以下は4/26に発売された月刊誌WiLLの巻頭を飾る加地伸行氏の連載コラムからである。
朝日新聞などを購読しNHKなどのテレビ局の報道番組やワイドショーだけを見ている中高年…情報弱者と定義されている人たちこそが読まなければならない月刊誌群の一冊なのだが。
日本国民全員が必読の論文が満載されていて、たったの840円なのである。
読者は知己にも声をかけて最寄りの書店に購読に向かうべきである。
何故なら、そうしない限り、日本は日本以外の他国ならスパイと定義されるような国会議員たちや日本に対する敵性国家の工作員たちの細胞となっているジャーナリストや言論人と称する人間たちによって、日本を貶め国際社会における日本の存在感を低下させ日本国民の信用と名誉を棄損する反日プロパガンダに与する恥ずべき日本人=売国奴、或いは、国賊としての日本人になるだけだからである。
老生、人間ができておらぬ小人ゆえ、他人の悪口を言ったり聞いたりするのが大好き。
と言うことからであろう、老生に書評をと言う仕事は、まず来ない。
常識的には、その本について、二分貶して、八分褒めるというあたりが最善の書評。それがまあ正続か。
しかし、老生は世の健全な(つまりは退屈な)教育的な(つまりは洗脳的な)筆運びをしない(つまりはできない)崩れ者なので、書評などさせたりしたら、あぶない、あぶない。
それで老生には声がかからないのであろう。
ならばと、いつもの悪い癖で、勝手に書評をいたしたい。
もっとも、なんの縁もない本を取りあげることにして、新聞広告からいい加減に選び出した。
と言うものの、でかでかと大広告で目に入ったというだけの理由。
出版社・著者ともに無縁。
もちろん、書店に行って代金は自腹。
その書名は『極上の孤独』、著者は下重暁子。
もちろんどんな経歴の人か知らなかった。
読了後の感想―駄本、それも天下の駄本と言ってよい。そのわけは以下。
著者の下重某は、同書全般、孤独、孤独と言い続けているが、その経歴上、何の苦労もしていない。
それこそ泥の中を這いずり回るような苦しみなど、何もない。
社会的にも金銭的にも何の苦労もしていない。
それでよく孤独と言えたものだ。
孤独を実感する最大のものは、もちろん絶望である。
では下重某はどんな絶望を経験したのかと言うと、失恋である。
「十年間惚れぬいた男性との別れが訪れ……タクシーで帰る間……私の目から涙が流れ続けた」と記す。
なんじゃこれと思った。
下重某は、文中、「つれあい」と称し今は別のオッサンと同居している。
そのオッサン、気の毒じゃのう。
「一生に一度の恋」をした後、このオッサンと同居したはいいが、心はあっち。
となるとオッサンこそ孤独じゃのう。よく同居できるわ。
ふつうの神経なら、十年も関係のあった男の話など今の男には〈言わぬが花〉―それが教養と言うものじゃがのう。
さきほどの引用文、その流した涙をこう形容している。
「体内にある水分が全て流れ出たかのように……」と。
なんという散文的な描写であることか。
生物の講義みたい。
文才はまったくない。
こういうときは、例えば、『土佐日記』でも引いて、「行く人もとまるも袖の涙川」とかな。
また、下重某、人生の真剣勝負を知らない。
「仕事柄、学者にインタビューすることが多かったが、東大をはじめとする優秀な学者には、自分の専門以外、何の話題もなく、つまらぬ人が多かった」と述べる。
思わずおいおいと言ったわな。
研究者は、その専門に徹することに生命を燃やしているのだ。専門のみを知り、その他は知らない、それこそ真の学者なのである。
常に真剣勝負をしているならば、専門以外のことなど知る暇はないわな。
テレビを観るがいい、なんとか大学教授と称してあれこれ時の話題を知ったかぶりして言っているのがよくいるが、おそらく研究などしたことのない連中だろう。
研究に専念しているならば、ことばを慎むからである。
それが教養人である。
と書き出してゆくと、同書と同じくらいの分量の批判となろうから、この辺で。
真の絶望をしたことのない者が軽々と絶望について書き、研究者の在りかたが分っていない俗論を書き……それで一丁上りのこの種の安物刊行―ところが下重某は日本ペンクラブの副会長とある。
同クラブも大したことのない組織と見た。
読了した同書、何の価値も見出せないので、捨てることにした。
今や、一冊でも蔵書から減らすことに専念の終活の老生、書評などという無縁な話に手を出したこと、後悔後悔。 古人曰く、噫、斗しょうの人(小さな器分程度の凡才)〔に対しては〕、何ぞ算ふる〔評価する〕に足らん、と。