文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

この記事では「報道ステーション」の事例を中心に、「国民」「民意」という言葉のテレビ報道での理不尽な用法について指摘してみたいと思います

2018年11月05日 07時55分11秒 | 日記

2018-04-24 に発信した章である。

以下は先日発売された月刊誌HANADAセレクションに掲載された藤原かずえさんの目の覚めるような見事な労作からである。

彼女の肩書がブロガーであることはインターネットこそが人類史上最大の図書館であること、

彼女のような人たちが発信しているインターネットと私が言及して来たHANADAを含む月刊誌こそが真実を明らかにしていて新聞・テレビ・週刊誌等のマスメディアは極めて不実な存在である事を明らかにしているのである。

この本物の労作は日本の既存のマスメディアのお粗末さを明らかにし、彼らの終焉を告げている。

日本国民全員のみならず世界中の人たちが読まなければならない論文であり真の労作である。

見出し以外の文中強調は私

「報道ステーション」の印象操作

「国民」とは誰か? 

2017年のテレビ報道において顕在化したのは、フェイクニュースを用いた不合理な政権攻撃であったと言えます。 

例を挙げれば、TBS「ひるおび!」の東京都議会議長の握手拒否報道、フジテレビ「バイキング」の国会委員会における官僚の居眠り報道、そしてTBS「NEWS23」「サンデーモーニング」の2万2千リツイート報道、そしてテレビ朝日「報道ステーション」の安倍晋三記念小学院の黒塗り報道などなどです。 

そんななかで見過ごされがちなのが、過去から脈々と続く「国民」の「民意」を都合よく語る、昔ながらの世論誘導です。

私がウォッチしたところ、安倍首相が改憲の議論を始めた頃から、テレビでは「国民」という言葉を使った言説が極めて多く認められるようになりました。 

なかでも「報道ステーション」は、スタジオトークで「国民」という言葉を頻出させ、「国民」の名の下に政権批判を繰り返しました。 

メディアが客観的な根拠を基に政権批判を行うのは健全な姿であると考えますが、定義が曖昧なままに「国民」という言葉を濫用して政権批判を行うのは、健全な姿ではありません。 

この記事では「報道ステーション」の事例を中心に、「国民」「民意」という言葉のテレビ報道での理不尽な用法について指摘してみたいと思います。 

日本語において「国民」という言葉は、国籍を有する個々の構成員を表す【普通名詞common noun 】として用いられると同時に、構成員の集合体を意味する【集合名詞collective noun】としても用いられています。 

このため、「国民」というだけでは、それが「個々の国民」であるのか、「一部の国民」であるのか、「全ての国民」であるのかを区別することはできません。

ここに論理の【曖昧性ambiguity】が発生します。 

論理における命題は、次の四つの形式のうち、いずれかの形をとります。 

A〈全称肯定判断〉 全てのSはPである 

E〈全称否定判断〉 全てのSはPでない 

I〈特称肯定判断〉 一部のSはPである 

O〈特称否定判断〉 一部のSはPでない 

当然のことながら、「国民は~である」「国民は~でない」という命題において、それが「全ての国民」を意味するか、「一部の国民」を意味するかによって、命題の真偽が変わることになります。 

マスメディア報道はこのトリックを利用して、実際には「一部の国民」を意味する「国民」という言葉を「全ての国民」を意味するかのように偽装し、狡猾に印象報道を行っていると言えます。 

たとえば、一部の国民のみが国政のある課題に疑問を持っている場合に「国民は疑問を持っている」と報道しても、それは虚報ではありません。 

しかしながら、文脈を読めない視聴者は「全ての国民(自分以外のほとんど全ての国民の意味)が疑問を持っている」と誤解釈し、持論がその言説に反する場合にはそのことを公言することを控えるようになり、【沈黙の螺旋spiral of silence】に陥ってしまう可能性があります。

ちなみに、【同調圧力peer pressure】が欧米社会に比べて敏感に作用している日本においては、このような「自粛」は日常茶飯事であると言えます。 

また、一般に全称判断の命題については、煩雑を避けるため「全ての」という形容詞を省略可能とする約束があります。

たとえば、「人間は考える葦である」という命題は「全ての人間は考える葦である」ことを意味しますが、通常は「全ての」という形容詞を省略します。 

このような点でも、「一部の国民」のことを「国民」と呼ぶ場合に、それが「全ての国民」であるとミスリードされやすいと言えます。 

なお、マスメディアがしばしば用いる「多くの国民」という言葉もプロブレマティックです。

この言葉はほぼ全称表現であるかのように聞こえますが、明らかに「特称」表現です。

場合によっては、全称に近い特称ではなく、〇に近い特称のケースがあります。 

たとえば、マスメディアが「多くの国民」という枕詞で紹介する「国会前の抗議デモ」に参加する100人程度の国民は、2~3人の国民と比較すれば「多くの国民」ですが、日本人全体からすれば1,000,000人に1人の存在に過ぎません。

たとえ10,000人集まったところで、10,000人に1人の存在です。

この100人をもって「多くの国民」というのは、あまりにも実態とかけ離れたミスリードであると言えます。

この稿続く。


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