文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)

2018年09月14日 11時47分34秒 | 日記

以下は加地伸行氏の著作「マスコミ偽善者列伝」の第一章からである。

見出し以外の文中強調は私。

「戦争への道」―ありがちな感情論

平成272015)年、安保関連法案を戦争法案と称しての、朝日・毎日らの反対論は狂気そのものであった。

その昔、この眼でしかと見た、60年安保(昭和35年)の際の反対論紙面作りと似ている。 

そのため、老生には「この道は、いつか来た道」という既視感がある。ところが、朝・毎ら反対論者は、まったく違う意味で「この道は、いつか来た道」と歌う。 

その〈道〉とは、「戦争への道」という妄想であり、実体はない。

そこで、その雰囲気を漂わすため、さまざまな愚者に情緒的なくこの道反対〉を言わせる。

例えば、作家の瀬戸内寂聴。

僧侶としての法話中、「法案を通したら今度は戦争。……こんなに悪い日本(と感じたこと)は93年生きてきてなかった」と言ったと(毎日新聞七月二十日付)。 

同じく女性ジャーナリストの堤未果は、こう述べる。

格差社会では、徴兵制にしなくとも、志願兵はいくらでもいる。

貧困から抜け出すために応じるからで、いわば経済的徴兵制になる、と(同紙夕刊七月二十三日付)。

この種の感情論を、それこそ毎日読まされると、人の好い読者の多くは動揺することとなるだろう。

もちろん、それを狙った意図的編集である。

しかし、左筋ジャーナリズムのこうした感情論は誤まっている。

なぜなら、現代の国家や国民の意味、またその両者の関係が全く分っていないからだ。

例えば、近ごろ、立憲主義とやらのことばを有り難がっている連中がおり、「国民が国家(公務員等を含め)に勝手なことをさせないように縛りを掛けた内容や表現が憲法だ」などと称しているが、それはフランス革命に始まる一つの考えかたにすぎない。 

国家とは、宗教(西欧なら例えばカトリック)や王侯貴族のものではなくて、国民のものであるという〈国民国家〉観を持っている国家が近・現代国家なのであり、それぞれ自国にふさわしい憲法を作り、それに冓づいてそれぞれなりに国家運営をしている。

当然、国民自身が自国の憲法を遵守すべきなのである。 

すると、国家は国民のものであるから、国家は、同国民自身が運営し守らなければならないことになる。

すなわち、国民国家である以上、自国の防衛として徴兵制、が原則である。

前近代の王侯貴族国家のときは、税としての徴兵、あるいは生活のための志願兵であった。

〈徴兵〉と言っても、王侯貴族国家のそれと国民国家のそれとは決定的に異なる。

そのことを知らず(いや、隠してか)、瀬戸内某・堤某らは、感情論を沸かしている。

感情論と言えば、同志社大学大学院教授の浜矩子もそうだ。

4百字詰原稿用紙で5枚分も使って、安保関連法案の衆院通過をただ否定するだけであって、何の論証もない(同紙7月18日付)。

例えば「口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する」と。

しかし、狭いテレビ画面上の、しかもあの短いシーンで全員の口や目までそんなに細かく分るのですか。

大妄想。

ふと見ると、同稿とともに浜某の顔写真がある。

なんと口をへの字。お美事、良きお手本じゃのう。 

根源的な重要なことには触れず(いや、分らずか)、チョコッと調べたことを得々と吹聴するのは、三流の研究者によくある。

例えば、京都大学の永井和(京都大学教授を経て、現在、京都橘大学教授。専攻は歴史学〈日本近現代史〉)。

旧日本軍が慰安所の設置管理に関与していた文書を発見したと騒ぐ(朝日新聞七月二日付)。

しかし、いわゆる慰安婦問題の最大問題点は、強制連行の有無である。公娼制が存在していた時代に、軍、がどのようにあえて慰安婦を強制連行したのかという点を立証してこそ、一流の学者なのである。

それができていない。

問題の核心が分らず、ただ読書やことば遊びをしている連中は、その間に大切なものを見失っていることに気がつかないでいる。

羊飼い二人(臧(ぞう)・穀(こく))の羊が行方不明になった。

その件について、古人曰く、臧(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち筴(ふだ)(木・竹簡仕立の本)を〔指に〕挟みて読書しをれば〔知らぬ〕なり、と。

穀(人名)にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞(すごろく)〔を〕以て(使って)遊びをれば〔知らぬ〕なり、と。

〔臧・穀二人の羊飼いの羊が行方不明となったとき〕臧にいかなる事ぞと問へば、則ち筴を〔指で〕挟みて読書しをればなり、と。

穀にいかなる事ぞと問へば、則ち博塞以て遊びをればなり、と。                   『荘子』駢拇(へんぼ)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。