思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

人類はいつまで政治や社会生活に宗教を介在させるのでしょう。愚かで危険です。必要なのは、超越ならざる「超越」。

2017-12-12 | 恋知(哲学)

ユダヤ教を母体に生まれたのが、キリスト教とイスラム教ですが、
ユダヤ教(旧約聖書)を背後にもって政治を行うイスラエルを支援するキリスト教(新約聖書)のアメリカは、国連からの厳しい批判にも関わらず、この三つの宗教の共同の聖地=エルサレムを、イスラエルの首都として認めるという驚きの発表をしました。またトランプ大統領の愚断ですが、背後にそれを支持する右派(キリスト教原理主義者)のアメリカ国民が少なからずいるのです。

日本も、明治政府がつくった天皇教=国家神道=靖国思想がいまだに生き残り安倍政権を支えています。生きている人間を神とし、その家族を神の家系とする宗教思想ですが、これは「国家カルト」と呼ばれます。三島由紀夫は、天皇が神から人になったのは間違えだとし、超越者をなくした日本人の行く末を嘆き、憲法改定のために自衛隊の決起を促して自決しましたが、この思想を支持する知識人や政治家は、自己の内なる善美の座標軸につく思想=恋知(フィロソフィー)を知りません。

個々人が宗教を信じるのは自由ですが、それは、公権力と結びついて政治を動かすイデオロギーになってはいけません。個々人の自由と各自の対等性を大元から奪ってしまう公共悪となります。この民主主義国家では当然と思われる「社会の原理」が揺らぎだしたのでは、混乱・抑圧・暴力が噴出して無秩序となり、警察力と軍事力に頼る強権政治とならざるをえません。全体主義国家への堕落です。

いつまで宗教対立を続けるのか。宗教はミニマム(最小限)でないと困ります。
宗教的信念ではなく、自分自身の心の善美を座標軸にして生きないと、争いが絶えません。平和を祈る者通しの戦いが続いてしまいます。絶対正しいを求める心から解放されないと、人間はいつまでも権力闘争の愚かな歴史の繰り返しです。納得をつくる努力=普遍的な了解が得られる可能性は、一人ひとりが外なる絶対から自由になり、内なる思考をはじめるところにあります。

絶対正しい、これが真理だ、というような発想から離れて、自分自身の内なる声を聞き、そこから出発する人生を始めなければいけません。
頼るのも責任を取るのも「私」なのであり、私以外の超越者(神とか天皇とか)を頼れば、必ず妥協できない争いが起こります。そうではなくて、背後に超越者を持たない「私」同士の対話であれば、妥当な線を導く対話が可能になります。有限な「私」同士が、どう考えどのようにしたら互いに楽しく生活できるかと考えるのがキーです。すぐには合意に至らなくても、そのような考え方は、たとえ「対立」しても相手の「否定」には至らず、妥協点を見いだせます。

宗教を持ち出したら、絶対感情に縛られますから、争いは止むところがありません。言い争いも果てしなく続きます。
繰り返しますが、「私」の主張は、「私」の内なる心に根拠を持たねばならず、なんらかの超越者を持ち出して正しさを主張する思考では、争いは永遠に続いてしまいます。「私」の主張の根拠は「私」の生活体験に基づく考えからでないと、形而上学的争いになり、不幸を導いてしまいます。「絶対」の正しさではなく、より深く大きな納得を生む「普遍性」豊かな思考をしていこうという構え=態度を身につけ、習慣にする努力が何より大切です。

宗教でなくとも、たとえ趣味の会でも、学問や芸術上でも、誰かを何かを絶対視するような態度は「超越的思考」の証です。とても愚かで危険です。善美のイデアの前に謙虚でないとすべてが狂いだします。真実を求める心は、内なる座標軸ですが、真実そのものを知ることは不可能ですから、よきもの・美しきもの・真実なるものへの「憧れ心」こそが超越ならざる「超越」なのです。

その心の働きこそ、人間の証です。人間の証は、みなの一人ひとりの内なる心にこそあり、外の権威や体系にあるのではありません。よい思考の条件は、第一義的には自問自答=自分一人でする沈思であり、他者とのコミュニケーションではありません。他者との対話は大切ですが、それは二義的です。中心にあるもの、基盤となるものが沈思=自問自答にあることを知らなければ、そもそもフィロソフィーは成立しません。思考の名に値する思考は始まらないのです。


武田康弘

fbのコメント

Kunimitsu Kobayashi そうですね、私も全く持って同感です。超越者を失った我々日本人は利己主義に走り日本を悪くしたと、主張する人々がいます。個人主義と利己主義とを同列にみているのでしょうね。だから、昔の国家神道をよしとし、あの時代の日本人は1つになり一丸となって国難に向った、でもいまの日本にはそれがないと嘆くのですよね。私はこの嘆きの方に深い罪があるように思えるのですが、また、中学高校の部活の先輩後輩、根性主義もその辺から発生し、過去の日本の賛美でしかなく、全くの人間としての成長が見られないような気がするのですがね。いまだに、これらを称賛する人々が多数いる現状が悲しいです。

武田 康弘 超越者は、わたし自身なのです。わたしの善美に憧れる心(先験的で自然なもの)が超越ならざる超越で、それは、今までの宗教(一神教)よりも優れてわたしを支える恋知の生です。心身も頭脳も健康に支えます。

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