以下は前章の続きである。
この二つの島の教訓は日本にも当てはまる。
韓半島は近く崩壊する。
あの民がゴムボートや小型船でそれこそ雲霞のようにやってくる。
彼らは半島から50キロの対馬を目指す。
ランペドゥーザの半分の距離だ。
上陸したら難民を主張する。
そこから先の騒ぎはEUで見たとおりだ。
しかしそれを杞憂と見る人もいる。
両国を境する海峡には南からの対馬海流が流れる。
狭いから流れは速く、海水温の高さはときに嵐を呼ぶ。
世界屈指の荒れる海ゆえに遣唐使船も対馬海流を横切る北ルートではなく、南回りで寧波に行っている。
神功皇后は4世紀、対馬の鰐浦で潮を待ち、一挙に三韓を征伐した。
この間に雷で二度、嵐で一度、日本軍が避難した記録が残る。
「奇運烈風」が吹く難所は現在も変わらない。
つい2年前にも対馬の漁船6隻が予期せぬ嵐で転覆し6人が亡くなっている。
あの海峡が荒れているからこそ日本は難民禍から守られてきたともいえる。
実際、対馬に立つと神功皇后の参った海神神社から7世紀の防人阿比留一族の砦、元と戦った宗家の首塚など日本の歴史がそのまま留められた史跡に溢れる。
対馬海流は古来、卑猥な大陸と日本を隔ててきた。
昭和天皇はこの島を思い「わが庭のひとつばたごを見つゝ思ふ海のかなたの対馬の春を」と詠われた。
白い花を咲かすこの木は神功皇后ゆかりの鰐浦の丘に群生。
対馬の民はその歌碑を丘に建てた。
しかし対馬海流が国を守っても心ない人間はいる。
対馬郷土史家の永留某らが朝鮮万歳を繰り返し、街にはハングルが溢れる。
訳してもらったら「立小便をしないでください」。
そして鰐浦の丘の上に韓国展望台が建てられた。
そこにあった昭和天皇の歌碑は廃棄されたと聞く。
8月、改めて日本という国を考えてみたい。