文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

歴史①…ウィキペディアから。

2012年05月18日 07時52分23秒 | 日記

文中黒字化は私。

開山・隠元隆は中国明時代の万暦20年(1592年)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。隠元は当時中国においても高名な僧で、その名声は日本にも届いていた。

隠元が招かれて来日するのは1654年(順治11年、承応3年)、63歳の時である。

当時の日本は鎖国政策を取り、海外との行き来は非常に限られていたが、長崎の港のみは開かれ、明人が居住し、崇福寺(そうふくじ)、興福寺のような唐寺(中国式の寺院)が建てられていた。

隠元は長崎・興福寺の僧・逸然性融(いつねんしょうゆう)らの招きに応じて来日したものである。

はじめ、逸然が招いた僧は、隠元の弟子である也嬾性圭(やらんしょうけい)という僧であったが、也嬾の乗った船は遭難し、彼は帰らぬ人となってしまった。

そこで逸然は也嬾の師であり、日本でも名の知られていた隠元を招くこととした。

隠元は高齢を理由に最初は渡日を辞退したが、日本側からたびたび招請があり、また、志半ばで亡くなった弟子・也嬾性圭の遺志を果たしたいとの思いもあり、ついに渡日を決意する。

承応3年(1654年)、30名の弟子とともに来日した隠元は、はじめ長崎の興福寺、次いで摂津富田(せっつとんだ、現・大阪府高槻市)の普門寺に住した。




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