Tabi-taroの言葉の旅

何かいい物語があって、語る相手がいる限り、人生捨てたもんじゃない

今こそ江戸に学ぼう! 最終回「未来に伝えよう、江戸しぐさ」

2007年07月29日 | 江戸しぐさ
江戸しぐさのビデオを観た中学2年生の男子生徒が感想文に「なぜ大人たちは僕らにこの美しいしぐさを教えなかったのですか」と書いたといいます。

東京都台東区の忍岡中学校では、平成16年から道徳の時間に「傘かしげ」や「肩引き」を取り入れた寸劇を先生たちが披露するなど、江戸しぐさを教えてきました。その劇は生徒たちの喝采を浴びているそうです。

同校では「あいさつ運動」も実施しています。上級生から下級生に「おはよう」と積極的に声をかけると、下級生も真似して挨拶するようになります。「挨拶するとやっぱ気持ちがいい!」地域の住民からも「道を広がって歩く子が減った」「挨拶する子が増えた」という声が聞こえるようになりました。

江戸しぐさは企業の社員研修でも取り入れられています。ディズニーランドでは、社内に「江戸しぐさ研究会」を設置して、数百人がセミナーを受講しました。「こんなすばらしいものが日本にあったなんて知らなかった」「これさえきちんと身につけていれば、自分に自信がもてる」「ここに来られたお客様に、私たちのしていることをお持ち帰りいただければ最高」などという感想が寄せられています。

美しい国への道は、ご先祖様がすでに示されていたのです。

今こそ江戸に学ぼう! 第七回「世辞が言えたら一人前」

2007年07月28日 | 江戸しぐさ
子どもたちの教育は主として寺子屋で行われました。親は商売人のため、子供を教える時間がありません。そこでお金を出し合って、寺子屋の師匠に子供たちを預けました。お金の不自由な家の子は、師匠が面倒を見ました。子供のない人も、子供が立派に育つことは江戸のためになることと、いくばくかのお金を出したといいます。

必要最低限の読み・書き・算盤をマスターした後、子供たちは9歳までには「さようでございます」「お暑うございます」などの大人言葉を学ぶのが必須でした。「世辞が言えたら一人前」とされました。入門してきた子供たちに、師匠はこんなふうに語ったといいます。

私たちが生まれ、育ち、住まわせて貰っているこの大江戸は、日本一、世界一の町です。何が一番かというと、しっかりした「講」があるということです。講は、人と人とが手を取り合って、住み良い暮らしを考えるおおもとです。講がしっかりしていれば、人間は安心して住むことができます。また、講はおつき合いの場です。人間がおつき合いしている世の中を「世間」といいます。だから、講は世間ということができるでしょう。皆さんもこの寺子屋で、人と人とがしっかりと手を取り合ったおつき合いができる人間となるよう勉強してください。そして、日本一のお江戸で、人の心がわかる商人を目指してください。

講や寺子屋、広くは江戸全体で目指していたのは、金儲けや立身出世ではなく、「人の心がわかる」人間であり、そのような人々が「しっかりと手を取り合ったおつき合い」をしている「世間」だったのです。そうした社会なればこそ、「花のお江戸」というほどに経済も繁盛したのでしょう。江戸しぐさは、繁盛しぐさとして、全国の商人に広がっていきました。

今こそ江戸に学ぼう! 第六回「講座と江戸風レディーファースト」

2007年07月27日 | 江戸しぐさ
自治都市として、町民たちが寄り合い、何が問題か、どうすれば良いかを議論する場が「講」でした。今で言う町内会のようなものでしょう。また、この場で、手とり、足取り、口移しで江戸しぐさを教えました。「講」は江戸を支える話し合いの場であり、教育の場でした。講ではメンバーが円をなして座ります。これが「講座」です。その際に尻に敷くのが「座布団」。そこで「講師」が「講義」をします。そのための建物が「講堂」でした。

講は原則として、月に2回開かれました。その日は商売はお休みです。準備は明け六つ(午前6時)から、茶碗を熱湯で四半刻(約30分)ほど、煮沸消毒する事から始まります。風邪などが流行らないようにするための用心です。子ども達は、そこで茶碗の洗い方、畳の掃き方、廊下の雑巾がけなどを、見よう見まねで習い覚えます。講では、武士の悪口であろうと、役人の批判であろうと、何でも自由に言えました。それが江戸っ子の批判精神を育てました。

また、男は先に着いても、玄関で履き物を脱ぐときに、1、2列分開けました。後からくる女性のためです。男は足を広げて跨げるが、女性はそれができないからです。江戸時代の初期は男の出稼ぎが多く、女性が少なかったので、大切にされました。

今こそ江戸に学ぼう! 第五回「粋(いき)な江戸っ子」

2007年07月26日 | 江戸しぐさ
江戸っ子は「粋(いき)」の良さを尊びました。船着き場で人が来たら「こぶし腰浮かせ」で席を詰め、「お暑うございます」などと世辞を言います。そんなしぐさがさりげなく出来るのが、粋な江戸っ子でした。粋の反対が「野暮」です。往来で他人の迷惑を考えずに「とうせんぼしぐさ」や「仁王立ち」するのは野暮な人間のすることです。

「粋(いき)」は「息」でもある。 二人以上の間では「息が合う」のが大切です。狭い道では互いにすっと「肩引き」してすれ違い、軽く「会釈のまなざし」をします。そんな息のあったすれ違いはなんとも粋です。

さらに「粋」は「生き」「活き」「意気」にも通じます。「いきが良い」というのは、威勢のよい江戸っ子への賛辞ですが、不機嫌や体調不良などを表に見せて他人を不愉快にするのは「野暮」の骨頂。年をとっても「耳順(60代)のしぐさ」と言って「己は気息奄々(きそくえんえん)、息絶え絶えのありさまでも他人を勇気づけよ」「若衆(若者)を笑わせるよう心掛けよ」と、やせ我慢でも元気はつらつ、かつユーモアを忘れずに 生き生きと振る舞うのが、意気のいい江戸っ子ぶりでした。

こうして日常生活のマナーが、美的な感性にまで高められたのが「粋な」江戸しぐさでした。


今こそ江戸に学ぼう! 第四回「袖擦り合うも多生の縁」

2007年07月25日 | 江戸しぐさ
花のお江戸は路上で行き交う人も多いです。その往来を気持ちよくするために、様々な江戸しぐさが生まれました。道路は「江戸城に続く廊下」と考えられ、ゴミを捨てたり、唾を吐いたりするのは、とんでもない行為とされました。歩きながらタバコを吸うこともありませんでした。混んだ道を早く走ることは危険なので「韋駄天しぐさ」と言って禁じられました。韋駄天とは、仏教での足の速い守護神のことです。

横に並んで話しながら歩く「とうせんぼしぐさ」や、往来の中で「仁王立ち」して、他人の邪魔をするのは御法度。「七三の道」と言って、自分は道路の片側三分を歩きます。こうすれば、急ぎの人も、また怪我人を戸板に載せて運ぶ(今の救急車と同じ)際も、追い抜いていけます。

狭い路地を歩いていて、向こうから人が来た場合には、互いに体を斜めにしてすれ違う「肩引き」をします。雨の日には「傘かしげ」で、しずくが相手にかからないようにします。こうしたすれ違いの際には、互いに目でちょっと挨拶し合う「会釈のまなざし」で、心が和みます。雑踏の中で人に足を踏まれた場合、踏んだ方は当然謝りますが、踏まれた方も「こちらこそ、うっかりいたしまして」と「うかつあやまり」をします。

すれ違いの際にも、「袖擦り合うも多生の縁」という気持ちからの思いやりによって、心和む付き合いができるのです。

今こそ江戸に学ぼう! 第三回「人間はすべて仏の化身」

2007年07月24日 | 江戸しぐさ
「束の間付き合い」や初対面の人に対して、名前や職業、年齢などを聞かないのを「三脱の教え」といいます。それは都会的に他人と距離を置く、という意味ではありません。

「人間はすべて仏の化身」と考え、身分や職業、年齢に関わらず、互いに対等の付き合いをすることが原則だからです。そういう外的なものよりも、人間としての品格の方が江戸社会では大切にされました。だから、自分が大店の旦那で、相手が小僧風情だからといって、偉ぶって威張った口をきいたり、自分をひけらかすような自慢をするのは、下品なこととされました。小僧風情の相手が「おはようございます」と挨拶すれば、旦那も「おはようございます」と対等に応えるのが、江戸しぐさでした。

相手の身分によって態度を変えるのは、はしたない振る舞いでした。初対面の時に対等な口をきいた後で相手が身分の高い人だったと分かって「そんなに偉い人とは知らず、失礼しました」などというのは、禁句です。それでは偉くない人には失礼にしてもいいということになってしまいます。

そして相手と会うのも、今生でこれっきりかもしれない、という「一期一会」の気持ちで、人と接します。相手との生涯に一度の、しかも一瞬のつきあいを、いかに美しいものにするか、そこから「束の間付き合い」というマナーが発達しました。

今こそ江戸に学ぼう! 第二回「束の間付き合いと世辞」

2007年07月23日 | 江戸しぐさ
江戸は西南に鈴ヶ森、東北に飛鳥の森と、二大森林地帯に挟まれ、運河や堀をめぐらした緑と水の美しい町でした。最盛期には人口100万人に達し、60万人のロンドン、70万人のパリを凌ぐ世界最大の都市でした。

100万人の内訳は武士と町人が半々でしたが、武士は参勤交代で入れ替わります。町人50万人が江戸の定住人口でした。その大部分は、小売商、食べ物屋、風呂屋、大工などの商売人でした。諸国から人が集まる大都市の中で、毎日、多くの見知らぬ人々と行き交い、商売をします。そういう中で、いかに互いに気持ちよく生きていくか、という智慧が発達しました。

江戸では毎日、多くの見知らぬ人と行き交います。そこに「束の間付き合い」というしぐさが発達しました。たとえば船着き場で渡し船を待っていたら、もう一人、客がやって来ました。先客は和やかに軽く会釈をし、「こぶし腰浮かせ」と言って、こぶしをついて腰を浮かせて席をつめて、新来の客が座れるようにします。

現代では、電車の中で立っている人がいるのに、二人分くらいのスペースをとってゆったりと座っている人がいます。そんな所に「すみません」と声をかけて座っても、無言のまま、席も詰めない無神経な人が少なくありません。そんな殺伐とした光景とは大違いの和やかな付き合いが江戸にはありました。

会話が始まっても、差し障りのない天気の話題などを選んで、職業や名前、年齢などを聞いたりしないのが決まりでした。「束の間付き合い」を楽しみつつも、お互いのプライバシーを尊重して、気持ちよく過ごそうという考えです。

「こんにちは」などの挨拶の後に、「今日はよいお天気ですね」とか「寒くなってきましたね」などと「世辞」をいうのが、江戸しぐさです。「世辞」とは今で言う「お世辞」ではなく、人付き合いを円滑にする応対の言葉でした。

今こそ江戸に学ぼう! 第一回「江戸しぐさ」

2007年07月22日 | 江戸しぐさ
ある中学生がこんな作文を書いています。
その日小雨の降る中、僕は父と一緒に狭い道を歩いていた。すると向こうから来た人がすれ違う時、僕たちが通りやすいように傘を横に傾けてくれたのである。その人にお礼を言った後、父は、江戸しぐさがまだ残っているんだねと嬉しそうにつぶやいた。僕はこの「江戸しぐさ」ということばに興味を覚え、家に着くまでに父に教えて貰うことにした。

傘を横に傾けて相手に雨の滴がかからないように気を配る「傘かしげ」、狭い道ですれ違う時に右肩を引いてぶつからないようにする「肩引き」など、「江戸しぐさ」にはいろいろなことばがある。要するに、お互いが気持ちよく過ごすためのちょっとした思いやりのある行動が江戸しぐさと呼ばれるものだろう。

僕の住む町、墨田区にはまだその精神が生きている。例えば、家の玄関先や通りを掃く時、両隣の分もきれいに掃いたり、体の不自由な人がいれば荷物を家まで持っていってあげたりというように。ただ残念なことに、これらの行動をとっているのはお年寄りの方だけになりつつあるという気がする----


こんな「ちょっとした思いやり」にあふれた社会なら、人々はどんなに気持ちよく過ごせるでしょう。花のお江戸はそういう都会だったのです。

マチュピチュ・・・天空に続く道

2007年07月15日 | ペルー
NHK「失われた文明・・・マチュピチュの天空に続く道」を観ました。マチュピチュは、数ある世界遺産の中でも最も美しいと言われています。山々で分断されたアンデスをインカはなぜ統一することができたのか?なぜ比類なき天空の文明を築くことができたのか?番組では17世紀初めに残された年代記を基に、この謎を解き明かしてくれました。

インカは文明の条件といわれる鉄も文字も持ちませんでした。しかし、当時のヨーロッパを凌ぐ豊かさを手にしていたのです。年代記には「インカは食料や衣服を公平に分け、病人や老人も安心して暮らせる福祉国家だ」と記録されています。第九代インカ皇帝パチャクティは自分の息子にこう語りました。「奪って豊かになるのではなく、与えて豊かになるのだ!」 この卓越した哲学こそがインカ帝国繁栄の理由だったのです。

彼は各地に段々畑(アンデネス)を築き、作物の生産を伸ばしました。険しくそそり立つ山肌に延々と続く段々畑・・・・上の段と下の段では温度が違います。海抜ゼロか6千㍍まで、インカの民は様々な種類の作物を手にすることが出来ました。アンデネスで収穫された豊富な作物は、帝国内に巡らされたインカ道を通って運ばれ、更にコルカと呼ばれる貯蔵庫に備蓄されました。インカ帝国は、国中に食べ物が満ち溢れる豊かな社会でした。一千万の国民が飢えの無い暮らしを送っていたといいます。パチャクティと息子と孫・・・三代のわずか50年ほどの間にインカは繁栄し巨大帝国を築きあげました。

番組の最後に、マチュピチュの調査隊の一人が語った言葉が印象的でした。「ここを作ったインカの力に感動します。ここは神々の場所です。自然を理解し自然と対話しなければ町を築くことなど不可能な、神の場所なのです」 山々が聳えるアンデスに広大な帝国を築いたインカ・・・断崖絶壁に道を通し、作物を育て、飢え無き社会を築いた・・・五百年前、「与えて豊かになること」を目指した、天空の文明がここにありました。

祝、石見銀山世界遺産登録

2007年07月14日 | 雑学
島根県大田市の「石見銀山遺跡」がついにユネスコの世界遺産として登録されました。同遺跡は、いったんは「登録延期」を勧告されていましたが、先月28日、ニュージーランド、クライストチャーチで開かれた国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会において世界遺産に決定しました。

石見銀山遺跡には、16世紀から20世紀にかけて使われた大規模な銀鉱山などの跡が残っています。ユネスコでは登録の理由について、日本経済を牽引した役割を評価したと説明しました。(朝日新聞より)

今回新規に登録されたのは、文化遺産では、日本の石見銀山遺跡とその文化的景観をはじめ、シドニー・オペラハウス(オーストラリア)、ボルドー月の港(フランス)、ラボーのぶどう畑(スイス)など16件、自然遺産では済州の火山島と溶岩洞(韓国)など5件、複合遺産1件の合計22件でした。

これで日本の世界遺産は16道府県、合計14件が登録されたことになります。

目からウロコ!

2007年07月08日 | 雑学
「食えなくなる魚―日本の水産業の危機をどう立てなおすかー」というテーマで素晴らしい講演を聞いてまいりました。講師は、FAO(国連食料農業機関)で水産委員会議長も努めた小松正之先生。クジラ博士としても知られる小松先生は、かのニューズウィーク誌にて「世界が尊敬する日本人100」で堂々二位に選出された農学博士です。先生は原稿も見ないで海と魚、さらには鯨や江戸前までを、本当に咄家も顔負けと思うほどに楽しく分かり易くお話してくださいました。そして、その楽しい語り口とは裏腹に、日本の水産業の驚くべき実態が紹介されました。まさに「目からウロコ!」。先生お話の記憶をたどってみましょう。

●かつて、1280万トンと世界一の漁業生産量を誇っていた日本は、現在では世界第六位にまで転落している。その昔、アメリカに魚の獲り方を教えてくれと頼まれたわが国が、今ではそのアメリカにも追い抜かれそうとは、隔世の感がある。 ●世界的には「さかな」を食べる人が増えている。健康食材としての「さかな」の素晴らしさが見直されているのに、実は、日本だけが水産物の消費量が減少している。(外食が増え、若い人が魚を食べない) ●下関でも塩釜でも、魚の水揚げ量は確実に減少していて、平成21年にはゼロの可能性がある。(かつてそこにいた魚がいない) ●戦後109万人もいた漁業就業者が今では22万人と激減している。しかも今の漁師の半数が60歳以上高齢者である。 ●日本の人口の減少が予測される中、日本の水産都市(いわゆる港町)では今後全国平均を大幅に上回るスピードで人口減少が進む。離島については漁村そのものが消滅しかねない状況である。

魚では食べてゆけないと、若い後継者がみな都会へ出て行ってしまうのであれば、日本の漁業は一体誰に引き継がれてゆくのでしょう?我々はダイオキシン濃度が高い危ない養殖魚しか食べられなくなってしまうのでしょうか? 海洋の環境には自然のサイクルがあるのだそうです。それを先生は「神の思し召し」と表現した上で、こう語りました。

今、二歳魚しかいないのだから、そればかり獲ってどうするのか。産卵する親魚がいなくなる。明日の米びつを今獲ってどうする。しかもノルウェーの販売戦略では300円が相場なものを、日本は一時的に大量に獲るものだから40円、50円で売っている。枯渇したものを乱獲するなと私は言いたい。

親潮が強かった頃にはマイワシ、マサバ、スケトウダラが豊富でした。今、鯨の胃の内容物を見るとカタクチイワシ、サンマ、スルメイカなどが多く入っている。漁師は希少価値のある魚ばかりをねらう。値段が高いからだ。ところがボリュームが小さいから、結局過剰投資となって採算割れする。自然の贈り物である資源をつぶし、倒産する。人間はクジラでさえ分かる科学的根拠に反する漁業を行っている。


人間のエゴ?利益優先の乱獲が、結果として漁師の首を絞めている? 先生は「魚は一体誰のものでしょうか?」と問いかけました。日本ではそんなことを考える人もいなければ、明記された法律もありません。しかし、欧州では「(魚は)国民から信託を受けて、国が管理する」と明確に定められているのだそうです。

東北大学卒業後、米エール大学院に学ばれた小松先生の博学に舌を巻くと当時に、またしても欧州の先見性に驚かされました。