以下は前章の続きである。
中国こそ賠償してほしい
今、こうした引き揚げの苦労なども見聞きすることは少なくなりました。
風化しているんですね。
戦後賠償なんて話がありますが、賠償なんて必要ないと思います。
これは以前、亡くなった渡部昇一先生も指摘されていましたが、私もそう思います。
彼らが賠償は要らないと判断したのは、恩情からなどではありません。
国家予算の何倍にも及ぶ莫大な資金、資産を日本人は中国大陸に残したからです。
我が家にしても会社は分捕られ、貯金や預金、数々の資産に至るまで身ぐるみを剥がれ、引き揚げの途中でも裸一貫になるまで根こそぎ持っていかれました。
日本に到着して私たち家族は日本政府から1000円を支給されました。
家族5人で5千円で今の価格で5万円です。
中国に残したのは、今の価値で少なく見積もっても5億円、多く見積もれば10億円ぐらいあります。
これが中国に取られたわけで、これはむしろ私たちが返してほしい、といいたいくらいです。
渡部先生はこうした事情をよくご存じでした。
ですから日本が中国に謝罪する必要などない、という立場を生涯貫かれました。
実態を知っている者からみれば、中国が日本に感謝こそすれ、謝罪を日本に要求したり、賠償を求めることなどできなかった話なのです。
そしてこうした認識は昭和四十年代くらいまでは国会議員の間でも広く共有されていたが、徐々に薄れていって、戦後賠償が唱えられ、謝罪決議がなされるようになったと憂いておられました。
こういう話を耳にすると本当に教育は大事だ、と痛感します。
昭和39年に日本社会党が訪中して毛沢束主席と会談したときの話です。
当時の佐々木更三委員長が「過去において、日本軍国主義が中国を侵略し、みなさんに多大の損害をもたらしました。われわれはみな、非常に申し訳なく思っております」と言ったさい、毛氏は「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権力を奪取することは不可能だったのです」と言っています。
日本軍は共産党政権を樹立させようと戦争をしたわけではありませんが、これが戦争に対する中国側の認識だったんです。
引き揚げ後、私は京都の小学校に通いました。
小学校では肉弾戦に明け暮れ、軍国少年を捨て切れない日々を過ごしましたが、中学では標準語のおかげで弁が立つと生徒会長に選ばれたんです。
私は中国の暮らしが長かったので京都弁に染まってなかったんですね。
陸上部のキャプテンもやって戦後の中学生へと徐々に変わっていきました。
紫野高校に進んだ私は放送研究会に入ったのですが、標準語が京都では珍しいと重宝され、校内アナウンスも任されました。
アナウンサーになってみようかな、と思ったのはそのあたりからです。
大学は早稲田に行きましたが、放送研究会に入って、そこからTBSへと行ったんです。
当時の放送研究会ではフジテレビの露木茂君やTBSの大沢悠里君が後輩で、文化放送で活躍された桂竜也さんが先輩でおられました。
この稿続く。