労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

ロシア革命とユダヤ人

2006-11-26 01:25:52 | Weblog
 前に、
 
 「マルクス主義者は自分で自分を教育するのであり、圧政と横暴がはびこり、多くの人が虐げられている社会では、マルクス主義者は社会のどこからでもわいてくるのである。
 
 それはちょうど、19世紀と20世紀の変わり目の広大なロシア帝国で、相互の連関なく、どこからともなくボルシェヴィキの革命家たちが続々とわき出てきたように、圧政と横暴がはびこり、多くの人が虐げられている社会そのものが彼らを生み出したのである。」

 このように書いたら、「圧政と横暴がマルクス主義を生み出すのではない」というお叱りの言葉をいただきまして、考えてみたら、確かにそれは、一面的なものの言い方だったような気がします。
 
 しかし、われわれはこの直後に、「変革を要する社会では、社会自身が変革者を生み出すのである」ということをいっています。
 
 これ自体は史的唯物論の真実であり正しいと思います。こういう点をもっと前面に出すべきだったと思います。
 
 そして、これがわれわれの関心を引く点ですが、この人は「ロシアのマルクス主義はユダヤ人によってもたらされた。」といっています。
 
 それでこの人が紹介してくれたホームページを見ましたが、そこでは
 
 「ロシアの革命直後における共産党員の民族別構成比の統計に目を通すと、次のような現象が見い出される。それは、総人口中の比に対して、ユダヤ人の場合、他と比較して党員中の割合が、かなり高いということである。ロシア革命期に目を転じると、この時期にもユダヤ知識人の革命家が、実に多く存在していたことがわかる。トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフ、ラデック、さらにメンシェヴィキのマルトフなど、革命指導者のほとんどは、ユダヤ人であったといえる。革命指導者だけでなく、革命参加者の中にも多数のユダヤ青年が存在していた。」
 
 という記述がありました。この部分についてはこの人の指摘は正しいと思います。
 
 ロシアの革命運動は「労働者階級解放闘争同盟」から始まりましたが、この組織はレーニンとマルトフの合作です。
 
 マルトフはヴィルナ(現リトアニア)出身の労働者活動家で、ヴィルナにはユダヤ人労働者地区があり、ここはロシアの革命運動、労働運動の発祥の地ともいえるほど、世紀の変わり目には労働者の運動が盛んなところでした。
 
 その理由としては、当時のロシアではユダヤ人は大学に入学できなかったために、ユダヤ人労働者のなかには潜在的に非常に有能な労働者が数多く含まれていたためではないかと思います。
 
 しかしもちろんヴィルナの革命運動、労働運動に問題がないわけではありませんでした。
 
 というのはヴィルナの労働者達は機械制大工業の労働者ではなく、ほとんど手工業的な労働者であったので、多くが労働者サークルで知識を身につけ、小金を貯めてアメリカに移住する希望を抱いていた労働者達が多かったので、労働者のサークルといっても必ずしもマルクス主義を学ぶ労働者サークルではありませんでした。
 
 また彼らは革命運動よりも日常の改良闘争を重視しており、レーニンが「経済主義者」とよんでいた日和見主義の一潮流でした。
 
 さらに、彼らはブントというユダヤ人労働者組織をつくって、社会主義の実現のほかにユダヤ人の解放も掲げていました。
 
 ロシア社会民主党の第一回大会はこのブントが中心になり、ブントはロシア社会民主党に団体加盟するという形式をとっていましたが、このロシア社会民主党の結成に関わった人々は後日、ロシアの秘密警察に一網打尽となり、ロシア社民党は事実上、解体しました。
 
 ロシア社会民主党の第2回大会は1903年にロシア国外で開催されましたが、この時には事情が大きく異なっています。もちろんその最大の原因はレーニンがシベリアの流刑から釈放されて国外に亡命し、この大会に中心人物として参加していたためです。
 
 レーニンは、マルトフの経済主義にも、ブントの「分離主義」にも、断固反対でした。レーニンは革命組織は単一の組織であるべきで、民族ごとに党組織を作るなどというのはもってのほかであると主張していましたので、当然ブントが大会に団体として参加すること自体に反対でした。
 
 このときブントはへそを曲げて大会をボイコットしてしまったので、大会ではレーニンの反対派は少数派となりレーニンは多数派を形成しました。この対立は大会後も続き、社会民主党はレーニンのボルシェヴィキ(多数派)とマルトフのメンシェヴィキ(少数派)という、事実上の分裂状態となりました。
 
 しかしレーニンのもとを去っていったブントやトロツキーのように、かなり後までレーニンの反対者であったユダヤ人活動家ばかりではなく、カーメネフ、ジノヴィエフのようにこの時レーニンの側についたユダヤ人活動家も多かったのです。
 
 こういう人はユダヤ人活動家として革命運動に参加しているのではなく、ボルシェヴィキの活動家として革命運動に参加していたのです。そういう点では社会主義運動は民族主義を超えたところに存在している運動であるというレーニンの指摘は正しかったと思います。