文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

人間を世間や家族から切り離して「個人」としてとらえる思想は、近代西洋の生み出した異常な人間観であって、違和感を持って当然なのです

2017年10月18日 16時00分08秒 | 日記

以下は前章の続きである。

先人たちの葛藤

長谷川 

ただ、明治の先人たちは、学ぶだけじゃなく考えることもしていたと思います。 

実は、「日本人は学ぶより考えよう」という題名を見て最初に思い浮かべたのは、明治の先人たちのことだったんです。 

幕末から明治にかけて大量の洋書が日本に入ってきて、英語もドイツもフランス語も習得する必要がありました。

語学を必死に学んでいた人たちは、それを通じて思想の格闘をしていたと言っていいのではないかと思います。

単に受動的に「学ぶ」だけじゃなくて、「これは一体何なんだ」と自分から問いかけながら「考え」たと思うんです。 

その成果が今も残っているのが、翻訳語です。

今、新聞や雑誌で使われている日本語の半分以上が翻訳語と言われていますが、これを生み出したのは日本人の思考力だと思っています。 

例えば、英語の「individual」は「個人」と訳しますが、よく考えてみると「個人」というのも何だかへんてこな漢語です。

ラブレターに「私個人としてはあなたが好きです」と書いたら、すごく違和感がありますよね(笑)。

今も違和感があるくらいですから、当時はさらに違和感があったでしょうね。

そして現に、人間を世間や家族から切り離して「個人」としてとらえる思想は、近代西洋の生み出した異常な人間観であって、違和感を持って当然なのです。 

この奇妙な翻訳語は明治の先人が「学ぶ」と同時に「考えること」をしていた証拠です。

今の我々は明治の先人たちの主体的な取り入れに学ぶべきでしょう。

この稿続く。


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