マルクス主義同志会の今週の“お題”は具体的有用労働による価値の“移転”である。
マルクスは労働を、価値を形成する抽象的人間労働と使用価値を形成する具体的有用労働という二重のものとしてとらえていた。
ところが、価値増殖過程ではマルクスは具体的有用労働によって生産手段(原料、機械、道具等)の価値が商品に移転すると説明されている。
そのマルクス主義同志会によれば、「資本主義の理解のカギは具体的労働にあるのではない、商品の「価値」の秘密の究明は(したがってまた資本の本性の究明は)、抽象的人間労働がとる歴史的な形態(“物的な”形態)、価値の形態の追求と認識の中にこそあるのであって、その場合、具体的労働やその「意義」や「役割」についてのおしゃべりは、その重要性の強調はどんな意味をもってくるのか。大した意義があるようには思われない、あるいはむしろ問題の本質から、決定的に重要なことから目をそらさせる役割を演じているにすぎないのである。」(『海つばめ』第1063号)そうである。
われわれにはマルクス主義同志会が何を言っているのかさっぱり分からないのだが、要するに、抽象的人間労働は神秘に彩られた崇高のものであり、マルクス主義同志会の諸会員氏らにとって信仰の対象になるということであろうか?(散文的に言えば、商品の価値の秘密の究明と資本の本性の究明はまったく別のことがらであるし、また労働が抽象的人間労働の形態をとるということ自体が商品生産社会に特有な歴史的な形態なのであり、価値形態の発展は価値表見の発達なのであって、価値の“物質化”の過程ではない。マルクス主義同志会はありとあらゆる誤解と曲解と混乱と錯乱の果てに、抽象的人間労働を神に祭り上げる新興宗教に到達しており、ここではその信仰の告白が行われているのである。)
ここでマルクス主義同志会は抽象的人間労働は尊く、具体的人間労働は卑しいといった観点から、「具体的労働は『価値』に対しては無関係であり、直接にかかわりをもつことは決してできない」(『海つばめ』第1063号)、「抽象的人間労働は『価値を作り』、具体的労働は『価値を移転する』といった対置は、一般化されるなら空虚なドグマに転化するのである。」(『海つばめ』第1063号)とまでいうのであるから、これまでのように、愚かなマルクスの間違いを正して、彼らが真に正しいと思っているアダム・スミスの見解、すなわち、社会的生産物の全価値は収入(賃金、利潤、地代、すなわち、v+m)に分解するという見解に固執するべき場面であろう。
ところが今回はそうではない。マルクス主義同志会は一方で、「抽象的人間労働は『価値を作り』、具体的労働は『価値を移転する』といった対置」は空虚なドグマであると断じながら他方で、『資本論』のつぎの個所を妥当なものとして承認するのである。
「価値形成過程の考察のさいに明らかになったように、一使用価値が新たな一使用価値の生産のため、その目的にそくして消耗される限りでは、消耗された使用価値の生産のために必要な労働時間の一部分をなすのであり、したがってそれは、消耗された生産手段から新生産物に移転される労働時間なのである。したがって労働者が消耗された生産手段の価値を維持するのは、すなわちそれらの価値を価値構成部分として生産物に移転するのは、労働一般をつけ加えることによってではなく、この付加的労働の特殊有用的性格によって、それの独特な生産的形態によってである。このような目的にそくした生産活動としては、すなわち紡ぐこと、織ること、鍛造することとしては、労働は、ただ接触するだけで生産諸手段を死からよみがえらせ、それらに精気を吹き込んで労働過程の諸要因にし、それらと結合して生産物となるのである。
労働者の独特な生産的労働がもし紡ぐことでないとすれば、彼は綿花を糸には転化しないであろうし、したがって綿花と紡錘との価値を糸に移転しもしないであろう。これに反して、同じ労働者が職業を変えて指物工になるとしても、かれは相変わらず一労働日によって彼の材料に価値をつけ加えるであろう。したがって労働者が彼の労働によって価値をつけ加えるのは、彼の労働がある特殊有用的な内容をもつからではなく、それが一定の時間続けられるからである。したがって紡績工の労働は、その抽象的一般的属性おいては、すなわち人間労働力の支出としては、綿花と紡錘との価値に新価値をつけ加え、紡績過程としてのその具体的、特殊的、有用的属性においては、これらの生産手段の価値を生産物に移転し、こうしてそれらの価値を生産物において維持する。そこから、同じ地点における労働の結果の二面性が生じる。
労働の単なる量的な付加によって新たな価値がつけ加えられ、つけ加えられる労働の質によって生産手段の旧価値が生産物において維持される。労働の二面的性格の結果として生じる同じ労働のこの二面的作用は、さまざまな現象において手に取るように示される。」(『資本論』第1巻、新日本出版社文庫版2分冊、P341~342)
ここではマルクスははっきりと「抽象的人間労働は『価値を作り』、具体的労働は『価値を移転する』といったマルクス主義同志会がいうところの“空虚なドグマ”に立脚して価値増殖過程を説明している。
ところがマルクス主義同志会は、この部分を説明して、「マルクスも言うように、『生きた労働との接触』こそが、つまり『労働過程への生産物の投入』こそが、『これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し、また実現するための唯一の手段』(『資本論』三篇五章、岩波文庫二分冊一九頁)なのだから、我々は『生きた労働との接触』という視点にもっと注意を払うべきなのである(もちろん、『生きた労働』とは結局『具体的労働』ではないかと言われれば否定すべくもないが、しかしそこには“微妙な”違いがあるように思われる、というのは、『生きた労働』からその有用性を捨象して行くなら、そこには労働一般、抽象的人間労働が現われるからである)。」(『海つばめ』、第1063号)ともいう。
「具体的有用労働の有用性を捨象すれば、つまるところ抽象的人間労働ではないか」というのは、社会的生産物の全価値はつまるところ収入(賃金、利潤、地代、すなわち、v+m)に分解するというアダム・スミスの“空虚なドグマ”を言い直したものにすぎない。マルクス主義同志会はアダム・スミスから出発してマルクスに戻るふりをして、再び密かにアダム・スミスの“v+mのドグマ”へと回帰しているのである。
このようなアダム・スミスにたいしてマルクスはこのように批判していた。
「アダム・スミスの第一の誤りは、彼が年間生産物価値を年間価値生産物と同一視している点にある。価値生産物のほうは、ただその年の労働の生産物だけである。生産物価値の方は、そのほかに、年間生産物の生産に消費されたとはいえそれ以前の年および一部分はもっと以前の諸年に生産されたすべての価値要素を含んでいる。すなわち、その価値がただ再現するだけの生産手段――その価値から見ればその年に支出された労働によって生産されたのでも再生産されたのでもない生産手段――の価値を含んでいる。この混同によって、スミスは年間生産物の不変価値部分を追い出してしまうのである。この混同そのものは、彼の基本的な見解のなかにあるもう一つの誤りにもとづいている。すなわち、彼は、労働そのものの二重の性格、すなわち、労働力の支出として価値をつくるかぎりでの労働と、具体的有用労働として使用対象(使用価値)をつくるかぎりでの労働という二重の性格を、区別していないのである。一年間に生産される商品の総額、つまり、年間生産物は、その一年間に働く有用労働の生産物である。ただ、社会的に充用される労働がいろいろな有用労働の多くの枝分かれした体系のなかで支出されたということによってのみ、すべてこれらの商品は存在するのであり、ただこのことによってのみ、それらの商品の総価値のうちに、それらの商品の生産に消費された生産手段の価値が新たな現物形態で再現して保存されているのである。だから、年間生産物の総体は、その一年間に支出された有用労働の結果である。しかし、年間の生産物価値の方は、ただその一部分だけがその一年間につくりだされたものである。この部分こそは、その一年間だけに流動させられた労働の総量を表す年間生産物価値なのである。」(『資本論』、第2巻、全集24巻、P463~464)
マルクス主義同志会は、「具体的有用労働の有用性を捨象すれば、つまるところ抽象的人間労働ではないか」ということにより事実上、アダム・スミスの見解へと“先祖返り”をしており、このような観点から、「大谷にあっては、何か商品の価値は、有用的労働の結果たる“旧”価値と、抽象的労働の結果たる“新”価値の和として表されるのであるが、しかし実際には、価値は本質的に抽象的労働の対象化としてのみ価値である。」ともいう。
しかし、マルクスがいうように「一年間に生産される商品の総額、つまり、年間生産物は、その一年間に働く有用労働の生産物」であって、抽象的人間労働の総計ではないのだから、マルクスの見解とアダム・スミスの見解は量的にも食い違うということになる。そういう点では、マルクス主義同志会は「もし具体的労働によって、生産手段の価値が移転されるというなら、具体的労働は直接にその量にも関係するということになるが、どんな形で価値の量と関係するのか、なぜ、またいかにして、生産手段と同じ量の価値が生産物の中に再現するのか、の説明は決してなされ得ないであろう。」(『海つばめ』、第1063号)というバカなことをいっている場合ではないのではないか。
また、「『生きた労働との接触』こそが、つまり『労働過程への生産物の投入』」というように、「労働は、ただ接触するだけで生産諸手段を死からよみがえらせ、それらに精気を吹き込んで労働過程の諸要因にし、それらと結合して生産物となる」というマルクスの言葉を「労働過程への生産物の投入」(???)というように理解しているが、これも正しくない。むしろ逆に、「生産物」(生産手段という形態で存在している対象化された労働)にたいして労働力が投入されるのである。
これはどうでもいいということではない。同じ『資本論」の第2巻でマルクスは次のようにもいっている。
「生産の社会的形態がどうであろうと、労働者と生産手段はいつでも生産の要因である。しかし、一方も他方も、互いに分離された状態にあっては、ただ可能性から見てそうであるにすぎない。およそ生産が行われるためには、両方が結合されなければならない。この結合が実現される特殊な仕方は、社会構造のいろいろな経済的時代を区別する。当面の場合には、自由な労働者がその生産手段から分離されているということが、与えられた出発点である。またどのようにしてどんな条件のもとで、この二つが資本家の手の中で――すなわち彼の資本の生産的存在様式として――一つにされるかは、われわれがすでに見たところである。それゆえ、こうして一つにされた商品形成の人的要因と物的要因とがいっしょに入っていく現実の過程、生産過程は、それ自身が資本の一機能――資本主義的生産過程になるのであって、その本性は本書の第1部ですでに詳しく説明されている。商品生産の営みはすべて同時に労働力搾取の営みになる。しかし、資本主義的生産がはじめて一つの画期的な搾取様式になるのであって、この搾取様式こそは、それがさらに歴史的に発展するにつれて、労働過程の組織と技術の巨人的成長とによって、社会の全経済的構造を変革し、それ以前のどの時代よりもはるかに高くそびえ立つのである。
生産手段と労働力とは、それらが前貸資本価値の存在形態であるかぎり、それらが生産過程中に価値形成において、したがってまた剰余価値の生産において演ずる役割の相違によって、不変資本と可変資本とに区別される。生産資本の別々の成分としては、それらは、さらにまた、資本家の手にある生産手段は生産過程の外でもやはり彼の資本であるが、労働力のほうはただ生産過程のなかだけで個別資本の存在形態になるということによっても区別される。労働力は、ただその売り手としての賃金労働者の手のなかだけで商品だとすれば、それは、逆に、ただ、その買い手であってその一時的な使用権を持っている資本家の手のなかだけで資本になるのである。生産手段そのものは、労働力が生産資本の人的存在形態として生産手段に合体されうるものになった瞬間からはじめて生産資本の対象的な姿または生産資本になるのである。だから、人間の労働力は生まれつき資本なのではないし、生産手段もまたそうではない。生産手段は、ただ歴史的に発展した特定の諸条件のもとでのみ、この独自な社会的性格を受け取るのであって、それは、ちょうど、ただそのような諸条件のもとでのみ、貴金属に貨幣という社会的性格が刻印され、さらにまた貨幣に貨幣資本という社会的性格が刻印されるようなものである。」(『資本論』、第2巻、全集24巻、P49~50)
マルクス主義同志会は生産過程を単に「労働過程と価値形成過程の統一」という観点からしか見ることができないがゆえに、いとも簡単に「労働との接触」を労働力と生産手段の結合を「労働過程への生産物の投入」という意味不明な概念で説明しようとしているが、マルクスはこの言葉で「生産手段そのものは、労働力が生産資本の人的存在形態として生産手段に合体されうるものになった瞬間からはじめて生産資本の対象的な姿または生産資本になるのである」、「労働力は、ただその売り手としての賃金労働者の手のなかだけで商品だとすれば、それは、逆に、ただ、その買い手であってその一時的な使用権を持っている資本家の手のなかだけで資本になる」というように、資本家によって別々に買われた生産手段と労働力が資本の手で一つのものとして結合されるときに資本は生産資本になるのであり、マルクスはこの両者の結合のされ方が「社会構造のいろいろな経済的時代を区別する」ともいっているのである。
われわれがつねづね主張しているように、マルクス主義同志会は資本主義的生産様式そのものを見失っているということがここでもやはりマルクスの『資本論』の正しい理解から彼らを遠ざけているのである。
マルクスは労働を、価値を形成する抽象的人間労働と使用価値を形成する具体的有用労働という二重のものとしてとらえていた。
ところが、価値増殖過程ではマルクスは具体的有用労働によって生産手段(原料、機械、道具等)の価値が商品に移転すると説明されている。
そのマルクス主義同志会によれば、「資本主義の理解のカギは具体的労働にあるのではない、商品の「価値」の秘密の究明は(したがってまた資本の本性の究明は)、抽象的人間労働がとる歴史的な形態(“物的な”形態)、価値の形態の追求と認識の中にこそあるのであって、その場合、具体的労働やその「意義」や「役割」についてのおしゃべりは、その重要性の強調はどんな意味をもってくるのか。大した意義があるようには思われない、あるいはむしろ問題の本質から、決定的に重要なことから目をそらさせる役割を演じているにすぎないのである。」(『海つばめ』第1063号)そうである。
われわれにはマルクス主義同志会が何を言っているのかさっぱり分からないのだが、要するに、抽象的人間労働は神秘に彩られた崇高のものであり、マルクス主義同志会の諸会員氏らにとって信仰の対象になるということであろうか?(散文的に言えば、商品の価値の秘密の究明と資本の本性の究明はまったく別のことがらであるし、また労働が抽象的人間労働の形態をとるということ自体が商品生産社会に特有な歴史的な形態なのであり、価値形態の発展は価値表見の発達なのであって、価値の“物質化”の過程ではない。マルクス主義同志会はありとあらゆる誤解と曲解と混乱と錯乱の果てに、抽象的人間労働を神に祭り上げる新興宗教に到達しており、ここではその信仰の告白が行われているのである。)
ここでマルクス主義同志会は抽象的人間労働は尊く、具体的人間労働は卑しいといった観点から、「具体的労働は『価値』に対しては無関係であり、直接にかかわりをもつことは決してできない」(『海つばめ』第1063号)、「抽象的人間労働は『価値を作り』、具体的労働は『価値を移転する』といった対置は、一般化されるなら空虚なドグマに転化するのである。」(『海つばめ』第1063号)とまでいうのであるから、これまでのように、愚かなマルクスの間違いを正して、彼らが真に正しいと思っているアダム・スミスの見解、すなわち、社会的生産物の全価値は収入(賃金、利潤、地代、すなわち、v+m)に分解するという見解に固執するべき場面であろう。
ところが今回はそうではない。マルクス主義同志会は一方で、「抽象的人間労働は『価値を作り』、具体的労働は『価値を移転する』といった対置」は空虚なドグマであると断じながら他方で、『資本論』のつぎの個所を妥当なものとして承認するのである。
「価値形成過程の考察のさいに明らかになったように、一使用価値が新たな一使用価値の生産のため、その目的にそくして消耗される限りでは、消耗された使用価値の生産のために必要な労働時間の一部分をなすのであり、したがってそれは、消耗された生産手段から新生産物に移転される労働時間なのである。したがって労働者が消耗された生産手段の価値を維持するのは、すなわちそれらの価値を価値構成部分として生産物に移転するのは、労働一般をつけ加えることによってではなく、この付加的労働の特殊有用的性格によって、それの独特な生産的形態によってである。このような目的にそくした生産活動としては、すなわち紡ぐこと、織ること、鍛造することとしては、労働は、ただ接触するだけで生産諸手段を死からよみがえらせ、それらに精気を吹き込んで労働過程の諸要因にし、それらと結合して生産物となるのである。
労働者の独特な生産的労働がもし紡ぐことでないとすれば、彼は綿花を糸には転化しないであろうし、したがって綿花と紡錘との価値を糸に移転しもしないであろう。これに反して、同じ労働者が職業を変えて指物工になるとしても、かれは相変わらず一労働日によって彼の材料に価値をつけ加えるであろう。したがって労働者が彼の労働によって価値をつけ加えるのは、彼の労働がある特殊有用的な内容をもつからではなく、それが一定の時間続けられるからである。したがって紡績工の労働は、その抽象的一般的属性おいては、すなわち人間労働力の支出としては、綿花と紡錘との価値に新価値をつけ加え、紡績過程としてのその具体的、特殊的、有用的属性においては、これらの生産手段の価値を生産物に移転し、こうしてそれらの価値を生産物において維持する。そこから、同じ地点における労働の結果の二面性が生じる。
労働の単なる量的な付加によって新たな価値がつけ加えられ、つけ加えられる労働の質によって生産手段の旧価値が生産物において維持される。労働の二面的性格の結果として生じる同じ労働のこの二面的作用は、さまざまな現象において手に取るように示される。」(『資本論』第1巻、新日本出版社文庫版2分冊、P341~342)
ここではマルクスははっきりと「抽象的人間労働は『価値を作り』、具体的労働は『価値を移転する』といったマルクス主義同志会がいうところの“空虚なドグマ”に立脚して価値増殖過程を説明している。
ところがマルクス主義同志会は、この部分を説明して、「マルクスも言うように、『生きた労働との接触』こそが、つまり『労働過程への生産物の投入』こそが、『これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し、また実現するための唯一の手段』(『資本論』三篇五章、岩波文庫二分冊一九頁)なのだから、我々は『生きた労働との接触』という視点にもっと注意を払うべきなのである(もちろん、『生きた労働』とは結局『具体的労働』ではないかと言われれば否定すべくもないが、しかしそこには“微妙な”違いがあるように思われる、というのは、『生きた労働』からその有用性を捨象して行くなら、そこには労働一般、抽象的人間労働が現われるからである)。」(『海つばめ』、第1063号)ともいう。
「具体的有用労働の有用性を捨象すれば、つまるところ抽象的人間労働ではないか」というのは、社会的生産物の全価値はつまるところ収入(賃金、利潤、地代、すなわち、v+m)に分解するというアダム・スミスの“空虚なドグマ”を言い直したものにすぎない。マルクス主義同志会はアダム・スミスから出発してマルクスに戻るふりをして、再び密かにアダム・スミスの“v+mのドグマ”へと回帰しているのである。
このようなアダム・スミスにたいしてマルクスはこのように批判していた。
「アダム・スミスの第一の誤りは、彼が年間生産物価値を年間価値生産物と同一視している点にある。価値生産物のほうは、ただその年の労働の生産物だけである。生産物価値の方は、そのほかに、年間生産物の生産に消費されたとはいえそれ以前の年および一部分はもっと以前の諸年に生産されたすべての価値要素を含んでいる。すなわち、その価値がただ再現するだけの生産手段――その価値から見ればその年に支出された労働によって生産されたのでも再生産されたのでもない生産手段――の価値を含んでいる。この混同によって、スミスは年間生産物の不変価値部分を追い出してしまうのである。この混同そのものは、彼の基本的な見解のなかにあるもう一つの誤りにもとづいている。すなわち、彼は、労働そのものの二重の性格、すなわち、労働力の支出として価値をつくるかぎりでの労働と、具体的有用労働として使用対象(使用価値)をつくるかぎりでの労働という二重の性格を、区別していないのである。一年間に生産される商品の総額、つまり、年間生産物は、その一年間に働く有用労働の生産物である。ただ、社会的に充用される労働がいろいろな有用労働の多くの枝分かれした体系のなかで支出されたということによってのみ、すべてこれらの商品は存在するのであり、ただこのことによってのみ、それらの商品の総価値のうちに、それらの商品の生産に消費された生産手段の価値が新たな現物形態で再現して保存されているのである。だから、年間生産物の総体は、その一年間に支出された有用労働の結果である。しかし、年間の生産物価値の方は、ただその一部分だけがその一年間につくりだされたものである。この部分こそは、その一年間だけに流動させられた労働の総量を表す年間生産物価値なのである。」(『資本論』、第2巻、全集24巻、P463~464)
マルクス主義同志会は、「具体的有用労働の有用性を捨象すれば、つまるところ抽象的人間労働ではないか」ということにより事実上、アダム・スミスの見解へと“先祖返り”をしており、このような観点から、「大谷にあっては、何か商品の価値は、有用的労働の結果たる“旧”価値と、抽象的労働の結果たる“新”価値の和として表されるのであるが、しかし実際には、価値は本質的に抽象的労働の対象化としてのみ価値である。」ともいう。
しかし、マルクスがいうように「一年間に生産される商品の総額、つまり、年間生産物は、その一年間に働く有用労働の生産物」であって、抽象的人間労働の総計ではないのだから、マルクスの見解とアダム・スミスの見解は量的にも食い違うということになる。そういう点では、マルクス主義同志会は「もし具体的労働によって、生産手段の価値が移転されるというなら、具体的労働は直接にその量にも関係するということになるが、どんな形で価値の量と関係するのか、なぜ、またいかにして、生産手段と同じ量の価値が生産物の中に再現するのか、の説明は決してなされ得ないであろう。」(『海つばめ』、第1063号)というバカなことをいっている場合ではないのではないか。
また、「『生きた労働との接触』こそが、つまり『労働過程への生産物の投入』」というように、「労働は、ただ接触するだけで生産諸手段を死からよみがえらせ、それらに精気を吹き込んで労働過程の諸要因にし、それらと結合して生産物となる」というマルクスの言葉を「労働過程への生産物の投入」(???)というように理解しているが、これも正しくない。むしろ逆に、「生産物」(生産手段という形態で存在している対象化された労働)にたいして労働力が投入されるのである。
これはどうでもいいということではない。同じ『資本論」の第2巻でマルクスは次のようにもいっている。
「生産の社会的形態がどうであろうと、労働者と生産手段はいつでも生産の要因である。しかし、一方も他方も、互いに分離された状態にあっては、ただ可能性から見てそうであるにすぎない。およそ生産が行われるためには、両方が結合されなければならない。この結合が実現される特殊な仕方は、社会構造のいろいろな経済的時代を区別する。当面の場合には、自由な労働者がその生産手段から分離されているということが、与えられた出発点である。またどのようにしてどんな条件のもとで、この二つが資本家の手の中で――すなわち彼の資本の生産的存在様式として――一つにされるかは、われわれがすでに見たところである。それゆえ、こうして一つにされた商品形成の人的要因と物的要因とがいっしょに入っていく現実の過程、生産過程は、それ自身が資本の一機能――資本主義的生産過程になるのであって、その本性は本書の第1部ですでに詳しく説明されている。商品生産の営みはすべて同時に労働力搾取の営みになる。しかし、資本主義的生産がはじめて一つの画期的な搾取様式になるのであって、この搾取様式こそは、それがさらに歴史的に発展するにつれて、労働過程の組織と技術の巨人的成長とによって、社会の全経済的構造を変革し、それ以前のどの時代よりもはるかに高くそびえ立つのである。
生産手段と労働力とは、それらが前貸資本価値の存在形態であるかぎり、それらが生産過程中に価値形成において、したがってまた剰余価値の生産において演ずる役割の相違によって、不変資本と可変資本とに区別される。生産資本の別々の成分としては、それらは、さらにまた、資本家の手にある生産手段は生産過程の外でもやはり彼の資本であるが、労働力のほうはただ生産過程のなかだけで個別資本の存在形態になるということによっても区別される。労働力は、ただその売り手としての賃金労働者の手のなかだけで商品だとすれば、それは、逆に、ただ、その買い手であってその一時的な使用権を持っている資本家の手のなかだけで資本になるのである。生産手段そのものは、労働力が生産資本の人的存在形態として生産手段に合体されうるものになった瞬間からはじめて生産資本の対象的な姿または生産資本になるのである。だから、人間の労働力は生まれつき資本なのではないし、生産手段もまたそうではない。生産手段は、ただ歴史的に発展した特定の諸条件のもとでのみ、この独自な社会的性格を受け取るのであって、それは、ちょうど、ただそのような諸条件のもとでのみ、貴金属に貨幣という社会的性格が刻印され、さらにまた貨幣に貨幣資本という社会的性格が刻印されるようなものである。」(『資本論』、第2巻、全集24巻、P49~50)
マルクス主義同志会は生産過程を単に「労働過程と価値形成過程の統一」という観点からしか見ることができないがゆえに、いとも簡単に「労働との接触」を労働力と生産手段の結合を「労働過程への生産物の投入」という意味不明な概念で説明しようとしているが、マルクスはこの言葉で「生産手段そのものは、労働力が生産資本の人的存在形態として生産手段に合体されうるものになった瞬間からはじめて生産資本の対象的な姿または生産資本になるのである」、「労働力は、ただその売り手としての賃金労働者の手のなかだけで商品だとすれば、それは、逆に、ただ、その買い手であってその一時的な使用権を持っている資本家の手のなかだけで資本になる」というように、資本家によって別々に買われた生産手段と労働力が資本の手で一つのものとして結合されるときに資本は生産資本になるのであり、マルクスはこの両者の結合のされ方が「社会構造のいろいろな経済的時代を区別する」ともいっているのである。
われわれがつねづね主張しているように、マルクス主義同志会は資本主義的生産様式そのものを見失っているということがここでもやはりマルクスの『資本論』の正しい理解から彼らを遠ざけているのである。