文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

金九…ウィキペディアから。

2012年08月28日 13時51分35秒 | 日記

史上最大の図書館であるインターネットを、その最も素晴らしい所で在る関連事象の並列に沿って尋ねて行ったら、金九、という初めて聞く名前があった、

韓国では英雄扱いなのだという。

韓国と云う国には、知性は在るのだろうかと、私は、真剣に懸念する。

以下はウィキペディアから。


…大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、首相代理、国務領(首相)などを務めた。1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席である。

1896年 鴟河浦事件。食事を注文した時に女性の給仕が自分より先に食膳を与えるのを見て憤慨し、閔妃殺害にはなんら関係がない日本人・土田譲亮を日帝・日本人への懲罰として殺害した。

金九は後に土田を日本陸軍中尉と記しているが、被害者の土田は長崎県出身(貿易商・大久保機一が雇用)の商人であった。

殺害後金品を奪って逃走、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けた。後に特赦により減刑され、さらにのち、脱獄する。

^ 『土田譲亮撃殺の件 取調べ調書』
^
長崎縣平民土田譲亮なる者朝鮮人1名(平安道龍岡居住林学吉二十歳)を隨へ、黄州より帰仁の為め鎮南浦へ向ふの途次、黄州十二浦より韓船一隻を僦ひ大同江を下り、3月8日夜治下浦に泊し、翌9日午前3時頃同所出帆の用意を了へ、喫飯の為め同所旅宿業李化甫方に到り再び帰船の際、同家の庭前に於て同家宿泊韓人4、5名の為め打殺せられたり。

―アジア歴史資料センターレファレンスコード:A04010024500, 『在仁川領事館事務代理萩原守一ヨリ仁川港ノ情況ニ付続報ノ件』

雇韓人林も亦殺害の難に遭はんとせしも、辛ふじて危険を逃れ、同12日夜平壌に来り同所駐留平原警部に右の顛末を訴へたるを以て、同警部は巡査2名、巡検5名を率ひて同15日現場に臨み検視を行はんとせしに、右旅宿主人は警部等の到を聞きて逃走し、殺害者の屍体は既に河中に投棄したるを以て検死することを得ず。

―アジア歴史資料センターレファレンスコード:A04010024500, 『在仁川領事館事務代理萩原守一ヨリ仁川港ノ情況ニ付続報ノ件』
^
倭奴(ウェノム)の頭から足の先まであちこちを切りつけた。二月の寒い明けがたのことで、氷が張っていた地面に、血が泉の湧くように流れた。

わたしは手でその血を掬って飲み、またその倭(ウェ)の血をわたしの顔に塗り付け…

―金九, 『白凡逸志』日本語版 平凡社 (1973年) 79ページ

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