4/10に発売された月刊誌Voice5月号には読むべし論文が満載されていると友人に話したはいいが、多くの論文を読み残していた事に気が着いた。
以下は、官僚の毒に侵された日米の憂鬱、自分の行動を客観視して修正できない高学歴エリートの罪と題したケント・ギルバート氏の論文からである。
これらの論文が満載されていながら月刊誌Voiceは780円なのである。
活字が読める日本国民全員が5/10には最寄りの書店にダッシュして購読しなければならない。
そうしなければ貴方が物事の真相を知る事は決してないからである。
見出し以外の文中強調は私。
共産党がリベラル!?
先月半ばに上梓した『リベラルの毒に侵された日米の憂鬱』(PHP新書)にも詳しく書きましたが、日本での「リベラル」という言葉の使われ方は、どうにも、おかしく感じられて仕方がありません。
たとえば、2017年10月の衆議院選挙の折、枝野幸男氏が立憲民主党を立ち上げようとしていることを報じる『朝日新聞』の記事(2017年10月2日付夕刊)には、次のような言葉が並びました。
《枝野氏らが新党を結成することで、10日公示の衆院選は「自民・公明」、「民進合流組を含む希望」、「枝野氏らの新党とそれに連携する共産などリベラル勢力」―という三つどもえの構図となる》
この報道に代表されるように、このときの総選挙で日本のメディアは、「立憲民主党、社民党、共産党」をまとめて「リベラル勢力」と色分けしていました。
「え-っ!?共産党がリベラルだって?」―共産党の活動が、1954年に連邦法で非合法化されたアメリカで育った私には、この分類はあまりにも違和感があります。
そもそも共産主義や社会主義という制度は、かつてのソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)や、現在の中華人民共和国(以後、便宜的に中国と表記する場合があります)を見ればわかるように、その実態として自由な言論や報道は許されず、検閲や言論弾圧が当たり前に行なわれるなど、閉鎖的で全体主義的な傾向を強くもつものです。
それなのに日本で、コミンテルン(共産主義インターナショナル)日本支部がルーツである日本共産党や、政党名を何度変えてもつねに政権与党への「反対のための反対」しか唱えない複数の左派政党を「リベラル=自由主義的」と呼ぶのは、どういう意味なのでしょうか。
そんな疑問をもっていたら、テレビ東京が2017年10月の衆院選挙の開票の折に放送した番組「TXN衆院選SP池上彰の総選挙ライブ」のなかの「政界塵魘の辞典」と題する企画で、次のような言葉の定義を行なっていたと聞き、とても興味深く思いました(2018年1月現在、番組のウェブページでも紹介されています。http ://www. tv-tokyo. co. jp/ikegamisenkyo/devil/)《[リベラル]左翼と呼ばれたくない人たちの自称》
なんとも率直というか、皮肉が効いているというか……。
しかし、これぞまさに日本における「リベラル」という言葉の正しい定義であり、一般的な用法なのでしょう。
なるほどそれならば、たとえば民進党から立憲民主党に移った辻元清美衆院議員が、同じ総選挙の折に、「私はリベラルの力と重要性を信じています」と、声高らかにおっしやった理由もよくわかります。
「左翼と呼ばれたくない人たちが自称として使う」ということは、つまり「リベラル」という言葉は、日本ではもっぱら素晴らしいイメージとして理解されているということでしょう。
しかし、そのことにも私は違和感を覚えざるをえません。
ヨーロッパの状況は詳しくわかりませんが、じつは、少なくともアメリカの保守的な州では、「リベラル」という言葉について、二十世紀はいざ知らず、最近では次のような認識を毛っている人が多いからです。
「腹黒くて、胡散臭い」「抑圧的で、批判ばかりで、うっとうしい」 「自分たちだけが絶対的正義と考えていて傲慢」「囗だけ達者な無責任な連中で自分の非を認めない」「身勝手で利己的だから、自分の自由のためなら他人の自由を平気で侵害する」「現実を無視してキレイごとばかりいう」
言葉は生き物です。このような認識は、アメリカでは、すべての人とはいわないまでも、ある程度のレベルの人たちのあいだでは「常識」にすらなっていると私は感じています。
この稿続く。