文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

そのほか、米軍は士官の戦死があまりにも多くて、着任した士官の名前を覚える暇もなかったほどだったという。 

2019年07月08日 10時01分11秒 | 日記

以下の江崎道朗氏の著作は歴史的な名著である。

この本を読まなければ戦後から今日に至る日本の事は分からないと言っても過言ではない。

中国共産党軍が日本に対して行っていた情報工作活動の根幹は二分論(米国も採用)…政府と人民を区別し、人民は正しく政府は悪いとする…。

今朝、有数の読書家である友人に、「朝日などやNHKなどのメディアの態様は、この洗脳がいまだに続いていると言う事だなぁ」と問いかけたら、いや、「もうそれに特化していると言う事でしょう」、

と返答して来た。

以下はp216からであるが、前章からご紹介しないと、この章が明らかにしている意味は十全には理解できないかもしれないので、どうぞ、最寄りの書店でご購読ください。

この章は日本国民、特に、沖縄県人が必読の書である。

硫黄島・沖縄での奮戦が「無条件降伏政策」を押し戻した 

このままだと無条件降伏政策を堅持するアメリカに対抗して、日本側も徹底抗戦と対ソ連携にこだわり、ソ連の対日参戦から日本の敗戦革命へという方向に進んでいきかねなかった。 

この危機を打開したものこそ、硫黄島・沖縄などにおける日本の将兵と民間人の奮戦であった。 

硫黄島と沖縄は、1945年秋に予定されていた米軍の日本本土侵攻計画の成否を握る重要な攻略目標だった。

しかしこの二つの戦いで米軍は、日本軍の頑強な抵抗に遭い、寸土を争う激闘を続け、膨大な死傷者を強いられた。 

ヤルタ会談の直後の2月19日に米軍の上陸が始まった硫黄島では、栗林忠道中将率いる日本軍が約22平方キロの硫黄島全土を要塞化して迎え撃った。

剛勇を誇るアメリカ海兵隊指揮官たちですら、空中偵察写真で日本軍の周到な準備を見て舌を巻いたという。 

攻略開始から5日間で島を占領する計画だった米軍は、結局、1ヵ月以上も死闘を繰り広げることになった。

防御側の日本軍約2万名はほぼ全滅したが、攻撃側の米軍の死傷者数は日本側を上回った。

日本軍は徹底して米軍に出血を強いたのである。 

沖縄戦も、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルが「軍事史上もっとも苛烈でもっとも有名な戦いである」と評した激戦であり、4月1日(米軍による沖縄本島上陸。慶良間諸島上陸は3月26日)から6月22日まで、4ヵ月近くにわたって戦闘が続いた。 

その間に、沖縄戦の連合軍最高司令官であったサイモン・B・バックナー中将も戦死している。

そのほか、米軍は士官の戦死があまりにも多くて、着任した士官の名前を覚える暇もなかったほどだったという。 

特に首里攻防戦初期の戦闘である「嘉数の戦い」は、普天間の近くにある嘉数高台という丘陵地を日本軍が4月8日から16日間守り抜き、一説によれば米軍側に約2万4000名の死傷者を出している(諸説あり)。 

硫黄島、沖縄などの戦いで、日本軍の勇敢かつ頑強な抵抗に直面し、多数の死傷者を出したことで、米軍幹部のあいだで「無条件降伏要求の見直し」を求める声が強まることになった。 

《沖縄戦はまたもアメリカの圧倒的勝利に終わった。日本の陸軍部隊が全滅し、何百機という飛行機や帝国海軍殼大の戦艦も破壊した。だが、この作戦が終わったとき、戦いに加わっていたアメリカ人でいささかでも高揚感を感じた者など皆無に等しかった。行く手に控える任務を前にして、不安と恐怖の感情が専らであった。琉球の一つの基地を獲得するのがこれほど大変だとしたら、日本本土への侵攻はどれほどの激戦になるのだろうか》 

特に沖縄では、軍官民、つまり軍人だけでなく官吏と民間人までが一体となって抵抗したことから、本土上陸作戦においても、日本軍だけでなく、民間人による強烈な抵抗が予想されることになった。 

戦史研究の専門家である庄司潤一郎氏も平成27年度戦争史研究国際フォーラム(防衛省防衛研究所主催)において、次のように指摘している。 

《米国にとって、このように日本側の本土決戦準備の状況は不完全で貧弱であったにもかかわらず、対日本土上陸作戦(「ダウンフォール作戦」)が迫るにつれ、生じ得る人的損害が最大の問題となった。すなわち、膨大な残存兵力と想定された玉砕攻撃は脅威であり、加えて、いずれも投入した米軍の35パーセント前後が死傷したと言われる、硫黄島・沖縄における日本軍の抵抗で苦戦を強いられた体験は大きいものがあったのである。例えば、1945年6月18日、ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領は、本土上陸作戦実施とその人的損害を検討するために、ホワイトハウスに会議を招集した。会議は、特に上陸作戦の死傷者の見積もりをめぐって、見解が分かれた。ウィリアム・リービ(William D.Leahy)陸海軍最高司令官付参謀長らは、沖縄戦の死傷率は約35パーセントで、本土上陸に際してもほぼ同様な犠牲が生じると推定し、したがって上陸作戦には積極的ではなく、犠牲を少なくするために、無条件降伏の条件緩和を主張していた》 

1945年2月の時点でアメリカ政府内部では、あくまで無条件降伏を求める「ウィーク・ジャパン派」が優勢であったのだが、硫黄島と沖縄戦での日本の奮闘の結果、無条件降伏の緩和を求める声が、米軍幹部のなかで優勢になってきたというのだ。 

現在の日本には、沖縄や硫黄島、ペリリューの戦いなどで亡くなった日本兵たちは「無駄死に」だったと冷たく言い放つ論者もいる。

だが、これらの戦いが米軍、そしてトルーマン政権に与えた影響を見れば、まったくの間違いだ。

アメリカ側が認めているように、沖縄や硫黄島での勇猛果敢な戦いが、アメリカの無条件降伏政策を大きく押し戻したのである。

この稿続く。

 

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