以下は池原冨貴夫氏の名著、「昭和天皇は朝日が嫌いか」《巨大メディア―その捏造の歴史》(KKベストブック1,200円)からである。
記者の実力とは無縁、「閨閥」好きの朝日
鈴木貫太郎総理と共に、終戦に向けてご苦労された東郷茂徳外相。
偉大だった元外相を祖父とし、共に日比谷高校に入学した双子の東郷兄弟。
弟・和彦は東大から外務省、兄・茂彦は早大から朝日新聞に入社した。1968(昭和43)年に朝日の記者となった茂彦は、その毛並みのよさから社内でも期待のホープだったが、76(昭和51)年の記者時代に、国会議事堂内に見学に来ていた少攵のお尻を触る痴漢行為が発覚して依願退職。
その後、ワシントン・ポスト紙の記者に転じた茂彦は、一度だけスクープを抜いた。
1993年の「小和田雅子・皇太子妃」決定の特ダネだった。
しかしこの特ダネには、弟の和彦と小和田恆の外務省ラインが情報源として介在していたとの噂が絶えなかった。
外国紙の東京特派員になっても茂彦のセクハラ癖は終わらず、累犯を重ね懲役8ヵ月(求刑懲役1年)の実刑判決を受け、ワシントン・ポスト紙も退社。
若宮啓文の父は、朝日新聞政治部記者から鳩山一郎首相の秘書に転じた若宮小太郎。
親子二代の朝日記者である。
啓文は政治部記者から主筆へと朝日のエリートコースを歩んだが、記事でも政治観でも「語るべき」中身が殆どない。
「安倍の葬式はうちで出す」のが朝日の社是と、言ったとされる程度の記者で、朝日の斜陽に輪を掛けた。