高山正之の以下の著書を私の勧めに応じて最寄りの書店で購読した読者は、これ以上ない感謝を著者に捧げるとともに、推薦者の私にも幾ばくかの感謝を抱いてくれているだろう。
彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストであり、日本人である事に誇りを抱くであろう。
彼の博識、見識、検証の見事さ、取材能力の高さに、誰もが感嘆、驚嘆するはずである。
全ての章が凄いのだが、以下の章は特に凄い。
見出し以外の文中強調は私。
三菱重工爆破事件の「大道寺の死」に想う
天皇暗殺を二度にわたって断念した彼は日本人だった?
あさま山荘を境に左翼が没落
かれこれ40年近い昔、東京・丸の内の三菱重エビル正面玄関で白昼、大爆発が起き、8人が即死し、400人近い人たちが重軽傷を負った。
当時、こちらは航空担当の記者で、あの日は運輸省航空局長との記者懇があって、お濠を望む庁舎7階の局長室にいた。
爆発音はそのお濠の上を越えて局長室の窓を震わせた。
第1報は確か「搬送中のプロパンガスが爆発した」だった。
それが爆弾テロによるものと分かったのは、だいぶ経った夕暮れ時だった。
それほどテロという言葉がみんなには唐突に感じられた記憶がある。
なぜそう感じたかというと、この事件の4年前が70年安保だった。
その10年前の60年安保のときのやや牧歌的な雰囲気は消えて学生は顔を隠し、鉄パイプで武装するスタイルに変わっていた。
機動隊との衝突では投石や火炎瓶が舞い、機動隊側に多くの死傷者が出た。
そこらのおばちゃんがデモ学生におにぎりを振る舞うような60年安保ののどかさは消えていた。
活動家と市民の乖離が頂点に達したのが72年の連合赤軍事件だった。
赤軍派と日共のはぐれ組織が野合し、女の嫉妬も絡んで彼らは12人を殺し、警察に追われ、民間人を人質に「あさま山荘」事件を起こし、ここでも警官を殺害した。
あさま山荘は丸―週間、人々をテレビの前にくぎ付けにし、その残忍さと狂気に度肝を抜かれた。
この事件を境に人々は憑き物が取れたように左翼陣営が奏でる幻想から覚めていった。
60年安保の前年に発売され、ずっと30万部近くを売った朝日ジャーナル誌は実売3万部以下に落ちていった。
過激派自身も活動の場を失い、せいぜい内ゲバで殺し合うことに生きがいを感じているようにすら見えた。
それから2年経って丸の内で革命を目指すダイナマイト700本分の爆弾テロが起きた。
この稿続く。