最近の日本の最も良識あるブルジョア諸氏は、さかんに「資本主義の代案は資本主義しかない」(朝日新聞、本社主幹氏)、「資本主義に代役はない」(日本経済新聞氏)と語りはじめている。
もっとも、この“日本経済新聞”氏の大見出しは、新日鉄会長の三村明夫氏のインタビューのなかで語られたものであり、三村氏の発言は「優勝劣敗をベースとする資本主義に欠点はあっても、資源を効率的に配分し、企業や個人の意欲を引き出す点で非常によくできている。私たちはこれ以上の経済システムを持ちえていない」という比較的おだやかなものであるが、これを拡大解釈して「資本主義に代役はない」という大見出しをつけたのは、もちろん日本経済新聞の編集部である。
しかし、「資源の効率的配分」という見地からして、現在の鉄鋼業はどうなのか?
つい先日まで、世界の鉄鋼業は資本主義的繁栄に酔い、無政府的に生産設備を増強してきた。そこで現在の世界の鉄鋼生産能力は6億トン程度に拡大してきたが、バブルがはじけた現在では鉄鋼の需要はせいぜい3億トンから4億トン程度まで低下しているであろう。つまり、世界の鉄鋼業の生産設備のかなりの部分はすでに“過剰生産力化”しているのであり、これが顕在化すれば、(この顕在化はすでに必然的なものになっている)やがて自動車産業以上の深刻な事態におちいるのは目に見えている。
賢明な日本経済新聞の記者氏は、もちろん、そういうことをよくご存じだ。それで「厳しい情勢の中でも『希望のシナリオ』を提示するのが経営者の使命のひとつ」なのだから、三村氏の楽観論の裏側には、鉄鋼業が抱えている苦境があると、すずしい顔をしていう。(ハッ、ハッ、ハッ)これではなんのために、日本のブルジョアの“親方”を登場させて、「資本主義に代役はない」と言わせたのか、意味がないではないか。
もっとおもしろいのは「朝日新聞」氏である。
「朝日新聞主幹」氏は12月30月の朝刊一面で、いう。
「『公』の再建は、資本主義をよみがえらせるうえでも必要である。資本主義の代案は資本主義しかない。市場の欠陥を補うのは、市場に『公正』のルールを課し、国民の働く場を維持し、社会を安定させることである。それにはたくましい『公』が不可欠である。
・・・
朝日新聞はその機能(公共政策をめぐる機能の弱まりをただすという機能)を十分に果たしているだろうか。来年はこの面でももっと果敢にとり組んでいきたい。」と。
社会民主主義や“スターリン主義”の実質的な内容である国家資本主義、すなわち国家(公)と資本主義の癒着、融合によって資本主義がよみがえるのかどうか、ということはわれわれの知ったことではないが、少なくとも、資本主義の再生にかける「朝日新聞」の意気込みだけは伝わってくる文章である。
ところが、翌日、すなわち、12月31日の社説では、「公益法人改革―『民の力』が育つように」という。ここでは「ますます重要性が高まっていく民間の公益活動を育てていくには、寄付金控除を受けられる要件の緩和など、制度の見直しは急務だ」といっている。
つまり、小泉時代の「官(公)より民へ」というスローガンをそのまま受け入れて、公益活動を「民」が行う重要性はますます重要になっているのだから、「公」は民間の公益事業をもっと応援すべきであるというのである。
しかし、「日本野球機構、NHK交響楽団、アムネスティ・インターナショナル日本、駐車場整備推進機構」といった「朝日新聞」が例示した団体の“公益性”なり“公共性”なりには、はなはだ疑問があるし、税制上の優遇措置を受けなければならない理由もわからない。
それとも現在、テレビでやっているような派遣労働者を支援している“市民”のボランティア活動のような活動をいうのだろうか?しかしだ、こういう活動は本来ならば、「公」(国家)つまり自民党政権が自らの責任で行うべきであろう、「公」すなわち、国家の怠慢を人々の善意が補完しているからといって、そういうボランティア団体に公的な地位を与え、税法上の優遇措置を与えることで問題は解決するのか。違うだろう!
そして、こういうことを言うのであれば、この間、無理矢理、「官(公)より民へ」移行させられた公益法人や独立行政法人、国立病院や国立大学や郵便事業の惨状をいうのが先であろう。(これらの多くが赤字に転落して深刻な経営危機にある)
人々の生活に必要な公的なサービスを民間に移行させて、当然発生するであろう赤字を放置し、必ずしもパブリックなものとは言いがたいものに公的支援を行えというのでは、それこそ「朝日新聞はその機能(公共政策をめぐる機能の弱まりをただすという機能)を十分に果たしているだろうか」ということにならないか?そもそもが民間、すなわち、資本主義的な営利団体が公的機能を代行できるというのであれば、「公」は存在する意味がないし、われわれが税金を払わなければならない理由もないであろう。(小泉時代には、職業安定所を廃止して、民間業者に委託しようということさえ、公然と大まじめに議論されていた。もしこういうことが実施されていれば、今ごろ、日本では、何百人という単位で、餓死者や凍死者が出たであろう)
たしかに、12月31日は来年ではないのだから、こういう混乱も許容されるのだろうが、それでは「『公』の再建は、資本主義をよみがえらせるうえでも必要である。資本主義の代案は資本主義しかない」という諸君たちの決意はどうなるのか?
われわれ赤星マルクス研究会は、来年は「資本主義の代案は、資本主義ではなく、資本主義以上のものである」ことを労働者に理解してもらうために、「資本主義の代案は資本主義しかない」という“日本の英知”諸君に果敢に挑戦しようと考えているが、現在の情況は議論以前の問題でしかない。
もっとも、この“日本経済新聞”氏の大見出しは、新日鉄会長の三村明夫氏のインタビューのなかで語られたものであり、三村氏の発言は「優勝劣敗をベースとする資本主義に欠点はあっても、資源を効率的に配分し、企業や個人の意欲を引き出す点で非常によくできている。私たちはこれ以上の経済システムを持ちえていない」という比較的おだやかなものであるが、これを拡大解釈して「資本主義に代役はない」という大見出しをつけたのは、もちろん日本経済新聞の編集部である。
しかし、「資源の効率的配分」という見地からして、現在の鉄鋼業はどうなのか?
つい先日まで、世界の鉄鋼業は資本主義的繁栄に酔い、無政府的に生産設備を増強してきた。そこで現在の世界の鉄鋼生産能力は6億トン程度に拡大してきたが、バブルがはじけた現在では鉄鋼の需要はせいぜい3億トンから4億トン程度まで低下しているであろう。つまり、世界の鉄鋼業の生産設備のかなりの部分はすでに“過剰生産力化”しているのであり、これが顕在化すれば、(この顕在化はすでに必然的なものになっている)やがて自動車産業以上の深刻な事態におちいるのは目に見えている。
賢明な日本経済新聞の記者氏は、もちろん、そういうことをよくご存じだ。それで「厳しい情勢の中でも『希望のシナリオ』を提示するのが経営者の使命のひとつ」なのだから、三村氏の楽観論の裏側には、鉄鋼業が抱えている苦境があると、すずしい顔をしていう。(ハッ、ハッ、ハッ)これではなんのために、日本のブルジョアの“親方”を登場させて、「資本主義に代役はない」と言わせたのか、意味がないではないか。
もっとおもしろいのは「朝日新聞」氏である。
「朝日新聞主幹」氏は12月30月の朝刊一面で、いう。
「『公』の再建は、資本主義をよみがえらせるうえでも必要である。資本主義の代案は資本主義しかない。市場の欠陥を補うのは、市場に『公正』のルールを課し、国民の働く場を維持し、社会を安定させることである。それにはたくましい『公』が不可欠である。
・・・
朝日新聞はその機能(公共政策をめぐる機能の弱まりをただすという機能)を十分に果たしているだろうか。来年はこの面でももっと果敢にとり組んでいきたい。」と。
社会民主主義や“スターリン主義”の実質的な内容である国家資本主義、すなわち国家(公)と資本主義の癒着、融合によって資本主義がよみがえるのかどうか、ということはわれわれの知ったことではないが、少なくとも、資本主義の再生にかける「朝日新聞」の意気込みだけは伝わってくる文章である。
ところが、翌日、すなわち、12月31日の社説では、「公益法人改革―『民の力』が育つように」という。ここでは「ますます重要性が高まっていく民間の公益活動を育てていくには、寄付金控除を受けられる要件の緩和など、制度の見直しは急務だ」といっている。
つまり、小泉時代の「官(公)より民へ」というスローガンをそのまま受け入れて、公益活動を「民」が行う重要性はますます重要になっているのだから、「公」は民間の公益事業をもっと応援すべきであるというのである。
しかし、「日本野球機構、NHK交響楽団、アムネスティ・インターナショナル日本、駐車場整備推進機構」といった「朝日新聞」が例示した団体の“公益性”なり“公共性”なりには、はなはだ疑問があるし、税制上の優遇措置を受けなければならない理由もわからない。
それとも現在、テレビでやっているような派遣労働者を支援している“市民”のボランティア活動のような活動をいうのだろうか?しかしだ、こういう活動は本来ならば、「公」(国家)つまり自民党政権が自らの責任で行うべきであろう、「公」すなわち、国家の怠慢を人々の善意が補完しているからといって、そういうボランティア団体に公的な地位を与え、税法上の優遇措置を与えることで問題は解決するのか。違うだろう!
そして、こういうことを言うのであれば、この間、無理矢理、「官(公)より民へ」移行させられた公益法人や独立行政法人、国立病院や国立大学や郵便事業の惨状をいうのが先であろう。(これらの多くが赤字に転落して深刻な経営危機にある)
人々の生活に必要な公的なサービスを民間に移行させて、当然発生するであろう赤字を放置し、必ずしもパブリックなものとは言いがたいものに公的支援を行えというのでは、それこそ「朝日新聞はその機能(公共政策をめぐる機能の弱まりをただすという機能)を十分に果たしているだろうか」ということにならないか?そもそもが民間、すなわち、資本主義的な営利団体が公的機能を代行できるというのであれば、「公」は存在する意味がないし、われわれが税金を払わなければならない理由もないであろう。(小泉時代には、職業安定所を廃止して、民間業者に委託しようということさえ、公然と大まじめに議論されていた。もしこういうことが実施されていれば、今ごろ、日本では、何百人という単位で、餓死者や凍死者が出たであろう)
たしかに、12月31日は来年ではないのだから、こういう混乱も許容されるのだろうが、それでは「『公』の再建は、資本主義をよみがえらせるうえでも必要である。資本主義の代案は資本主義しかない」という諸君たちの決意はどうなるのか?
われわれ赤星マルクス研究会は、来年は「資本主義の代案は、資本主義ではなく、資本主義以上のものである」ことを労働者に理解してもらうために、「資本主義の代案は資本主義しかない」という“日本の英知”諸君に果敢に挑戦しようと考えているが、現在の情況は議論以前の問題でしかない。