにもない。

「あなた次第だ。先のことはわたしでも分からない」という神の答えは、しごく当然である。
この道を越えて来い!・・・、神の子となる道はこれしかない。
そうしてエデンの園での「戒め」が与えられた。
「ダメだ」ということを、なぜやるのか?・・・。
天使ごときに「唆(そそのか)されて、なんという「ざま」だ!。これが「神」はもちろん、万物の「なげき」であったと書いてある。
聖書という書物は、全て「人間に与えられた責任」と、「その結果」が書かれたものであるといっていい。
そしてそれも、ことごとく失敗したことの記述であった。
エデンの園以降は、人の復活をめざした神と人と、「サタン」との闘いの内容であり、負けた結果が延々と綴られている「見たくもない」「読みたくもない」「知りたくもない」代物が、聖書となった。
なぜ「人」は、こうも無知であり、愚かであったのか・・・。


では、神の理想と実現は「無」に帰すのか・・・。
否である。神のみ旨(むね)、つまり神が人に与えた目的成就の予定は「絶対」であるが、その実現に関しては予定でしかない、ということになる。
従来の「予定論」あるいは「予定説」は、全て神の予定によるものだとした。
であれば、「イエスの十字架」も「神の予定である」となる。
人間の一生も、国家の興亡も、全てが神の手の中にあり「予定」されたものである、とすれば、人がどんな努力をしょうが、運命を変えようともがこうが、無意味なことである。
これが「運命論者」が唱えた間違った人生論、つまり「運命論」となった。
しかし、聖書では、「求めよ、そうすれば与えられるであろう・・・・」とある。
「努力してごらん。運命の扉は開くんだよ!」と教えている。
「人事を尽くして、天命を待つ(知る)」。これこそが、天(神)と人のかかわりを教えている。
人は全部ではないが、一部だけその「責任」を果たせば、神(天)の恩恵を受けることが出来ると、教えている。インドや中国における「仏教」や「儒教」も「それ」を教えている。

「天国建国」という絶対的悲願は「神」のこの一言で分かる。
『わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。・・・はかったゆえ、必ず行う』と。

神の願う人間たちによる建国を「み旨成就」とすれば、それはどのようになるのか・・・。
それは、「神の責任分野」と「人間の責任分野」が合算(?)されて成就する。
例えていえば、神側が「95%」であるならば、「人間側」は「5%」くらいになるらしい。
その割合は、親と子で分け合って、こんな分担になるだろうという目安である。
しかし「人間側」は、たった「5」ではない。これが人間の「100%」にあたるのだ。
『人事を尽くす』とはそういう事である。その結果は「運を天にまかす」、つまり『天命』を待つ。
このダンから言えば、「アダムの時」も、「ノアの時」も、「アブラハムの時」も「イエスの時」も
そうであった。
それぞれの者たちが「責任分野」を果たしただろうか・・・。
「まさか、このわたしが、神の摂理を担当している?・・・」、その「まさか」の中で、サタンの目を盗みながら「事は進められていく」。
はっきりと、「こうこうこうだから、こうするのがあなたの責任分野ですよ」とは、誰も教えられていない。自分の分野は、自分で悟るしかない。
自分はどうすればいいのか・・・、祈れば分かるようになっている。(もちろん神にた対して祈るしかない。他人に聞いて分かるはずもない)
神の次には「サタン」が一番よく知っている。そして成就する前に、必ず邪魔をし、妨害をしかけて目的成就を阻もうとするのだ。(そんなサタンに、わたしはどうしたらいいの?などと聞くバカもいまいが)

結果、予定された者はそろいもそろって失敗していった。
イエスは最初っから、「あの者たち」を弟子にするつもりはなかった。(12弟子のこと)
最初の第一弟子は、もちろん「洗礼ヨハネ」だった。神の予定でもあった。
そしてイスラエルの「パリサイ人たち」「律法学者たち」こそが、イエスの取り巻きになるべき予定された人々である。なぜ彼らは、誰のために、何のために「預言」を信じ、ユダヤ教を学んできたのか・・・。
すべては、来たるべき「主」を迎えるための準備ではなかったのか。
しかし、最終的には全ての者たちが裏切っていった。
仕方なく、イエスは彼らに代わるべき者たちを人選するべく、町や村を歩き回った。
取税人や漁夫、つまり「卑しい」とされた職業のものや、教養とは程遠い無学な者たちに声をかけ、ようやく弟子となるものを得た。(イエスの心はこうだったろう。「よもや、あなたがたのような者たちと、神のみ旨に携わろうとは・・・」と。彼らを蔑んで言ったことではない。予定された者たちが、こうも責任を放棄するとは・・・。いや、彼らの無知に泣かれたのだ)

高度な神学など通用しない「弟子たち」をつれて、やさしい言葉で「神のみ旨」を解く「イエス」。
周りには「娼婦」さえもいた。当然その群れは、高貴ではない。一番底辺の民の集まりが、常にイエス」を取り囲む。
「貧しいものは、幸いである」「幼子のような心を持つものは、幸いである」・・・と、解く。
特権階級の者たちには、そんな言葉は分からない。「何言ってやがる!」と吐き捨てて終わりである。
革命者とみられたイエスは、当然、「国家の転覆」、さもなければ「貴族層の廃絶」を目論む者とみられてゆく。だから群衆が多くなればなるほど、畏れられて警戒心をもってみられていくようになる。彼を「神の子」だと証した「洗礼ヨハネ」は、何が何だか分からなくなって、こともあろうにイエスに質問する有様であった。
「あなたが本当に、来たるべき方なのでしょうか?・・・」と。
本来自分を自分で証明する事は、最悪の状態というのはお分かりになるだろうか。
「わたしは、神の子です、どうぞよろしく」と名刺を出したら、相手は何とする。
(ふふふ、こいつは狂人か?)
「わたしは皇族なんです」といって、ボロをまとって自分で言ったら・・・。
周りには誰も付き人はいない。(ボロの皇族かぁ。ま、認知症の徘徊の途中ってとこかよぅ)
ね、誰も信じないでしょ。社長もしかり、金持ちもしかり、「わたし、金持ちなんで」といっても、
自分で言ったら「頭がおかしい」人になってしまう。
「わたし、失敗しないんで・・・」は、TVドラマの話。
周りは「いかがわしい女」としか見ない。


と、いう訳で、予定論は「神が人間に与えられた責任分野」の内容が、裏目に出た結果の話で終了いたします。
今現在も、人間に与えられた「責任分野」は、りっぱに生きています。
何もキリスト教になるとか、聖書を学ぶとか、どこかの教団に所属するとかいうことではありません。
せめて、親なる「神」を知る行動を起こすというくらいは、「あなた」の責任分野の範囲内で「今」出来ることかと存じます。
もし、もしも守護霊の言葉を聞いてしまった「あなた」は、責任分野が「その時」から発生しています。
自分を中心に氏族の復帰摂理があり、その中身を覗くとき、あなたはすでに「予定」されたと思っていただきます。やるも、やらないも自由といえば自由でしょう、が霊界にあった目的成就は、ことによったら「風前の灯」かと・・・。
時代が経過した時、「あなた」はその報告の中身を、どうお書きになるのだろうか?・・・。


『過去は変えられないけれど、未来は変えられるのです!』

しかり、しかり、しかり。
全くその通りです。予定はあくまでも未定であれば、「これから」が全ての出発であり「勝負」のしどころでしょう。
予定論は考えようによっては、希望の明るい光のようなもの。
ゆめゆめ諦めずに、「変身」してでも未来につなげる術を、心に、体に持ってがんばってくださいませ!

次は「キリスト論」で終了です。

昨日、再放送のTV番組で、「式年遷宮」の模様をみました。
それに携わった方々の解説を交えて、詳しく話された内容もさることながら、一つ気が付きました。
そうか、日本の神さまの「おおもと」である『天照大御神』。
この「霊」に聞けば、きっと何かを答えてくれるはずだ、と。(20年ぶりに、住まいも新しくなったことだし・・・)
それを聞き出した、という本が出ているらしい。(例の大川氏)
が、聞けるものならば「自分」で聞いてみたいものです。
現在の日本を見る「天照大御神」のお心は、笑っておられるやら、泣いておられるやら・・・。
「生ける神」であれば答えられるだろうし、「死せる神」であれば答えは無いだろう・・・。
日本の神官は、何をどう聞いているのでしょうか・・・。
不思議と国民の耳には、まだ届いてこないのですが、ねぇ~。
みなさまは、どうお考えでしょうか・・・。
一緒になって、聞いてみませんか。日本の行く末は、どのような予定で、今どこまで来たのでしょうか・・・、などなど。



復活論

2013年10月26日 | 心霊現象
題名が増々それらしくなっていきます。
「なんだ、これじゃ牧師になるための勉強じゃん!」と、おっしゃいますか?。
はいはい何とでも。でもね、「七つ」をマスターしないと、この世の「本当でないもの」を見分けることが出来ません。だから結局、「本当でないものを、本当のもの」として生きてしまう。
本当の「ものさし」を、いつ自分の手にするのですか?。
そう「これ」さえも、本当かニセものかを吟味し、選ぶ権利は「あなた」にあります。
ただこれだけは、申し上げて次にすすみます。
「わたしを選びそこなうな!」と、声がする・・・。(わたしとは「神」のことです)


ある日「あなた」は、道を歩いている。
と、その時通りすがりの者に「こう」言われる。「わたし」を指さし・・・。
『あなたは生きているとは名ばかりで、実は死んでいる!』と。
なんだと、この野郎!、「バシッ!」(相手をひっぱたいた音)。

しかし、この世では「犯罪」になる「あなた」。(相手が訴えればのはなし)
だが、そう言われて怒らない人はいないだろう。この無礼者めが!・・・と。

残念ながらその内容は、天から見れば当たっている。
さて、今日の復活論の内容こそ、「それ」なのです。
復活とは、文字通り「再び活きる」という意味。
なぜ?、はい、一度死んだからなのです。どこで?、はい、「エデンの園」で。
そう、つまり「死ぬ」という概念(意味)が、「肉体的死」を表してはいないということになる。
「それを食べたら、必ず死ぬ。だから食べるな」と言われた「神の言葉」は、何が死ぬと言われたのか・・・。
さらに「ルーシェル」はこう言った。「食べても死なない。むしろ目が開けて神のようになる」と。
ここにまた「二つの死」を現した言葉があった。
この二つの死に対する表現は、聖書のいたるところに出てくる。
その最たるものが「これ」だ。
『その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい』というイエスの言葉である。
常識人はとっさに「こう」思う。
死人が死人を葬れるか!・・・、と。
エデンの園を見ればわかる。
「実」を食べた二人は、肉体的な死は確かにない。生きていたではないか。
しかし、神は死ぬといわれた。となると二人は確実に「死んだ」ことになる。
何が死んだのだろう、どこが死んだのだろう・・・。
答えは「魂」であり、「霊」である。「霊的」に死にますよ、だから注意せよ、という親の戒めだった。(死とは「霊的無知」をいったのだ)
そうして「人」は何千年も「死んだ魂」のまま生き続けて、今に至っているのだ。
この世のもの、つまり肉体的に積み上げた「死人」が生き続けて、その後肉体を失い、灰になったにすぎない。
では「魂」はどこへいった?。
死んだまま、霊界に行って、そのまま存続している。何も分からないで。

『だから、もう一度、活きよう!』・・・、これがメシヤを迎えて全ての人間が生きる道を辿るという、いわば「ニセの人類歴史」始まって以来の『一大プロジェクト』となった。(復帰摂理という)
ケルビムと回る炎の剣で「行く道」を塞がれた「神」と「人」が、再び辿る「人の生まれかわりの道」が、これである。(輪廻転生とは意味が全く違うことはお分かりになろうか、と)

それにはいろいろの制約、条件がある。
メシヤが来る時代的条件。
その「言葉・み言(みことば、という)」を聞き、信じるという条件
さらにそれを実践するという条件。そのとき、地上人に霊界人も働きかけ、共に復活する。
それは「三段階」を経て、復活する。

三段階の中には、「み言」の段階がある。
人間の歴史、時間の経過とともに、それなりの心霊の成長、高まりがある。
それに合わせて、言葉、内容、表現が変わってくるのは解せる。
第一段階は「モーセの十戒」の内容になる。(あれ以来、初めて神から受けた戒めだ)
第二段階は「イエスの言葉」つまり『福音』と呼ばれている内容である。
弾三段階は「再臨主の言葉」だ。これから聞く内容になる。
ちなみにそれぞれを、「旧約のみ言」「新約のみ言」「成約のみ言」とよぶ。
さらに「律法・目には目を」から「福音・許し」、「新しいみ言」へと向上していくのだ。
法さえない昔むかしは、ひたすら「供え物」をせよという神の言葉によって、人は平伏し信仰を現したにすぎない。
人は神と、いや親と「言葉」をもって交流するように造られてきた。
最後は言葉が「神」であり、「人」となる。
その行き交う「言葉」をこそ、神のものと、サタンのものとを「聞き分ける」ことこそが、生きるか死ぬかの分岐点になる。(エデンの園の再現は、そういう意味で「今」である)
「甘い言葉に気を付けろ!」とは、言い得て妙であり、エデンの園以来、人を悪へと誘っていく「手段」となってきたのだ。

結論を申し上げる。
「復活」とは、一度死んだ人間が「再び活きること」を言う。

では、生きて運よく「メシヤ」に出会える者はどの位いるか?
今から2000年前のイスラエルを見ればわかる。
目の前に現れても、「イエス」あるいは「メシヤ」と認識し、信じなければならない。
十字架に処刑されていく「イエス」を見た、という人物は五万といるだろう。
しかしその者達は、「殺せ!」と叫ぶ群衆である。運が良いどころか、歴史に汚点を残す天敵犯罪者となった。
だから「会えばいい」というものではない。
過去、聖職者たちはどうふるまったか・・・。歴史の事実が如実に教えている。
『メシヤは、天から雲に乗って現れる』という聖書の言葉を、文言通りに信じて、いまだに天を仰ぎ、雲の間を見続ける者がいると?・・・。
これも比喩である。人間、それも肉体をもった人が、そんな現れ方をしたら「魔術師」になる。
それとも「イリュージョン」の「ひきだてんこう氏」の最高の見せ場だとでも・・・?。

来るには来るが、空でも天でもないし、雲にも乗らない。
地上に、母なる女性から生まれ、人の中に現れる。気を付けて見ていなければ、たかだか人の寿命が100年として、あっという間に「この世」を去ってゆかれる運命である。
「メシヤ」は、すでに現れ、そしてもはや「この世」にはいませんよ~、ということにならない
ように、「知る」ことこそ大事である。
「知らなかった・・・」ということ、そして「誰も教えてくれなかった・・・」ということには、恨みが残る。
ゆえに「神」は全ての者たちに、必ず伝えよと申しつけておられる。
信じるか、信じないかは「あなた」の自由である。
神の親ごころは、必ず一人として「もれる」ことなく伝える責任があるのだ。
聞いたけど、信じなかった・・・、これは「あなた」の責任である。


こうして「メシヤ」も地上に来られ、「み言(みことば)」も地上から始まる。
ゆえに「霊界」の救いは、地上を通さずには果たせない。
彼ら霊人たちが、こぞって「地上」をめがけてくるのは、そういう意味からでもある。
「救われたい!」と願う霊人はそれでいいが、「ふん!そんなもの」と思う霊人、つまり最も遠い存在の(何から?・・・、神から、あるいは救いから遠いという意味)救いはあるのか?・・・。
ん・・・・??・・・。(これが、答えである)
しかし、救われないままではない。
悪霊といわれる霊達も、もとは「神の子」である。いや、神の子の候補者だったのだ。
いつか「人の道」を通れば、必ず達成できる日が来る。来なければ、神は失敗の神であり、失敗の親にならざるをえない。

しかし、「悪霊の復活」は最も難儀なことであり、実に難しい。
過去の話「村上の武士」がそうであったように、400年もの間同じところに留まり、切腹を繰り返していたではないか。
さらに、あの「マルクス」も、1800年代にしか意識が留まっていない。そこしか分からない。
自分が生きて、知っていること以外の状況は、何ももっていない。
他人への恨みと嫉妬で明け暮れる(?)日々を、送っている(?)にすぎない。

悪霊の救い(復活)は、たった一つある?としたら、それは「地上人の心」一つにかかってくる。
「右のほほを打たれたら、左のほほをも打たせなさい」(なんだって)
「上着を奪うものがいたら、下着をも脱いで与えなさい」(な、な、なんと・・・)
「最も愛する子を殺されたら、次の愛する子をも差し出しなさい」(バカか、おまえ!・・・)
そして「怨讐を愛しなさい・・・」となる。(私、申し訳ないけど、一抜けま~す)

これが、究極の救いの内容とか・・・。

『復讐の鬼』の私には、遠い、実に程遠い内容のものでした。
またまた例に出します。悪霊の復活(救い)とはね、例えれば「こう」なるという事です。
あの「坂本弁護士一家殺人事件」。その被害者の母親に、「オーム真理教も松本教祖」も愛しなさいと言うようなものだ。(許す以上に、愛するのだ)
それだけ、難しいのが「悪霊」の復活だということでしょう。
ものの例えですからね。そんなイメージで覚えておいてくださいませ。


霊界も地上界も、今「右往左往」しています。
せめて守護霊たちでも救えたら、この世は「二倍」もいや「百倍」も「まし」になるはず。
こんな「二倍返し」「百倍返し」なら、喜んで受けますが・・・。
霊界からどんなに訴えても、つついても、地上は分かってくれない。
みーんな知らん顔では、それこそ「彼ら」からの二倍返し、百倍返しが「いつか」必ず来る。
TVドラマだと浮かれていては、明日は我が身ですぞ。あの世、特に先祖様たちは、虎視眈々と子孫を(いい意味で)狙っている。
そして「ほら!」、白羽の矢が飛んでくる。それも「三本の矢」なら、もっといい。
守護霊の存在も、その名もしらない人。これからでも遅くはない。急げ急げ、いそげイソゲ、ISOGE!!


次回は「予定論」です。(あと二つですから、がんばれ!)
宿題を一つ。「次の歌詞」は「ケセラ・セラ」という流行歌の内容。
( )は替え歌です。いったい何をいいたいんでしょうか?、「答え」は何?

♪ わたしが小さい時 ママに聞きました
  美しい娘に なれるでしょか~
  ケセラセラ なるようになるわ
  先のことなど 分からない 分からない

 (わたしが小さい時 神さまに聞きました
  正しい娘に なれるでしょか~
  ケセラセラ なるようになるわ
  先のことなど 分からない 分からない )


はい、次回をお楽しみに~。


メシア降臨とその再臨の目的

2013年10月21日 | 心霊現象
もう言わなくてもいい位「答え」は見えている。
「あっ、ハメられちゃったか?・・・」と、お思いか?。
ま、最後までお読みくださいましな。
キリスト教でなくても「世を救う方」がこの世に来る、という思想はあちこちにある。
つまり「名医」は来るのか?。それは「どこ」から?、さらに「何時だ?」、そして「誰?」だ。
TVドラマではないが、「名医・ドクターX」は地球規模の復帰の使命を負って、やって来る。
しかしこの「X氏」は、残念ながら女ではない。「男」である。
なぜ? アダムの失敗を償う者であるからだ。イエスはいわば「第二のアダム」であり、再臨する「ドクターX」は、第三のアダム、つまり『第三の男」』となる。
(古い映画など、知っている人はほんのわずかでしょうねぇ・・・「第三の男」なんて)


聖書によれば、イスラエルという民族は、アブラハムの子孫であり、神の祝福をうけた結果の民族であった。「あの星のように増えて繁栄せよ」という神の言葉通りである。
その民族思想が「メシア思想」だった。
『神は将来、イスラエルを救う救世主を王として降臨させる』
その「思想」だけが、彼らの生きがいだった。
マラキが預言して400年後にメシアは来た。しかし、それが誰なのかは人民の心霊の高さによってしか見極めることが出来ない。宗教界のトップが「この方だ!」と言えば、人民はなだれをうって、その方へと集まるだろうが、もし逆のことが起こったら、「その人」は抹殺されかねない。
そんな時代背景の中で「メシア」が生まれていいのか・・・。
ここに一つの謎がある。
終末とは、時代が混迷した時でもある。人民の心が「右往左往」するということでもある。付和雷同である。自分で決めなければならない「もの」が決められない。だから権力者や知識人のいう方向が正しいかに見える。そんな混迷の時代。イエスが生まれてしまった。
宗教が腐敗し、律法学者も腐敗し、世が乱れきった時。メシアが生まれたらどうなるか・・・。
しかし、そんな人心が混迷する時期だからこそ、「メシア」を切に求め、その降臨を願ったのだ。
時代背景は、そんな「両刃の刃」でもあった。
そこに賭けた神の願いはあった。それも「切り抜けられる」ように全て設定されていた。
いわば「その道」さえ歩めば、まさしく「メシアの国」(神の国)が出来るという確実な道があった。あとは「人の心」次第だ。

まず、先に生まれた「洗礼ヨハネ」という人物。
「ひょっとしたら、メシアではないのか・・・?」と思われるほどの立場にいた。
当時のイスラエルの国で「ザカリヤ」という身分は、トップ中のトップだった。いわば王に並ぶ立場だった。いや、ことあれば、王でさえ頭をたれて教えを乞うたであろう。
そんな立場の名門の息子として生まれた。
生まれる前に「奇跡」が起こった。子に付ける名前のことで祈り続けた父親が、急に「おし」になった。「生まれた子に、ヨハネと名付けよ」という神の声を聞いたためだ。
しばらくして産まれた子は、「玉のような男の子」。父は「ヨハネ」と命名した。
そこで、彼は「おし」が治り、喋れるようになった。
村から村へと「その奇跡のうわさ」が伝わり、「ヨハネ」は「ただもの」ではないと人はうわさしあった、とある。それに段々大人になるにつけ、彼の修行のさまは、人目をみはらせた。
野に出、野密といなごを食べて修行するのを見た。(清貧の極みの修行ということ)
「ともしたら、この方こそ来たるべきメシアではなかろうか・・・」と、人の目がヨハネに向いていった。その後彼は、川の畔(ほとり)で「洗礼」を授けるようになる。
人々はわれ先にと、ヨハネの所に集まり洗礼を受けた。彼は「洗礼ヨハネ」と呼ばれるようになっていった。

丁度そんな時、「イエス」も同じ年頃になり、川のほとりにたどり着く。
「わたしにも、洗礼をさずけて頂きたい」、イエスがそうヨハネに言った。
ヨハネはイエスを見ると、すぐさまひざまずき、こう言う。
「とんでもない。わたしにはあなた様に洗礼を授ける資格などありません。あなたの靴の紐を解く値打ちさえもない人間です。今白いハトがあなたの頭上に止まりました。あなた様こそ『来たるべき方』、神の子です」と。
それを聞いていた群衆はびっくりした。
「しかし今は、授けてほしい」とイエスは言った。そして洗礼ヨハネはイエスに洗礼を授けた。
単なる劇中劇であるならば、なんてことはない。
この場面は「切り取って」懐にしまっておくべきものだった。全ての民が、である。
決して忘れてはならない重要な一場面だった。それさえ失わなければ、イエスも、いやヨハネも死なずにすんだだろう。それどころかともしたら、今から2000年前のあの時、「神の国建国」の歴史の事実を、過去の晴れがましい歴史的真実として、後世まで語り継がれただろう。
が、事実は逆の道を辿っていった。

では「イエス」の誕生はどうか・・・?
奇跡を見た人は多い。
東方の三博士、シメオン、アンナス、羊飼い、マリアの姉「エリザベツ」(ザカリヤの妻)などなど。
天の星を使い、預言者に告げさせ、マリアのお腹にいるときから天使をつかい、神は「そうだ」と伝えている。
しかし、その奇跡に立ち会い、目でみた「その感激」は、時とともに覚めていった。
夢は覚めるものだ。しっかりと骨の髄までしみていなければ、忘れていくのだ。たとえ神の言葉でさえも・・・。
奇跡を見た者、東方の博士は貢物を置いて帰っていった。(間違いの一)
マリアは天使の言葉よりも、夫を恐れた。求められるままにイエスの出産後も、子供を生んでいく。(間違いの第二)
大工であったヨハネ(マリアの夫)は、自分の子でないことをもって、イエスを冷遇した。(間違いの第三)

家には、「とうちゃんを手伝いな!」という母マリアの声が、イエスを追いかけるようになる。
(イエスは、大工をするためにこの世に来たのではない、といつも思っていた)
「わたしには枕する家もない」とつぶやかざるをえないイエスの境遇が、聖書には記されている。
何かが狂い始めた前兆であった。身内からの不信仰が、イエスを落とし始めた気配を知る。

結果、神の核ともなるべき強力な体制、つまりメシアへの安全圏の道が徐々に崩れ始めていった。
ザカリヤの家庭と、大工ヨハネの家庭。この二つの家庭のそれぞれの人間は「自分の責任分野」を悟り、全うしさえすれば、たとえ国王であれ、人民(イスラエル民族)であれ反対の嵐が吹こうと、問題なかった。そんなもの次第に収まっていく運命にあった、と言われている。
イエスの「とりまき」が、全部不信仰の極みに陥った。(悲劇の王はイエスだ。もし、シェークスピアがこれを知っていたら、歴史始まって以来の悲劇を、書き残して死んで行っただろうに。それとも、リア王やマクベスやハムレットで、彼は何かを語ろうとしたのか・・・)

イエスは十字架につくことを、免れる術はないと知ると、最後の晩餐やゲッセマネの祈りにあるように、今後のことを弟子に語って死んでいった。
彼はこの世に何を残したのか・・・。いや、何を残したかったのか?・・・。
「これで、終わった」と、なぜそんな言葉を吐いたのか?・・・。
だからこの世は大混乱に落ちいったではないか。(イエスは使命を果たしたと)
イエスが十字架で死ぬためにきたのであれば、死後、弟子たちに霊的に現れ、次の使命分野を与えていくなど「滑稽」なことである。
「わたしは、また来る!」と言う・・・、なぜまた来るのか?・・・。(来なくていいではないか・・・)

答えは、まだ、終わっていないからだ。
だから「また来る」のだ。何をしに来る?
生きて、神の人の在り方を、この世に示すためである。
人(個人)のありかた。男のありかた、女のありかた。家庭のありかた。子供の教育のありかた。
国のありかた。世界人類のありかたまで、すべからく「神の国」のありかたを、生きて、見せて教えるためである。
だからもう一度、肉体をもって「この世」に降り立ち、今度は完全に「あきらかに」「見て」確認することの出来る、「宿願の神の国」をもたらすためである。

肉体をもって来る。一人の男性として来る。
これが今世紀最大の出来事であり、奇跡でもある。
さてさて、その時代に「あなた」は生き、証人となれるのだろうか・・・。
「エホバの証人」という団体は、それを言う。地球上で限られた人数だけが「それ」を観、永遠にこの地球上で肉体をもって生き続けるという。だから「あなた」も早く改心して私達に交われと。
その数「十四万四千人」。つまり今後は地球はその人数しか住まず、「よけいもの」は淘汰されていく。従って「あの世」はなく、人は歳をとらないし、死ぬことは永遠になくなる、という教えでした。(私の体験からいえば)そして霊界はなく、霊能者・占い師はまやかしであり、詐欺師であるとも。


長くなりついでに、今一つ。
聖書の中で、「イエスと洗礼ヨハネ」が兄弟、それも異母兄弟だと暗に伝えている。
彼らには、それが分からなかったのだろうか。それとも、知りながらも「のり超えることの出来ない何か」が、邪魔したのだろうか・・・。
洗礼ヨハネは、たかだか「踊り子のほうび」ごときのために、落命することはなかった。
イエスの補佐役として、人類歴史上、一番輝く「第二の立場」であったはずである。
「サタン」は何を狙ったか?・・・、「将を射んとすれば、まずその馬を射よ!」と?。
梯子(はしご)をはずされた人物は、どんな憂き目をみるのか・・・。
『サロメ』の話は、面白いだけではなく、実に歴史のクライマックスを賭けた「難題」解きの真っ最中の出来事だったということです。(自分の立場を知る。悟るということが、いかに難しく、さらにサタンの狙う内容であるかを、ここで胆に銘じておいていただきたく、書いた次第です)
今、洗礼ヨハネは「あの世」で何をしているか・・・?
聞いた話では、「おし」になって、暗い闇の中にいる・・・らしい。


では、最後に。
その「ドクターX」なる名医、いや人類のメシアは、「いつ」来る?、「どこ」に来る?
それは誰だ?・・・。

くる場所は「陽いずる国」とも、「東方」とも書いてある。
太陽が昇る国と限定されている。
民族からいえば、ノアの三兄弟、「セム」「ハム」「ヤペテ」の三種族のどれかであるが、「ノアの家庭の復帰摂理」からいえば、ハム族ではない。なぜ?、「ハム」が失敗したからだ。(くわしくは聖書を読まれたし)
ではどこだ?・・・長男と三男では、どっちが「まとめる」のに強い、あるいは順当な立場か?。
はい。長男でしょう。地球上をまとめるのは長男の役目。よってセム族が答えとなる。
セム族って何?。「黄色人種」です。
メシアが来る国(生まれるという意味)は、東方の黄色人種の国です。
中国? 、残念ながら共産主義ではダメ。では北朝鮮?。残念でした主義が違う。
残ったのは、韓国と日本。さあ、どっちなんでしょうか・・・。

いつ来るの?、という質問は、「歴史の同時性」で、すでに計算できます、とだけ申し上げておきましょう。そして、善悪が入り乱れ、人殺しが増え、災害も増え、地球規模で何かが起こりそうな不気味さをもつ時代。
『世も終わりだ!』と人が嘆く時代。そのくせ、いい世の中がこないもんか~と、内心希望する時代。

『今でしょう!!』
ん?、またまたどこかで聞いた台詞だ。
あとは皆様におまかせします。

最後はやはり、「あなた」はこれを信じますか・・・?、ということになるのです。
「イエス」は「マリア」の子ではあるが、聖霊によってみごもったのではない。
れっきとした「この世の男性」が父である。それは誰~れだ・・・。
これを聞いたら「私の父」は泣いて喜ぶでしょう。だから私は「知っている限りの内容」を、あの世の父に向けて語っています。
せめて「あの父」のリベンジを、果たしてあげたいと思っていますから・・・。
「イエス」の、本当の父の話は追っていつか、皆さまにお話しいたしましょう。
(分かった!と言う方も多いかと・・・)
では、また。

補足(今日の部分・終末論のつづき)

2013年10月20日 | 心霊現象
みなさまに「お詫び」を。
まあ、なんと入力ミスが多いんでしょうか。
連日、みなさま「間違いさがし」で申し訳ございません。(正しく直してお読みくださいませ)


ちょっと思い出したことを、また書いておきますね。
最初っからブログを読んでくださっている方でないと、分かりずらいところや、私の経験からのものがあるとないとでは、ちょっとは違うかもしれないと思って、一つの話を書き加えます。
おっと、二つの話でした。


ここに一枚の「絵」がある。
きっと「見たこと、ある!」とおっしゃるかと。
アダムとイブが、神を恐れるように逃げていく。
木には一匹の「蛇」が巻き付いて「それ」を見ている。
二人は「葉」で「下(しも)を隠し」、光の乏しい薄暗い中を腰をかがめるように歩く。
描かれた木には、りんごの実がいくつもぶら下がっている。

と、こんな絵でしたか・・・。
これを見れば、「聖書」に書かれたその通り、文字や言葉通りに「それ」を描き写したにすぎないことは分かる。
だから、人は蛇にそそのかされ、りんごの実を取って食べ、神の怒りにふれ、「裸であることを知り」、それが「恥ずかしく」なって、腰を木の葉で覆い隠した。

だから、裸が今だに罪であり、恥ずかしくもあり「軽犯罪」に値すると思ってきた。
神の創造の中で「裸が恥ずかしい」など、どこにも書いてない。
「よし」と言われた神は、その後休まれたという。
もう何も「手直し」するところなどない。それが神の満足の極みとして現されている。
アダム、イブの裸体は、「神のようであった」はずだ。
なぜ、それが恥ずかしくなったのか?
ここに、長い間人類が引きずってきた「罪」と謎がある。
彼らは「取って食べた」結果に、恥ずかしくなって隠したのだ。
「りんごを食べたら」口を隠し、もう一方の手で「りんごの実」を後ろに隠すだろう。
しかし彼らは、腰を木の葉でまいて隠した。罪は(神の戒めを破ったのが)腰、つまり下部であったという何よりもの証拠であった。
つまり「真相」はこうだ。
アダムとイブは、「時がくるまで、お互いに性的なめざめで交わってはいけませんよ」という親の言葉に反し、性的堕落をして、つまり時がくる前に交わってしまい「それが罪」になったということだった。
その状況の「すごさ」は、霊能者O氏が霊界で見たという「生々しい情景」にゆずるとして。
結果、アダムとイブの今風でいう「婚前交渉」は、罪となり人類の「原罪」として、人として生まれた者は、生まれながらに「罪」をもつ身となってしまった、という論理がなりたつ。
それを救うのがキリストであり、それなくしては永遠に救われない、天国には行けないという教えが「キリスト教」となって、人類を呪縛しつづけてきた。
それも400余もの分派をもって、今に至っている。
これが一つ目の「補足」です。


次二つめは、私の夢から。
「悪の正体」に殺されかけた「あの話」を、ここでもう一度させていただこうかと・・・。


私は夢の中にいた。
強力な腕の力を感じていた。
私の首にかけられた「男」の指の力に、段々強さが加わっていく。
「えっ、私殺されるの?・・・」。「なぜ、なぜ私なんだ?、今、ここで?・・・」。
もう、だめだ。息が出来ない。
最後の力を振り絞って、私は叫ぶ。
「サタンよ、引き下がれ!」と、三回叫んだ。(しかし、何も変わらない)
そうだ、忘れていた。「イエス」の名がないと、効き目がないのだ。
そこでもう一度やり直した。いや叫び直した。『イエスの「み名」によって、サタンよ引き下がれよ!!』と。三度の繰り返しは忘れなかった。
と、すぐさま状況は変わった。指の力が少し抜けたように思われた。
(ああ、良かった。これで生きれる)
しかし喜ぶのは、まだ早かった。
再び指の力が増し加わった。「えっ、なになに?」。

「栄光教会」という、韓国系の教団が渋谷にある。
その牧師「崔氏」は、女だ。共産主義思想から、神がかりな体験により牧師になった人である。
日本の早稲田大学を卒業した才媛である。今では90歳ちかいお年だろうから、大変な「御仁」でもある。その牧師が、日曜礼拝が終わると「祝祷」をする。
つまり、信者は一週間の汚れをお祓いしてもらい、この先の一週間を守ってもらう意図で、長い列をつくる。私もその番を待ち、祝祷にあずかった。
その時の祈りの言葉が「これ」だった。
最初私は飛び上がった。驚いたのだ。「あんな婆さんから、こんな声が出るなんて!」(失礼)。
その声は、文字通り「部屋が割れんばかり」の大声だった。

だから私の「サタンよ去れ!」は、やわな声ではないはずだった。
サタンがぶっ飛ぶ声として、はらわたから出したつもりだ。・・・が、去らない!。
驚愕だった。もう私には残す時間は、無い!
そこで思い出したのが、この原理を教え、私を親不孝者にさせたあの教義と教団、「統一協会」の祈りだった。最後は私の命を「これ」に賭けた。
『○○のみ名によって、サタンよ去れ!』、これを三回繰り返した。
手応えはあった。相手?は「ギョッ!」としたのだ。指を伝って、私にはそれが分かった。
「なんで、おまえがそれ(その名)を知っているのだ!」(言葉にすればそうなる)・・・。
その指からは力が抜け、口惜しそうに「その存在」は私から去っていった。

夢から覚めた私は、しばらく疲れで動けなかった。
大格闘のすえ(肉体的には何も筋肉は動いていないのに、超疲れた)、私は腑に落ち、胆に銘じた。
サタンそのものではないだろう。しかし「強烈な力を持つ悪の存在」であったことは確かだ。
なぜ私なのか、なぜその時なのかは、今だに分からないでいる。
しかし、霊界の在り様とか「仕組み」とか、「あの世」の何かを解明したいと思った行為に対する
一つの試し(脅かし)ではなかったかと・・・。
この夢を通して、私はやっと分かりましたね。
前の本「霊界の門」の中のこと。
切支丹大名、大友一族の娘が「はりつけ」にあって死に、その後霊界でイエスに会う。
その言葉。
「ここへ来て、ヤソさまにあった。しかし、何かもっと先があるような・・・」という
謎めいた言葉が、ようやく分かる。
イエスキリストは十字架で死にに来たのではない。
生きて「神の摂理」を成就したかった。この世で「神の世界を見せ」、築く使命があったと。
だから「次の使命者」に繋いでいった。メシアたるイエスも、完全にサタンに勝利はしていない、と。

さらに、「結婚出来ない女」のところで書いた「彼女」のみた夢の中で、イエスは言ったという。
「すまない、わたしがまだ解かないことがあるために・・・」と。
彼は何を残して、解かずじまいで行ってしまったのでしょうか・・・?。

こんなこと言ったら、完全に「バチカン」は黙っていないでしょう。(それとも、無視?)

私のブログは、どの教団の「かたをもつ」ものではありません。
ただ、命からがら生き延びて、神と死神の間を彷徨いながら、今日ここまできました、というお話をば、させていただいています。
選ぶのは「あなた」です。その結果を刈り取るのも「あなた」であれば、私めの「ブログ」なぞ、犬の遠吠えのたぐいかとも、・・・。
しかしね、一人くらいは「あの世」と「この世」を繋ぐ「この謎」を解明し、いつか行く「あの世」の真実を探求したいと思う方がおられても、いいんじゃないでしょうかねぇ~。(みなさま方のことです)


「私の人生」というには大袈裟でしょうが、こうして所々霊界の「テスト」を受けては、命からがらこの世に再びあって、みなさまにご紹介しつつ「死んだら、こうなるんですよ~」と叫んでいるのです。
ま、転ばぬさきの杖。八咫烏(やたがらす)というにはおこがましい極みでしょうが、何かの案内役と思召せ。
長い補足で、ごめんあそばせ。