労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

見えてきた資本の戦略

2006-11-23 04:24:44 | Weblog
 この間、すなわち、小泉の退陣から安倍政権の誕生とその数ヶ月間、われわれがとまどっていたのはこの経緯が政治主導もしくは、経済と乖離(かいり)するかたちで政治の反動化だけが進んでいるような外観をもっていたことである。
 
 だからわれわれは一時、安倍晋三ファシスト政権の誕生は必然性がないという判断に傾いたことがあった。
 
 しかし、今になってみるとそれは誤りであったような気がする。
 
 というのはこの極端な国家主義的政権は外交的には日本の孤立化という日本資本主義にとってあまり利益にはならない政策を推進することしか知らないのだが、内政面では、政治的な反動攻勢をかけるという政策を取っている。
 
 そして、現在において日本資本主義が安倍晋三ファシスト政権を評価しているのは外交的な面よりも、この反動攻勢という内政面である。
 
 つまり、現在日本資本主義がめざしているのは、相対的剰余価値の創出(設備投資を行い生産力を上げて利潤を確保すること)よりも絶対的剰余価値の創出(搾取率を高めて利潤を確保すること)なのである。
 
 搾取率を高めるために資本はこれまで労働者階級の一部を零落させ、失業者や不正規雇用者といった相対的過剰人口を増加させて、賃金の上昇圧力を低減させるというどちらかと言えば間接的なやり方で利潤を確保しようとしてきた。
 
 それを今回は、より直接的な形で労働者の賃金を削り取ろうという方針に転換しようとしている。それが来年改正を目論んでいる労働法の改正で登場する「ホワイトカラー・エグゼンプション」と呼ばれる特定の労働者に対して、わずかばかりの手当と引き替えに残業代をケチろうという制度だ。
 
 多くの労働者が正規の労働時間の他に4、50時間残業をやって残業代でようやく生活を維持しているという現状のもとではこういった残業代が労働者から取り上げられるのは労働者にとってかなりきびしい情況が生まれてくるものと見られる。(私は残業が嫌いな方だからあまりやらないようにしているが、それでも残業代が5万円以下の月はほとんどないのだから、他の真面目な労働者は残業代で毎月10万円ぐらいは稼ぐのではないか?)
 
 そして「ホワイトカラー・エグゼンプション」というのであるから対象は「ホワイトカラー」だけかというと、先に導入されているアメリカでは現場の「チームリーダー」までその対象になっているように、必ずしも一部の特権的な労働者ばかりではなく、むしろ労働者階級中核部分を対象にしているものと見るべきであろう。実際、「係長サマ」、「主任サマ」、「班長サマ」、「グループリーダーサマ」はどこの職場でも腐るほどいるのだから、資本が「ホワイトカラー・エグゼンプション」の対象に困ることはないのである。
 
 このように労働者階級の中核部分の労賃を抑えようというのは、ある意味で労働者階級に対して非常に挑発的なのだが、挑発的という点でいえば、改正労働法では解雇労働紛争の金銭での解決というもう一つの挑発的な要素ももっている。(この解雇紛争の金銭での解決というのは、解雇撤回闘争に労働者が勝利しても職場に戻さないというもので資本にとって解雇をしやすくするねらいがある。)
 
 要するに、資本は労働者階級にとって受け入れがたい法案を提示することによって、労働運動に対して闘いを挑んでいるのである。
 
 これは個別の労働組合についても言える。現在国会で審議中の教育基本法の改悪が国会を通過すれば、次に出てくるのは教員免許の更新による“不良教員”の追放であり、これは日教組にとっても、全教にとっても受け入れがたいものであろう。
 
 さらに公務員改革では、公務員の身分をスト権の付与とともに、不安定化して解雇できるようにする案が浮上しており、これは自治労にとって受け入れがたいものであろう。
 
 したがって来年は労働運動に対して資本とその政府によって大きな圧力がくわえられる年になる見込みであり、この中で闘う姿勢を見せる労働運動に対しては断固として闘争を展開しようというのが資本とその政府の方針なのであろう。
 
 もちろん闘わないという選択肢もあるが、そうすれば日本は資本の専制支配する社会となり、資本による横暴はどんなことでもまかり通る国となるほかない。
 
 しかし、実際には、すでにこの資本の闘争の行く方は見えている。日本の労働運動の形骸化は1980年代以降絶え間なく進行しており、闘う労働運動が日本から姿を消してから久しい。だから今の若い労働者は生まれたときからストライキのない社会に住んでいるのだからストライキのやり方すら分からない。
 
 先日、岐阜県の裏金問題が発覚したとき、その契機となったのは岐阜県職労働組合に使途不明金がプールされているのが見つかったからだ。このとき岐阜県の当局と労働組合は完全になれ合って一体化していたため、労働組合は当局にいわれるがままに裏金の隠匿に協力していたのである。
 
 しかしこのような岐阜県職労働組合にたいして批判できる労働組合が日本にどれだけあるのであろうか?日本の労働組合の大半が、このように当局なり資本となれ合うことが日常化しており、リストラ合理化の時は会社に代わって労働者に退職するのを迫っていたのは労働組合の幹部達であった。
 
 だから資本の労働運動に対する攻勢は日本の労働運動が持っていた自主性の最後の残り火を消し去り、日本は資本の専制支配する社会となり、資本による横暴はどんなことでもまかり通る国になる可能性は高い。
 
 しかし、来年は偉大なる闘争の開始元年になる可能性もまた高いのである。労働者の希望のすべてが消え去ったとき、希望は自らの手で作り出すものであることに労働者自身が気がつくのはそんなに時間はかからない。だからこそ、資本とその政府はその保険として闘う労働者を職場から放逐する労働法案を制定しようと必死になっているのである。
 
 資本とその政府が、釣った魚にエサはやらない、改革と改良の時代、資本が労働者階級に配慮し、遠慮する時代はもう永遠に終わりなのだと高らかに宣言する年は、労働者がわれわれはもうエサには食いつかない、我々が望むものはもっと別のものであり、それは自らの力で勝ちとると宣言する年でもある。
 
 もちろん労働者がそのように考えたからといって、すぐにそのような時代になるわけではない。資本が専制を強め、労働者に対する搾取を強化するとき、資本は強力な政府を必要とするのであり、政治の反動攻勢によって労働者を政治的に追いつめようと画策するであろう。
 
 だから当面は、暗く、窮屈で、息苦しい社会にわれわれは住まなければならないこととなる。
 

UNKNOWNさんへ

2006-11-23 04:20:45 | Weblog
 仕事が忙しかったので、ここには何を書き込んでもいいのかという質問に答えるのを忘れていました。
 
 基本的には何を書き込んでもらってもかまいません。
 
 いやがらせのたぐいや悪意あるコメントやトラックバックは削除しますが、それでなければできるだけ残すようにはしています。
 
 また質問についてはできるだけ答えたいのですが、全部の質問に答えることはできないかも知れません。
 
 くだらない連中と議論するのは時間のムダなので「バカヤロー、絞め殺すぞ」と非常識な態度をとることがあるかも知れませんが、カタギの人の素朴な疑問にはできるだけ答えたいと思います。
 
 われわれは世の人々から蛇蝎のごとく嫌われています。これはヘビにしろサソリにしろヘタに手を出すと、パクッとかみつかれて、全身に毒が回って、のたうち回って死んでしまうからですが、われわれの毒は「悪党ども」に対してだけ有害で、そうでない人には人畜無害なのでご心配なく。それにそもそも大事なお客さんにかみついたりなんかしません。