Tabi-taroの言葉の旅

何かいい物語があって、語る相手がいる限り、人生捨てたもんじゃない

お城

2001年04月29日 | ドイツ
まず欧州が地続きであるという地形上の特徴と、次にゲルマン民族の移動、ローマ帝国の支配という時間経過(歴史上の)特性を頭に入れる必要があります。世界中どこでもそうですが、まず表記された文字よりも会話(発音)する言葉の方がずっと先だという、あたり前の事も頭に入れて下さい。そこにキリスト教の布教が、これも文字ではなく、言葉と絵画を使って長い時間をかけて浸透してゆく。

それでも殴州の地形的・歴史的特徴は言語の統一を拒んだのです。それは、あんな狭い欧州に幾つの国語があるかをみれば明らかです。人々は大昔からあの山を指さして、「べルク」と叫んでいたことをイメージしてみて下さい。そして、それぞれの地方の方言が国語として完成した後ですら、つい近年まで欧州のあらゆる国の国境は、その時々の侵略者と供に変化し続けたのです。

さてこの侵略者が「城」の疑問を解くキーワードです。
日本にも戦国時代はありましたが、欧州の侵略者の蛮行に比べれば日本はまだまだ平和だったのです。600年も掛けて教会を作り続けるエネルギーは平和な民族には理解しにくいのです。

ブルクは、日本の城下町とは少しニュアンスの違う、むしろ外敵から守りの自衛共同体とした方が、特にドイツでは理解しやすいでしょう。さらにドイツのでは長子相続法ではなく分割相続法でしたので、国家の統一はビスマルクを待つ程時間が掛かったのです。ブルクがドイツ中に存在する所以です。

質問の要約は次の通りです。
> Schloss Nymphenburg。
> 新白鳥城はNeuschwansteun でSchlossはつかない。
> プファルツ城も Pfalzgrafenstein と言ってSchloss がつかない。
> シュターレック城はBurg Stahlechと言ってBurg がつく。
> 英語だと castle だけ。この3つの違いは何でしょう ?

まずberg(べルク)は山です。am bergで山麓となります。burg(ブルク)が城ですが、避難所という意もあります。先程書いたように、城壁に囲まれた自衛共同体です。ローテンブルクのイメージで解りやすいかな?burgerで市民となります。Schlossは鍵です。鍵も身を守るものです。そこから城、邸宅、宮殿に発展します。steinはstone岩です。塊まりとなって城壁を作り人々を守ります。

さてまとめです。
人々は身を守るため山(berg)のような城(burg)を作った。領主は領民の身の安全を守るかわりに税金を徴収し、堅固な岩(stein)で城(burg)の中心に壮大な館(Schloss)を建てた。
ドイツのburgにはSchlossがない場合も多いですがkircheとplatzは必ずあります。
そこで人々は集まりmeet、ミサmesseをあげます。このmeは人の集まりとか集合を意味します。幕張メッセのメッセも、元は平和への祈りのミサが語源です。

もうひとつcastleの生みの親はスペインです。カステラの語源でもあるカステーリャ王国の話はまた次回の楽しみという事にいたしましょう。


ミュンヘン

2001年04月27日 | ドイツ
白鳥城として知られるノイシュバンシュタイン城。
ノイはNEW、アルテブリュッケのアルテはOLD。 ミュンヘンにはこの新旧の名を冠した美術館が並んでいます。どちらかに行くなら、僕は迷わずアルテ・ピナコテークです。アルトドルファーの「アレクサンダ-大王の戦い」が大好きです。全く宇宙を見ているようです。

ミュンヘンって、古くはムニヘンと発音しました。ムニへンの名の由来は「僧侶たちの里」(dei den monchen)からきたそうです。だから市の紋章には右手にビールのジョッキを持った僧侶が描かれています。修道院の町だったんです。

欧州はラインとドナウの二大河で語れます。
ハイデルベルクのアルテブリュッケはネッカー川に掛かっていますが、マンハイムでラインの本流と合流。
ローテンブルクのタウバー川はマイン川となってマインツで合流。
更にコブレンツでモーゼル川を加えて最後はロッテルダムに注ぎます。
ところがミュンヘンを流れるイザール川はライン川ではなく、ドナウなんです。

ドナウ川の源流はドナウエッチンゲン。アウグスブルク辺りでフュッセンから流れ出たレッヒ川と合流、更にこのイザールと合流した後、ウイーン、ブタペストを経てはるか黒海に注ぎます。全長2860Km。

ロマンチック街道の名だたる都市がこの欧州の二大河川で語れてしまいます。この欧州一のドナウ川の長さは世界では20番目。一位は6690Kmのナイル川です。


戦争体験を語り継ぐ

2001年04月20日 | 下田
私は高校の頃、切手収集に熱を入れたことがありました。古い蔵の中を探検?していると、思わぬ古切手などを見つけて得した気分になったりしたものでした。

そんなある日、古びた小引出しから古びた封筒を見つけたのです。お値打ち物でも入ってないかと、開けてみてビックリ。それは父が両親に宛てた手紙でした。いよいよに迫った突撃を前に書かれたものでした。先立つ不幸を詫びつつも、これまで20年間育ててくれたお礼とともに、国のため、愛する人のために正しいことをするのだのいう決意が綴られておりました。

私はそれを読んで、暫くその場に凍り付いてしまいました。そしてこの文章が、恐らくは、その手紙を見つけた時の私と同年代の人間よって書かれたものだということがどうしても理解できませんでした。

突撃に使う飛行機の補充が思うに任せず、「その日」は先に延ばされたのだそうです。そして終戦。本望を遂げた仲間に比べ、思いを遂げることができなかった父とその仲間は、心むなしく、全員一致で自害の道を決めました。仲間内からは、誰も反対意見は出なかったそうです。誰もが「それ」を当然だと思っていたのです。

そんな動きを察知した上官が、全員を集めました。「今、自害する道は易しい。しかし勇気を持って生き延びて、これからの新しい日本の復興の為に力を尽くすことはもっと困難な道なのだ!」と。全員、泣いていたそうです。悔し涙なのか、これまで自分たちを支えていた拠所を見失ったせいなのか・・・・こうして父の「戦後」は始まりました。

さだまさしの「戦友会」という歌があります。

櫛の歯が欠けるように  仲間が減ってゆく
戦友会に出掛けた夜  おやじが呟いた
学舎でなく  古(いにしえ)の戦の友が集う
年に一度の 思えばなんて儚(はかな)い祭りだろう
今の青春を羨ましくなくもないが  替わろうかと言われても断るだろう
不幸な時代の若者たちはそれでも 青春を確かに見たのだ

銃弾に倒れた友の顔を  忘れることなど出来ない
あいつの分もあいつの分もと  生きる思いは解るまい

父と「その」仲間は、「一生会」という戦友会を組織し、毎年の交流を楽しみにしております。毎年、毎年、メンバーが減ってゆくその会に出席する度に、彼等はその思いを新たにするのです。「あの悲惨な戦争体験を、若い世代に語り継いでゆかなければ」と。ですから、それは父にとっては社会奉仕ではありません。生そのものなのです。


クラブメッドのこだわり

2001年04月10日 | 沖縄
クラブメッド・カビラ                      ミンサー織りを説明する久貝さん

石垣島の「クラブメッド」に行ってまいりました。
部屋のべッドカバーは地元のミンサー織りでした。どうやってべッドカバーほど大型なミンサー織りが可能となったのか?その疑問を解くべく石垣市内のみんさー工芸館を訪ねました。ミンサー織りはもとより石垣島の歴史に詳しい久貝さんが一冊の資料を見せて下さいました。以下は「ミンサーで夢をつかんだ」と題されたテキスタイルデザイナーの新井淳一氏の手記の抜粋です。

事の発端は一本の電話からでした。1999年2月からの6ヶ月に及ぶ「大変」はここから始まったのです。翌日の午後冬支度のまま、石垣空港に出迎えられ、話し合いは始まりました。石垣島にリゾート木テルが建つという話はうすうす聞いていました。フランスのリゾートホテル「クラブメッド・カビラ」は数百の客室にレストランなどはもちろん劇場まであるというホテルで、その企画を知れば、多くの業者は鎬(しのぎ)を削って受注を争います。

「ミンサー絣をテーマとしてインテリアを飾る」 これはホテル側のフランス人デザイナーの必須要望として提示されたものです。まずは、べッドカバーからでした。私達の案は認められ、大変な仕事が採用されたのです。夢を実現するのは、手と汗にほかなりません。働く手が脳を助け、夢を進める。夢は脳によって手を動かす。

夢見ることが、生きることだ。とすれば、大変な仕事を成し遂げて、代償として得たのは、現代の手仕事の原点を現したことかもしれません。「夢は信仰を得て叶う」。そう思います。