以下は前章の続きである。
今次の安保法制は、同盟国とやらのUSAが今どんなに深い混迷に沈んでいるのかについて何らの判断もしていないという意味で、称賛すべきものではない。
ただし、それを「戦争法」と呼んで、反戦気分を国民のうちに盛り上げることを狙い、そうすることによって「平和日本とはパワーレス国家のことなり」とするのは、児戯にすら及ばない錯乱の国家論である。
「戦争のない状態」を達成維持するのに必要な防衛戦力と交戦準備をなす、そのための法的体制こそが「平和法」であるとみなさなければならない。
平和の「ない」状態が戦争であり戦争の「ない」状態が平和なのであるから、戦争法と平和法は武器の問題をめぐって表裏の関係にあるにすぎない。
日本人よ、けっして馬鹿者の一億三千の集まりではないはずのニッポンジンよ、少しは精神の耳目を開いて(旧敵国の)アメリカと中国とロシアがどんな状態になっているかを眼を開いて直視し脳漿を絞って注意せよ。
アメリカは孤立主義に入るぞと公言し、ロシアは経済封鎖を突破して(主として)日本との交易を求め、中国はみずからの覇権拡張主義に自己不安を抱きつつある。
そこで日本はみずからの軍事・外交の微妙な(つまり臨機応変の)舵取りを迫られているのだ。
ガヴァン(統治)することは、ギリシャ語ではキベルノンであり、そこからサイバー(舵取り)とガヴァン(つまりあえて造語でつないでみると「ガイバーとガヴァン」)とが同義であるという意味合いになる。
情報機器を使うか政府組織を使うかは状況によるだけのことであって、大事なのはオケージョン(場合)に応じて両者のバランスのとれた組み合わせを決めることである。
そうなってはじめて、国家の「舵取り」が何とかうまくいく。
その「平衡のとれた(情報と組織の)結合」のために必要なのは何か。
結論に近づけさせてもらうが、日本人が言語における記憶力、表現力、解釈力、仮説(形成)力、想像力を強めることである。
戦前のある歌謡曲の文句でいえば「強い額に星の色を映す」ほどにオツムを存分に用いて聡明になること、そうした国民の精神力がなければ、どんな情報も組織も、そしていかなる人員も物材も、宝の持ち腐れとなる。
この「豊かさの絶頂に近づいている国家に深い憂愁の気分が立ち込めている」のは、この国民の言語力が次第に空洞と化しつつあるせいと思われてならない。
言語の力に限っていえば、「深い孤立心にもとづく強い拡大力」、それが良き言語活動をもたらす。
あっさりいうと、アメリカへの依存心は日本人の言語力の根幹を腐らし、この列島の内がわのことにかまけるやり万はその枝と葉を枯らす。
その点で幾多の錯誤を含んでいたとはいえ、戦前の日本「帝国」は孤立心と拡大力の双方を具有する一人前の国家であった。
ギリシャ哲学者田中美知太郎が「昔は人も時代も上等であった」ということの本質はそういうことではないのか。
あるいは福田恆存が「自分は、本心にあって、西洋派である」といったのも、その孤立と拡大のあいだの緊張に堪えてそれを乗り越えて前へ進むしかない、ということだったのではないか。
この稿続く。