文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

もっと丁寧にいっておくと、この原稿も自分なりに真剣に書いているし、自分らの雑誌「表現者」での編集や執筆や発言も

2016年12月06日 20時20分42秒 | 日記

以下は西部邁氏の論文の続きである。

もっと丁寧にいっておくと、この原稿も自分なりに真剣に書いているし、自分らの雑誌「表現者」での編集や執筆や発言も自分なりに真面目にやっているし、MXテレビでの「ゼミナール」における企画や意見表明やゲストとの付き合いも全力でやっているし、社交の場での発話にも手抜きしていないし、独身の娘との共同生活にも細心の注意を払っているし、頚椎の湾曲からやってきた神経痛に襲われて二年半の自分の身体にたいする(遅々たる歩みの)治療も怠りなくやっている。

この男のいいたいのは、そうした残り少ない余生への取り組みのすべてから死臭が漂って出てくるのを止めようがない、という一事である。 

死臭といって聞こえが悪ければ「おのれの無力を徹底して知ることだ」と言い換えてもよい。そしてこの老人にようやくにして曇りなくわかることがある。

それは、すべてとはいわぬが多くの先人たちが「自分の無力を知りつつも残る精力の全部を尽くして生き、そして柩に入っていったに違いない」ということである。

この稿続く。


And after the winners expelled all kinds of human resources, it is now a scenery of daily life

2016年12月06日 18時08分24秒 | 日記

The following is the continuation of the previous chapter.

In both Japan and the world, the circumstances have changed significantly from the times of Tsuneari Fukuda’s and others (the same year as this man’s father).

In Ortega style, "Mas as a person without the ability to rule this world, attitude as well (it is normal to be translated as masses but correctly Drown in model fashion "Fictitious person"so to speak "Massive people"), continued to revolt (rebel) to such limitations, and that rebellion (from the latter half of the last century) popularization of democracy (an ideology that simply places the people as sovereigns, that is," unlimited power due to sublime "), it has already been a long time to succeed in shape.

And after the winners expelled all kinds of human resources, it is now a scenery of daily life to mourn that "there are no human resources in this world".

Moreover, the fulfillment of the rebellion is in keeping with the realization of "advanced information society", which means that large numbers of people taunt various information media (qualified person) and become pseudo intellectuals, pressing so-called public opinion on the state, the result is invited.

Here is the word "public opinion" (coined with lines of after-war kanji for the unlimited reason of reducing strokes) coinage - correctly its spread - is a social mikoshi (carton of carts) It is something that does not look like a common sense (as it used to be used).

In other words, the current opinion of today's popular opinion is public opinion.

This draft continues.


Knowledge of ignorance which Socrates mentioned, in other words, to know ignorance of yourself is

2016年12月06日 18時06分47秒 | 日記

The following is a continuation of the paper by Mr. Nishibe Susumu.

Knowledge of ignorance which Socrates mentioned, in other words, to know ignorance of yourself is the starting point of speech, it cannot be saved in democratism (democratic "principle") as "control of public opinion" or "tyranny of the majority".

In the formation of that public opinion, Ortega's "so-called" intellectuals have increased, that is, phenomena of intellectuals 'pseudo popularization and modern people’s mass population advanced, it became a situation where specialists (experts) in the sense that they only spec (see) one aspect (side) of the situation became flooded.

This draft continues.


The attitude of how to face the world is weak in vitality and poor in content.

2016年12月06日 18時05分52秒 | 日記

The following is a continuation of the paper by Mr. Nishibe Susumu.

As a result, "Primary power (basic or preliminary power) in democracy has become" a periodical publication that moves public opinion "(Tocqueville). Also, periodical publications are used for newspapers and magazines it goes without saying that it is now spreading in the media in general.

In the "winter of civilization" as such "civilization without culture" (the aim of Oswald Spengler's "The Decline of the West"), according to Spengler, "enthusiasm for new technology" and "uprising of emerging religion" are advanced all the time since Mesopotamian civilization.

On the contrary, what is currently going on in Japan where religious feeling is weak, "New technology turns into a new religion".

For example, nine out of ten people indifferently indulge in the streets, even in the plaza as well as in the trains as well as inside the shop like "game play" using "smartphone".

It is nothing more than a sight, not "living in the world" but "using the world as a toy" (Johan Huizinga).

The attitude of how to face the world is weak in vitality and poor in content.

This draft continues.


while muttering as "Thank you, Thank you, Thank you", I could not help feeling that myself is

2016年12月06日 18時05分02秒 | 日記

The following is a continuation of the paper by Mr. Nishibe Susumu.

In the winter of this civilization, for 40 minutes at umwelt who had his wife's blood pressure cut by 40 and became a dead body, this old man hugs that (substantial) corpse lying in the hospital bed Continuing, while muttering as "Thank you, Thank you, Thank you", I could not help feeling that myself is still entering the coffin.

In addition, it is this old man himself who asked medicine for medicine that is required to shorten her life (the same type as suppressing the symptoms of schizophrenia) to prevent her delirium (by morphine) .

While agreeing that their couple died in the fashionable society of "the dance of death" as if it were a natural phenomenon, so to speak, this old man thought "to the life of one's own before" The only person who was giving us - that which is a form of cooperation is rather a normal form in mass society - became a bone, and at the same time his own lives and meanings were also stripped and bone fragments It will be converted to. "

The late elderly now has nihilism, or I am not saying this because I want to talk about the sentimentalism of "Wife Love".

In the 'winter of civilization', it is only that he acknowledges that memories of his life and interpretation of it are only freezing and death in the long run.

Evidence of that is that more than two and a half years have passed since the death of the wife, but this old man cannot do anything other than "to relentlessly confirm the fact that his wife died."

In other words, I entered the dimension of life different from when my wife was there, and the "subject matter to be truly left” in the new dimension is a matter of choosing” how I will die?" It is as if there is only one.

This draft continues.


「死の踊り」の流行る社会のただなかで自分ら夫婦が死んでいくのはいわば自然現象のようなものと了解しつつも

2016年12月06日 17時49分48秒 | 日記

以下は西部邁氏の論文の続きである。

この文明の冬期に、妻の血圧が四〇を切って実質として死体となってしまっていたウムヴェルトでの四十分間、この老人は病院のベッドに横たわっているその(実質上の)死体を抱きつづけ、「有り難う、ありがとう、アリガトウ」と呟きつつ、自分自身もまた棺桶に入っていきつつあるのだということを自覚しないではおれなかった。

ついでに報告しておくと、妻の(モルヒネによる)譫妄を防ぐべく命を短縮すること必定のある(分裂病の症状を抑えるものと同種の)薬の投薬を頼んだのはこの老人自身である。

「死の踊り」の流行る社会のただなかで自分ら夫婦が死んでいくのはいわば自然現象のようなものと了解しつつも、この老人は思った、「自分のそれまでの生」に意味を与えてくれていた唯一の者―それが連れ合いであるのはマスソサイアティでのむしろ通常の形だーが骨となったのだから、それと同時に自分のこれまでの生も意味も剥奪され骨片と化すのであろう」と。 

後期高齢者が今さらニヒリズムを、または「妻恋し」のセンチメンタリズムを語りたくてこんなことをいっているのではない。

「文明の冬期」にあっては、おのれの生にかんする記憶とそれへの解釈もまた、結局は凍死するのほかはない、と自認しているだけのことである。

その証拠に、妻の死から二年半以上も経っているのに、この老人は「妻が死んだという事実を執拗に確認すること」のほかには何もできないでいる。

つまり、妻がいたときとは違った生の次元に自分が入ってしまい、その新しい次元に残されている「真に問うべき題材」は、「自分はどのように死ぬのか」という選択問題でしかないかのようなのである。 

この稿続く。


今もなおアメリカの歴史及び民主主義の歴史を学ぶ際には欠かせない教科書の一つとなっている。

2016年12月06日 17時47分07秒 | 日記

アレクシ・ド・トクヴィル
アレクシ=シャルル=アンリ・クレレル・ド・トクヴィル(仏: Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville、1805年7月29日 - 1859年4月16日)は、フランス人の政治思想家・法律家・政治家。裁判官からキャリアをスタートさせ、国会議員から外務大臣まで務め、3つの国権(司法・行政・立法)全てに携わった。
プロフィール
ノルマンディー地方コタンタン出身。生家は古貴族にして軍人・大地主という由緒ある家柄だったものの、フランス革命の際に主な家族や親戚の多くが処刑されたことから、リベラル思想について研究を行っていた。その後ジャクソン大統領時代のアメリカに渡り、諸地方を見聞しては自由・平等を追求する新たな価値観をもとに生きる人々の様子を克明に記述した(後の『アメリカのデモクラシー』)。

30歳の時、家族の反対を押し切り、英国人で平民階級の3歳年上の女性メアリー・モトレーと結婚。1848年の二月革命の際には革命政府の議員となり、更に翌年にはバロー内閣の外相として対外問題の解決に尽力した。彼の政治的手腕はなかなか鮮やかなものであったが、1851年、ルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)のクーデターに巻き込まれて逮捕され、政界を退くことになる。その後は著述及び研究に没頭する日々を送り、二月革命期を描いた『回想録』と『旧体制と大革命』を残し、1859年に母国フランスで肺結核のため54歳の生涯を終えた。フランスが誇る歴史家・知識人である。

年表
1805年、7月29日、コタンタンの古い貴族の家に誕生。
1826年、6月、パリ大学で法学学士号を得る。
1827年、4月、ヴェルサイユ裁判所の判事修習生となる。この時ギュスターヴ・ド・ボーモンと知り合う
1829~1830年、フランソワ・ギゾーの歴史講義で多大な影響を受ける。
1831年、4月、ボーモンと共にアメリカを旅行(32年2月迄)。
1832年、5月、ヴェルサイユ裁判所陪席判事を辞職。
1833年、ボーモンと共に『合衆国における監獄制度とそのフランスへの適用について』を出版、アカデミー・フランセーズのモンティオン賞受賞
1835年、1月、『アメリカのデモクラシー』第一巻出版。
1835年、10月、メアリー・モトレーと結婚。
1838年、1月、道徳・政治科学アカデミー会員となる。
1839年、3月、バローニュ選出の下院議員となる。
1840年、4月、『アメリカのデモクラシー』第二巻出版。
1841年、12月、アカデミー・フランセーズ会員に選出される。
1849年、6-9月、オディロン・バロー内閣の外務大臣となる。
1851年、12月、クーデターにより身柄を拘束され、以後政治の世界から身を引く。
1856年、6月、『旧体制と大革命』出版。
1859年、4月26日、カンヌにて死去、5月に埋葬。
1893年、『回想録』出版。
思想・哲学
トクヴィルが19世紀初頭に当時新興の民主主義国家であったアメリカ合衆国を旅して著した『アメリカの民主政治(アメリカのデモクラシー)』(De la démocratie en Amérique)は近代民主主義思想の古典であり、今もなおアメリカの歴史及び民主主義の歴史を学ぶ際には欠かせない教科書の一つとなっている。日本では福澤諭吉が紹介している。

彼は著作の中で、当時のアメリカは近代社会の最先端を突き進んでいると見なし、新時代の先駆的役割を担うことになるであろうと考えた。だが同時に、その先には経済と世論の腐敗した混乱の時代が待ち受けているとも予言している。さらに民主政治とは「多数派(の世論)による専制政治」だと断じ、その多数派世論を構築するのは新聞、今で言うところのマスコミではないかと考えた。現代のメディアの台頭と民主主義政治との密接な関わり合いをいち早く予想していたのである。彼は大衆世論の腐敗・混乱に伴う社会の混乱を解決するには宗教者や学識者、長老政治家などいわゆる「知識人」の存在が重要であると考えており、民主政治は大衆の教養水準や生活水準に大きく左右されることを改めて述べている。


ホイジンガはブルクハルトのルネサンス観には、疑問を持っていた。彼は『中世の秋』で14-15世紀の

2016年12月06日 17時40分52秒 | 日記

思想
ホイジンガはブルクハルトのルネサンス観には、疑問を持っていた。彼は『中世の秋』で14-15世紀のブルゴーニュ公国の文化について考察を行っているが、第8章で遊びと真面目が截然としていない文化たるキリスト教社会にあって、卑猥な言葉も隠し言葉もこれらは全て民族的背景を基盤とし、貴族文化の成熟の象徴であると称えている。これを発展させ、人間の本質を「遊戯」に見出したのが『ホモ・ルーデンス』(1938年)である。

『中世の秋』の訳者で、ホイジンガ研究の第一人者である堀越孝一は、ホイジンガのシンボリック的暗示のもつ偉大なる魅力にとりつかれたと述べている。神話学者のカール・ケレーニイとも交流があった。伝記に、里見元一郎『ヨハン・ホイジンガ その歴史観と文明論』(新書判:近代文芸社、2001年)がある。

ホモルーデンス (homo ludens)
〔遊戯人の意〕 オランダの歴史学者ホイジンガの用語。遊戯が人間活動の本質であり,文化を生み出す根源だとする人間観。遊戯は生活維持を求める生物学的活動を超え,生活に意味を与えるものであると主張される[3]。

著書
日本語訳
『ホイジンガ選集 (全6巻)』(兼岩正夫・里見元一郎ほか訳、河出書房新社、1971年、新装版1990年) 
  1.ホモ・ルーデンス、2.明日の蔭の中で、3.歴史を描くこころ、4.ルネサンスとリアリズム、5.汚された世界、6.中世の秋
『中世の秋』(兼岩正夫・里見元一郎訳 創文社、1958年/角川文庫(上下)、1976年、新版1984年)-新版が「選集6」 
『中世の秋』(堀越孝一訳、中央公論社 「世界の名著55」、1969年(のち新版)、単行判1971年/中公文庫(上下)、1976年/中公クラシックス (I・II)、2001年)- 単行判解説は堀米庸三
『ホモ・ルーデンス 人類文化と遊戯』(高橋英夫訳、中央公論社、1963年、新装判1971年/中公文庫、1973年)
『文化史の課題』(里見元一郎訳、東海大学出版会、1965年、新装版1978年)、史学論考
『エラスムス 宗教改革の時代』(宮崎信彦訳、筑摩叢書、1965年、復刊1985年/ちくま学芸文庫、2001年)、人文主義者エラスムスの評伝
『レンブラントの世紀 17世紀ネーデルランド文化の概観』(栗原福也訳、創文社〈歴史学叢書〉、1968年、新版1987年 ほか)
『わが歴史への道』(坂井直芳訳、筑摩叢書、1970年、新装版1985年)、自伝・史論などの論考集
『朝の影のなかに わたしたちの時代の精神の病の診断』(堀越孝一訳、中央公論社、1971年/中公文庫、1975年) 
『アメリカ文化論 個人と大衆』(橋本富郎訳、世界思想社、1989年)
『祖国の歴史より ホイジンガ歴史画集』(里見元一郎訳・解説 河出書房新社、1972年)


この歴史空間では濃密に一つの文化の終末の気配を漂わせている。すなわち「中世の秋」である。

2016年12月06日 17時37分04秒 | 日記

ヨハン・ホイジンガ
ヨハン・ホイジンガ、またはホイジンハ(蘭: Johan Huizinga[1]、1872年12月7日 - 1945年2月1日)はオランダの歴史家。サンスクリット文献研究から歴史研究に転じた。『中世の秋』『ホモ・ルーデンス』などの著作で知られる。
生涯
フローニンゲンに生まれる。フローニンゲン大学で文学を学び、卒業後ハールレムで中等教育の教鞭(きょうべん)をとったが歴史学への転身を図り、論文「ハールレム市の成立」を作成し、1905年フローニンゲン大学外国史・国史学教授に就任。1915年ライデン大学外国史・歴史地理学教授に転任してライデンに住んだ。1940年ナチス・ドイツ軍のオランダ占領によって事実上閉鎖されるまで、同大学教授職にあった。1942年占領軍によって居住地域を限定され、アルンヘム近郊デ・ステークに住み、1945年2月同所で死去[2]。

主著『中世の秋』は、1919年に出版された。19世紀後半に出版されたブルクハルトの『イタリアにおけるルネサンスの文化』が、15・16世紀のイタリアに観察の視線を限定しているのに対し、ホイジンガは、14・15世紀のフランスとネーデルラントに実証的調査と史的想像力の翼を広げる。同時代人の記録に固着、帯びただしく広まっているものの考え方、感じ方のある一定の調子から推測判定するに、この歴史空間では濃密に一つの文化の終末の気配を漂わせている。すなわち「中世の秋」である。『中世の秋』出版後、ルネサンス問題に関する論考、エラスムスやグロティウス、あるいはアベラールをはじめ、12世紀の精神を訪ねる著書・論文など業績は幅広いが、『朝の影のなかに』の出版(1935)の前後からナチズムに対する批判、ひいては現代文明批評の方向へ彼の関心は収斂(しゅうれん)する。『ホモ・ルーデンス』(1938)は「遊戯の相の下に」ヨーロッパ文明の成立と展開と衰亡の過程をみる試みで、デ・ステークの配所で綴(つづ)った『わが歴史への道』(1947)は現代へ残した自伝的遺書である[2]。

年譜
1872年、オランダ北東部のフローニンゲンで生まれる。
1891年、フローニンゲン大学に入学。比較言語学を学ぶ。
1897年、古代インド演劇に登場する道化をテーマにした論文「インド演劇におけるヴィデュシャカ(De vidûsaka in het indisch tooneel)」で学位取得。ハーレムの実科高等学校で歴史を教える(1905年まで)。
1903年、アムステルダム大学私講師。バラモン教、仏教を講じる。
1905年、論文「ハーレム市の成立」を発表、母校のフローニンゲン大学教授。
1915年、ライデン大学教授。
1919年、『中世の秋』発表。
1929年、王立科学アカデミー歴史・文学部門主席。
1932年、ライデン大学学長。
1936年、国際連盟知的協働国際委員会委員。
1938年、同副議長。『ホモ・ルーデンス』発表。
1942年、ナチス批判を行った廉でオランダに侵攻したナチスドイツによって強制収容所に収監される。まもなく釈放されたが、以後事実上の軟禁状態となる。
1945年、オランダ解放直前に逝去。
この稿続く。


世界にどう立ち向かうかという姿勢が、活力において弱く内容において貧しいのである。 

2016年12月06日 17時03分42秒 | 日記

以下は西部邁氏の論文の続きである。

その結果、「デモクラシーにおけるプライマリー・パワー(基礎的もしくは予備的な権力)は「世論を動かす定期刊行物だ」(トックヴィル)ということになりもしたのであるーなお、定期刊行物が新聞・雑誌をさし、今ではそれがメディア一般に広がっていることはいうまでもないー。 

こうした「文化なき文明」(オズヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』の趣旨)としての「文明の冬期」にあっては、シュペングラーによればメソポタミア文明の昔からずっと、「新技術への熱狂」と「新興宗教の昂揚」が進む。

それどころか宗教感覚の弱い我が国で現に進んでいるのは「新技術が新宗教と化す」ということである。

たとえば十人のうち九人が「スマホ」を使っての「ゲーム遊び」とやらに店内でも車内でも広場でも街路でも無心に耽っている。

それは「世界で生きている」のではなく「世界を玩具にしている」(ヨハン・ホイジンガ)光景にほかならない。

世界にどう立ち向かうかという姿勢が、活力において弱く内容において貧しいのである。 

この稿続く。


私にとっては未読の人であるオルテガだが、まるでオルテガに取り憑かれたかのようにして私は書き続けていた

2016年12月06日 17時01分20秒 | 日記

前章の箇所を読んだ私の読者は、私と同様に思ったのではないだろうか。

私は何度も朝日新聞などとこれに同調している(或いはしてきた)いわゆる文化人たちと書いた。

私にとっては未読の人であるオルテガだが、まるでオルテガに取り憑かれたかのようにして私は書き続けていたようであると。


ソクラテスのいった「ナレッジ・オヴ・イグノランス」(無知の知)、つまり「おのれの無知を知ること」が言論の

2016年12月06日 16時53分44秒 | 日記

以下は西部邁氏の論文の続きである。

ソクラテスのいった「ナレッジ・オヴ・イグノランス」(無知の知)、つまり「おのれの無知を知ること」が言論の始点であることは、「世論の支配」あるいは「多数者の専制」としてのデモクラティズム(民主「主義」)にあって省みられることはない。

その世論の形成にあってオルテガのいう「ソーコールド」インテレクチュアル(「いわゆる」知識人)が増えて、つまり知識人の擬似大衆人化さらには現代人の大量人化の現象が進んで、物事の一つのアスペクト(側面)をスペク(見る)ことしかしないという意味でのスペシャリスト(専門人)が氾濫する事態となったのだ。

この稿続く。


米国を代表する政治学者、サミュエル・ハンチントンの名著『軍人と国家』によると、米国の軍事政策は

2016年12月06日 16時52分35秒 | 日記

以下が昨日産経新聞のフロンページに掲載された櫻井よしこ氏の論文である。

見出し以外の文中強調は私。

根絶政策との決別を

米国を代表する政治学者、サミュエル・ハンチントンの名著『軍人と国家』によると、米国の軍事政策は「根絶の政策」と「変形の政策」に集約される。

前者は軍事力や軍事制度を排除させる政策、後者は自由主義的方向に沿って軍事体制を作り直させる政策だと分析した。 

敗戦した日本に対して米国は最も極端な根絶政策を取ったとハンチントンは喝破し、「陸海空軍の保有を禁じ、国策の手段として戦争に訴えることを放棄」させた憲法9条2項に言及した。 

日本の課題はいかにしてこの根絶政策から脱却するかである。

国防の責務に耐え得る十分な軍事力の保有と、軍国主義への暴走を抑制する文民統治の維持という、2つの課題をハンチントンが指摘したのは、40年も前のことだ。 

韓国でさえ、氏が指摘した、国家に必須の2要素を備えている。

すなわち大韓民国憲法第5条において、明確に侵略戦争を否認し、同時に「国軍は、国家の安全保障および国土防衛の神聖なる義務を遂行することを使命」とすると定めている。 

日本は韓国にも国際社会にも、遠く引き雕されたままだが、それでよいのか。

現行憲法には、日本国民の9割以上が支持する自衛隊が明記されていないが、この状態を放置し続けて気にならないのは、米国による根絶政策に70年間もしがみついてきた結果なのか。 

日本の後ろ盾となってきた米国の変化が次期大統領、ドナルド・トランプ氏の下で加速中だ。

この稿続く。


日本は敗戦後すぐに航空禁止令を布告され、存在する飛行機は破壊され、航空機メーカーと航空会社は解体され

2016年12月06日 14時54分27秒 | 日記

以下は先日、インターネットで発見した記事である。

この記事が記憶に残っていた時、櫻井よしこさんの見事な論文が産経新聞のフロントぺージに掲載された。

先ずはネットの記事をご紹介する。

文中強調は私。

日本は敗戦後すぐに航空禁止令を布告され、存在する飛行機は破壊され、航空機メーカーと航空会社は解体され、大学授業からも航空力学の科目は排除された

日本企業の航空機運航や航空機製造が全面解除されたのは52年の独立からさらに5年を経た57年。

この制約のため、戦前・戦中を通じて実践的に鍛えられた航空機設計者と製造技術者が数多くいたが、バイクや自動車など別の製品の開発・製造に転身するほかなかった。

航空機開発からの排除が、自動車の革新的発展や家電製造の隆盛など民生品製造の覇者につながったとも言えるが、より高いレベルの産業技術とより広い裾野を持つ航空機産業は思うように育成できなかった。

悲願の国産旅客機として開発されたYS11も、構想が発表されるや、米英の航空機メーカーは自社機のライセンス生産を持ちかけ潰されそうになった。

YS11の開発も、MRJと同じように困難を極めた。

「三舵問題」と呼ばれた操縦性の悪さと空力特性を改善するためにより多くの時間を要し、アメリカ連邦航空局の型式証明を取得する審査の過程でも問題が指摘され、メディアは「飛べない飛行機」と酷評した。

64年の東京オリンピックの国内聖火輸送に間に合わせるかたちで国内の型式証明がおりた。YS11は総数で182機生産し、1973年に生産終了となった。そして、構想されていた後継機YS33の開発計画も頓挫して国産旅客機製造は長いトンネルに入った。苦労して開発製造販売にこぎ着けたYS11の貴重な技術の継承も限定的なものになってしまった。

今回のMRJ開発が遅れた要因として、上の表にはないがエンジンメーカーの対応遅れもあった。これは、開発を遅らせただけでなく燃費の優位性も消滅させてしまった。

とにかく、世界に向けて輸出しなければ採算が合わないが、そのためにはアメリカ連邦航空局の型式証明が必要だから、米国が、日本の航空機産業に対して生殺与奪件権をもっていると言える。

MRJを民間旅客機開発再開の第一歩と考え、今後は、日本単独ではなく旅客機分野で立ち後れている旅客機需要が大きい国との共同開発に向かわなければ、YS11の二の舞になってしまう可能性が高いと思う。