文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

今もなおアメリカの歴史及び民主主義の歴史を学ぶ際には欠かせない教科書の一つとなっている。

2016年12月06日 17時47分07秒 | 日記

アレクシ・ド・トクヴィル
アレクシ=シャルル=アンリ・クレレル・ド・トクヴィル(仏: Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville、1805年7月29日 - 1859年4月16日)は、フランス人の政治思想家・法律家・政治家。裁判官からキャリアをスタートさせ、国会議員から外務大臣まで務め、3つの国権(司法・行政・立法)全てに携わった。
プロフィール
ノルマンディー地方コタンタン出身。生家は古貴族にして軍人・大地主という由緒ある家柄だったものの、フランス革命の際に主な家族や親戚の多くが処刑されたことから、リベラル思想について研究を行っていた。その後ジャクソン大統領時代のアメリカに渡り、諸地方を見聞しては自由・平等を追求する新たな価値観をもとに生きる人々の様子を克明に記述した(後の『アメリカのデモクラシー』)。

30歳の時、家族の反対を押し切り、英国人で平民階級の3歳年上の女性メアリー・モトレーと結婚。1848年の二月革命の際には革命政府の議員となり、更に翌年にはバロー内閣の外相として対外問題の解決に尽力した。彼の政治的手腕はなかなか鮮やかなものであったが、1851年、ルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)のクーデターに巻き込まれて逮捕され、政界を退くことになる。その後は著述及び研究に没頭する日々を送り、二月革命期を描いた『回想録』と『旧体制と大革命』を残し、1859年に母国フランスで肺結核のため54歳の生涯を終えた。フランスが誇る歴史家・知識人である。

年表
1805年、7月29日、コタンタンの古い貴族の家に誕生。
1826年、6月、パリ大学で法学学士号を得る。
1827年、4月、ヴェルサイユ裁判所の判事修習生となる。この時ギュスターヴ・ド・ボーモンと知り合う
1829~1830年、フランソワ・ギゾーの歴史講義で多大な影響を受ける。
1831年、4月、ボーモンと共にアメリカを旅行(32年2月迄)。
1832年、5月、ヴェルサイユ裁判所陪席判事を辞職。
1833年、ボーモンと共に『合衆国における監獄制度とそのフランスへの適用について』を出版、アカデミー・フランセーズのモンティオン賞受賞
1835年、1月、『アメリカのデモクラシー』第一巻出版。
1835年、10月、メアリー・モトレーと結婚。
1838年、1月、道徳・政治科学アカデミー会員となる。
1839年、3月、バローニュ選出の下院議員となる。
1840年、4月、『アメリカのデモクラシー』第二巻出版。
1841年、12月、アカデミー・フランセーズ会員に選出される。
1849年、6-9月、オディロン・バロー内閣の外務大臣となる。
1851年、12月、クーデターにより身柄を拘束され、以後政治の世界から身を引く。
1856年、6月、『旧体制と大革命』出版。
1859年、4月26日、カンヌにて死去、5月に埋葬。
1893年、『回想録』出版。
思想・哲学
トクヴィルが19世紀初頭に当時新興の民主主義国家であったアメリカ合衆国を旅して著した『アメリカの民主政治(アメリカのデモクラシー)』(De la démocratie en Amérique)は近代民主主義思想の古典であり、今もなおアメリカの歴史及び民主主義の歴史を学ぶ際には欠かせない教科書の一つとなっている。日本では福澤諭吉が紹介している。

彼は著作の中で、当時のアメリカは近代社会の最先端を突き進んでいると見なし、新時代の先駆的役割を担うことになるであろうと考えた。だが同時に、その先には経済と世論の腐敗した混乱の時代が待ち受けているとも予言している。さらに民主政治とは「多数派(の世論)による専制政治」だと断じ、その多数派世論を構築するのは新聞、今で言うところのマスコミではないかと考えた。現代のメディアの台頭と民主主義政治との密接な関わり合いをいち早く予想していたのである。彼は大衆世論の腐敗・混乱に伴う社会の混乱を解決するには宗教者や学識者、長老政治家などいわゆる「知識人」の存在が重要であると考えており、民主政治は大衆の教養水準や生活水準に大きく左右されることを改めて述べている。


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