労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

はじまった「戦略的対峙の時代」

2006-11-29 01:42:09 | 政治
 自分のホームページを草ぼうぼうにさせて、何をやっているのかというお怒りの方も見えると思いますが、現在の政治情勢から言えば仕方のない面もあります。
 
 われわれが2004年の10月にマルクス主義同志会を追放された時、われわれは純然たるマルクス主義の研究会になろうと思い、思いっきりローカルな“赤星村のマルクス研究会”を名乗ることにしました。(家の近くの赤星小学校もホームページを運営しており、まぎらわしい、誤解を受けるという苦情がありますが、あちらは赤星=あかほし小学校でこちらは赤星=セキセイマルクス研究会という区別をつけることにしましたので、くれぐれも誤解がないように、われわれは名古屋市立赤星小学校とは絶対に何の関係もありません。)
 
 しかし、『時告鳥』という林紘義氏の混乱した経済学を批判する論文を載せた雑誌を何号か出すうちに、ホームページを開いて多くの人に読んでもらおうと思い立ち、その準備を始めました。
 
 そして2005年の6月の終わりにホームページを立ち上げたとき、われわれは単なるマルクス主義研究会にとどまることができない何かを感じました。期待というにはあまりにもか細い声でしたが、われわれをはげまし勇気づけてくれる声は風にかき消されながらもかすかにわれわれの耳に届いていたのです。
 
 そしてわれわれはその声に導かれて政治的な発言を少しずつ増やしていきました。
 
 しかし労働者の政治状況はすでに大きく変化しています。
 
 時代は、毛沢東風に言えば、「戦略的後退期」から「戦略的対峙期」へと大きく移行しつつあります。
 
 われわれが「戦略的後退期」というのは、ベルリンの壁の崩壊や1990年のソ連邦の崩壊とともに始まった世界的なマルクス主義の退潮期のことで、この退潮期を象徴するのが、絶望したマルクス主義者=林紘義氏の登場でした。
 
 これはマルクス主義同志会に限ったことではないのですが、この退潮期に小ブル急進派の一部や日和見主義者は退廃を深め、純然たる社会民主主義者へと退化していきました。
 
 この長く続く続いた労働運動の後退戦と左翼勢力の減衰傾向に歯止めがかかりはじめたのが、去年(2006年)の夏あたりからで、それはちょうどわれわれ赤星マルクス研究会が「もうたくさんだ!われわれはもう後退しないぞ!」という雄叫びとともに政治的な活動を開始した頃でした。
 
 しかし日本にとっての不幸は、この「戦略的後退期」から「戦略的対峙期」への移行期はちょうど、解散総選挙の時期と重なり、小泉純一郎のペテン政治が大成功を納めた時期と一致しています。
 
 これは当時はいかにも不思議でありましたが、よく考えると不思議でも何でもないことがわかります。人々は小泉純一郎の「改革」という言葉にだけ引き寄せられたにすぎなかったのです。
 
 特に今の若い人たちは、その人生のすべてを「戦略的後退期」ですごし、これまで既存の労働運動と社会主義運動の否定的側面しか見ることができなかったのですから、当然ながら、左翼ではない小泉純一郎の「改革」という言葉に大いに期待をしたのです。
 
 つまり何かが変わってほしいという人々の願いが、小泉純一郎の「改革」という言葉に引き寄せられ、日本の政治の奇跡を生み出したのです。
 
 しかしこの小泉純一郎の“改革”幻想も急速に衰えており、小泉政権が結果として安倍晋三ファシスト政権の誕生に寄与したということ自体、小泉純一郎の運動が何の展望もなかった運動であったことがわかります。
 
 もちろん、労働者は安倍晋三政権がファシスト政権であるからといって、何も恐れる必要はありません。なぜならこの政権にはファシズム特有の強権政治、独裁政治に移行するだけの政治的な力量がないからです。せいぜいファシストごっこをやって自画自賛するしか能がない連中が寄り集まって政権を作っているのですから彼らにできることにはかぎりがあると言わざるをえません。
 
 そして「戦略的対峙期」についてですが、これが次の時代の「戦略的攻勢期」と区別されるのは、労働者階級が攻勢に出るだけの力量をまだ獲得していない、攻勢に出て勝利しうるまで情勢が成熟していないという点です。
 
 特に現在はわれわれは単に下げ止まっただけであり、小さな戦闘には勝利するかも知れないが、大きな戦闘に勝利するだけの力量はまだないということです。
 
 ですから、中国の抗日戦争でも、「戦略的対峙」の時期というのは、八路軍が奥地や僻地に引きこもって日本軍国主義から逃げ回り、自分たちの戦闘力を保持、蓄積するとともに、日本軍国主義に小さなゲリラ戦を仕掛けてその勢力を消耗させるという時期に相当します。
 
 もちろん高度に発達した日本資本主義のもとでは、ゲリラ闘争を展開するというのは現実的ではありませんし、われわれが立てこもるべき山岳地帯もありません。そもそも生まれついての都会人であるわれわれには、山のなかで生存する能力すらないのですから、おまり非現実的なことは考えない方がいいと思います。
 
 ではゲリラ戦が不可能であれば、われわれはいかにして「戦略的対峙」を闘うべきでしょうか。これは難しい問題です。ただ敵から逃げ回っているだけでは「対峙」になりませんから、どこかで敵に切り返すという場面もなければなりません。
 
 それでわれわれが選んでいるのは、言論を武器にして、ヒット・エンド・ランを繰り返す。すなわち、日常的な政治暴露、経済暴露を通じて、ブルジョアの陣営に論戦を挑むということです。
 
 もちろんこういう闘い方は弊害もあります。というのは、われわれは人数が少ないからできることにはかぎりがあり、日常の政治暴露に時間を費やせば、ほかのことに時間を割くことが難しくなるということがそれです。
 
 しかし現時点では、①ホームページを草ぼうぼうにするのを選ぶのか、②日常の政治暴露を選ぶのか、③『時告鳥』の発行を急ぐのか、どれを選ぶのかといわれれば、やはり②を選択するとしか言えません。
 
 そんなわれわれに「荒唐無稽」、「身の程知らず」、等々の非難の声を聞きますが、もしわれわれが「身の丈にあった闘い」に徹するとしたら、われわれは再び「赤星村のマルクス研究会」に戻らなければなりません。
 
 少なくともわれわれは、そうであってはならないというところから出発している以上、そこにはもう戻れませんし、戻りません。
 
 「戦略的対峙」の時代は始まったばかりです。まだ多くの人々が「戦略的後退期」の気分を引きずっており、われわれの基盤は固まっていません。ですからしばらくはわれわれは「ヒット・エンド・ラン」を続ける必要があると思います。