楽天イーグルスが連敗に苦しんでいます。
十二試合を終了して二勝十敗。
チーム結成の経緯を考えれば、やむをえないところなのでしょう。
それにしても頑張ってもらいたいものです。
ところで、楽天の連敗にぼやく野村監督の姿を見ていると、私の脳裏に浮かぶ一人の人物がいます。
かつての近鉄バファローズを率いた西本幸雄さんです。
楽天は、近鉄とオリックス(阪急)の合併劇のいわば副産物として生まれ、岩隈はじめ、かつて近鉄で戦っていた選手が多く入団してできたチームです。
ですから楽天の前身は近鉄、といっても過言ではありません。
この近鉄もかつては万年Bクラスのチームでした。
このチームをパ・リーグの覇者に導いた名将が、西本監督です。
西本は1950年にセ・パ両リーグの誕生に伴い、毎日オリオンズに入団。
すでに30歳でピークは過ぎており、選手としては目立つ実績のないまま現役を引退します。
1960年、毎日オリオンズの監督に指名され、監督生活がスタート。
以後、阪急、近鉄で8度のパ・リーグ制覇を成し遂げます。
しかし、一度も日本シリーズを制して日本一になることはなく、「悲運の名将」と言われました。
しかし、彼はそういわれることを拒み続けていました。
西本は、選手の育成のためには敢えて鉄拳制裁や自身の首を賭けることも辞さず、闘将とも言われました。
一方で、近鉄時代の梨田のコンニャク打法や小川の独特の打法など、選手の個性をつぶすことなく生かし、信頼の厚い監督でした。
常に選手と本気でぶつかり合い、常勝チームを築いてきた西本監督は、最後の試合となった1981年の近鉄-阪急最終戦で、両チームの選手から胴上げされて有終の美を飾りました。
その西本監督は、次のような言葉を残しています。
私のような人間が8度も日本シリーズに行けたのは、優秀な選手たちに恵まれたからだ。
私は、決して「悲運の名将」などではなく、
「幸運な凡将」だった。
彼の人生観と人柄が凝縮された、心に残る言葉です。
十二試合を終了して二勝十敗。
チーム結成の経緯を考えれば、やむをえないところなのでしょう。
それにしても頑張ってもらいたいものです。
ところで、楽天の連敗にぼやく野村監督の姿を見ていると、私の脳裏に浮かぶ一人の人物がいます。
かつての近鉄バファローズを率いた西本幸雄さんです。
楽天は、近鉄とオリックス(阪急)の合併劇のいわば副産物として生まれ、岩隈はじめ、かつて近鉄で戦っていた選手が多く入団してできたチームです。
ですから楽天の前身は近鉄、といっても過言ではありません。
この近鉄もかつては万年Bクラスのチームでした。
このチームをパ・リーグの覇者に導いた名将が、西本監督です。
西本は1950年にセ・パ両リーグの誕生に伴い、毎日オリオンズに入団。
すでに30歳でピークは過ぎており、選手としては目立つ実績のないまま現役を引退します。
1960年、毎日オリオンズの監督に指名され、監督生活がスタート。
以後、阪急、近鉄で8度のパ・リーグ制覇を成し遂げます。
しかし、一度も日本シリーズを制して日本一になることはなく、「悲運の名将」と言われました。
しかし、彼はそういわれることを拒み続けていました。
西本は、選手の育成のためには敢えて鉄拳制裁や自身の首を賭けることも辞さず、闘将とも言われました。
一方で、近鉄時代の梨田のコンニャク打法や小川の独特の打法など、選手の個性をつぶすことなく生かし、信頼の厚い監督でした。
常に選手と本気でぶつかり合い、常勝チームを築いてきた西本監督は、最後の試合となった1981年の近鉄-阪急最終戦で、両チームの選手から胴上げされて有終の美を飾りました。
その西本監督は、次のような言葉を残しています。
私のような人間が8度も日本シリーズに行けたのは、優秀な選手たちに恵まれたからだ。
私は、決して「悲運の名将」などではなく、
「幸運な凡将」だった。
彼の人生観と人柄が凝縮された、心に残る言葉です。
あんなことになり、すごくショックでした。
個性的な集団、常勝近鉄を作り上げたのはまちがいなく西本さんだったと思います。
西本さんの情熱と人柄が、その後の近鉄を作ったといっても過言ではないですよね。そう思います。
近鉄の強かった時代は、西本さんの時代であり、何とも個性的なチームだったように思います。
また来てくださいね。