以下は今日の産経新聞11ページに掲載された連載記事からである。この記事は日本国民全員必読である。理由は言うまでもない。
「朝鮮人強制連行」一体誰が… 日本たたきのツールにされた言葉
「朝鮮人強制連行」という言葉が戦前・戦中はもちろん、戦後しばらくも存在しなかったことは以前、書いた(連載42)。
虚偽にもかかわらず、“日本の悪行のシンボル”のごとく使われるようになってしまった言葉は、いったい誰が言い始めたのだろうか。
特定するのは難しいが、評論家・詩人の藤島宇内(1924~97年)が岩波書店発行の雑誌『世界』昭和35(1960)年9月号に書いた論文の中で使用されたのが最初ではないか、という見方が多い。
首都大学東京名誉教授の鄭大均(70)は、著書『在日・強制連行の神話』で、1960年代以前にこの言葉がほとんど使われた例がないことを指摘した上で、「おそらくは(先行して1950年代半ばから使用されていた)『中国人強制連行』から得た発想なのだろう」と言う。
この藤島の『世界』論文は「朝鮮人と日本人―極東の緊張と日・米帝国主義」のタイトルがつけられている。
文字通り、内容は親北朝鮮、親中国のスタンスに立ち、対峙する日米を、「帝国主義」、韓国を「強圧的な悪政」と指弾したいのが趣旨であろう。
その中で藤島は、4ヵ月前の『世界』昭和35年5月号に掲載された「戦時下における中国人強制連行の記録」に触発されたとし、《…「強制連行」は中国人に対してだけ行なったのではなく、朝鮮人に対してもより大規模に長期にわたって行われた犯罪である…しかもこれに対しては一かけらの反省もあらわれない》と日本の姿勢を痛罵する。
そして、「朝鮮人強制連行の記録」とした第2章で、《1939年からは朝鮮人に対して強制的な「労務供出」政策が実施された(略)1940年代の5年間に強制連行されてきた朝鮮人は100万人ちかいといわれ…》と主張。
朝鮮人男性の寝込みを襲い、トラックに乗せて炭鉱に送り込んだ、とか街を歩いていた青年が突然、警官に捕まり、炭鉱へ送り込まれたーという信じがたいエピソードを挟み込んでいる。
ただ、論文の趣旨からすれば、朝鮮人強制連行のくだりは、「現在」を語るのに「過去」の事例を持ち出し、無理に“ねじ込んだ感じ″が否めない。
「寝込みを襲い…トラックに乗せて」のエピソードについても、原文にある、やったのは「朝鮮の官吏」という部分が削除されたことが分かっている。
つまり、朝鮮人強制連行を“善玉(北朝鮮・中国)”を際立たせ、日本を糾弾する「印象操作のツール」として使ったのではないか。
狙いは日韓条約阻止
『世界』の「中国人強制連行の記録」を読んで朝鮮人強制連行に関心を持った人物がもう1人いる。
後に、この言葉を大きく拡散させることになる『朝鮮人強制連行の記録』(昭和40年)の著者、朴慶植(1922~98年)だ。
朴は、日本統治下の朝鮮慶尚北道に生まれ、6歳のとき一家で大分県に来た。
もちろん“強制連行”などではない。
ほとんどの朝鮮人がそうであったように、貧しい農民だった父親が新たな仕事を求めて自ら日本へ渡ってきたのである。
戦後、東洋大学を出た朴は、東京朝鮮中高級学佼(日本の中・高校)の社会科教員を経て、昭和35年、朝鮮大学校歴史地理学部の教員となった。
そのころ、『世界』の論文を読み、朝鮮大強制連行問題に踏み込んでゆくのだが、『在日朝鮮大・強制連行・民族問題古稀を記念して』 (平成4年)に、その「きっかけ」が書かれている。《大学教員の立場から何をもって(在日朝鮮人の)運動に寄与しようかと考えました(略)
『世界』五月号に「戦時下における中国大強制連行の記録」という調査報告がのったことに私は刺激を受けました…朝鮮人の強制連行については朝鮮人自身がやらなくてはと考えました》と前置きした上で、《「日韓(基本)条約」調印の少し前の(昭和40年)5月、それに反対する立場から『朝鮮人強制連行の記録』という単行本を出しました》(同書から)と綴っている。
日韓条約を阻止するためには、こんな“非道なこと(朝鮮人強制連行)”をやった日本。そして過去の反省・謝罪もないまま、そんな国と国交正常化をしようとしている韓国を糾弾することが必要だったのだ。
この稿続く。