田植えのすんだ国府の平野
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成28年 第11回但馬検定(3級)問題より
【77】豊岡市出石町出身で東京大学初代総理(長)となり、現在も豊岡市出石町
下谷に生家が残るのは、誰でしょうか。
(a)加藤弘之 (b)桜井 勉 (c)中江種造 (d)浜尾 新
東京大学初代総理(長)として有名な人物は、出石町出身の「加藤弘之(かと
うひろゆき)」です。答えは(a)の)加藤弘之となります。
天保6年は、江戸三大お家騒動の一つと言われる出石藩・仙石騒動で、大老・仙石
左京が獄門に処せられた年です。
その翌年、天保7年(1835)に出石藩用人・加藤正照(まさてる)の長男として生
まれたのが加藤弘之です。
弘之は頭脳明晰にして学問一筋の子でした。
藩校・弘道館に学んだあと、江戸に出て佐久間象山に洋式兵学を学び、大木仲益(後
の坪井為春)に蘭学を学びます。
万延元年(1860)、24才にして幕府から蕃書調所(ばんしょしらべしょ):東大の前
身、教授手伝いに採用されます。
加藤弘之はドイツ学を研究し、維新後は政府へ出仕、東京大学初代総理(長)をはじ
め、官界・学界で活躍し明治の教育界、官界の大御所として君臨します。
ちなみに、(b)の桜井勉(さくらいつとむ)は加藤より7才年下の同郷の生まれ、
日本気象測候所の創始者としてとても有名な人物です。
(c)中江種造(なかえたねぞう)は加藤より10才年下の豊岡市の生まれ、明治の鉱山
王として成功し、市の上水道建設費を全額寄付したことでとても有名な人物です。
(d)浜尾 新(はまおあらた)は、加藤より13才年下の豊岡藩江戸詰め下級武士の子と
して生まれ、上野の美術学校(のちの東京芸大)創立、東京帝国大学総理をつとめ、
東京大学のイチョウ並木と、構内に立つ浜尾の銅像はとても有名なものです。
明治の教育界、官界には、ふるさと但馬出身の大人物が活躍していました。
『ケンちゃんのお手伝い』
(今回は昔の話じゃなくって、きのうのとっても嬉しかった話を書こうかね)
ケンちゃん、きのうはアトムの大感謝祭で、店は大勢のお客さんで賑わったね。
じいちゃんは、ケンちゃんの一生懸命手伝いをする姿を見ていて感心したよ。
凄いなあ~と、本当に感心したよ。
嬉しかったな。
二日前、準備が終わったケンちゃんに聞いたね。
楽しいゲームを確認しながら「ケンちゃんは売り出しの日は、どこの担当になっ
てもらおうかな」とたずねたら、ケンちゃんは言ったね。
「トランプも、水鉄砲も、テッシュ釣りも、ぬり絵も、ボールすくいも、風船釣りも、
イライラ棒も、全~部する~」って言ったね。
きのうは本当にやったね。
どれもこれも走り回って、ケンちゃんはやってたね。
お客さん一人ひとりに「どっちにしますか」と尋ねて、キャラメル味か塩味かって聞
いて、三角袋のポップコーン手渡しもやってたね。
「トランプ忘れましたか。ハイ、どれか引いてください」。
「それから、箱の中から一枚取って」とちゃんと説明してたね。
「3等賞はこの中から選べますよ」なんてことまで案内出来てたね。
凄いすごい。
小さな子には「こうしてすくってね。スーパーボール5個だったね。おまけをどうぞ」っ
て、手にいっぱいあげてたね。
凄く上手をするんだね。まるで商売人みたいだよ。
「ぬり絵の人ありませんか~」なんて呼びかけてたね。走ってご褒美のオモチャ持って来
なくても選んでもらったらいいんよ。
水鉄砲のゲーム、お菓子をヒモに釣って準備、上手いことサッサと出来たね。
「大人だけれどさせてね」とやってたおばちゃん感心してたよ。
「ティシュ釣りは、このサオでどうぞ」と渡して、「ハイ、スタート」とタイマー押す合図、
上手いことちゃんと案内出来るね。「ピ~ピ~、はいそこまで」なんて念押しまでして。
兄ちゃん達がイライラ棒で「ピンポ~ン」と失敗してたね。
「2回まではやって下さい」「何度でも楽しんでね」なんて感心したよ。
ケンちゃんの働きぶりに、じいちゃんも父ちゃんも、母ちゃんもばあちゃんも感心してたん
よ。
ハッピ姿のケンちゃんを見て、お客さんが何人も褒めておったよ。
「ケンちゃんよくお手伝いできるね~。早ようから電気屋さんできるんね」と、お客さんが
みんな褒めてたね。
「ミオちゃんはまだ3才だから、自分が遊んでばかり。
ぼくは5才で手伝えるんだ」と、大売り出しでケンちゃんの役割をよ~く分かってたね。
ケンちゃんの働きぶりに、みんなとっても感心してたんよ。
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成28年 第11回但馬検定(3級)問題より
【77】豊岡市出石町出身で東京大学初代総理(長)となり、現在も豊岡市出石町
下谷に生家が残るのは、誰でしょうか。
(a)加藤弘之 (b)桜井 勉 (c)中江種造 (d)浜尾 新
東京大学初代総理(長)として有名な人物は、出石町出身の「加藤弘之(かと
うひろゆき)」です。答えは(a)の)加藤弘之となります。
天保6年は、江戸三大お家騒動の一つと言われる出石藩・仙石騒動で、大老・仙石
左京が獄門に処せられた年です。
その翌年、天保7年(1835)に出石藩用人・加藤正照(まさてる)の長男として生
まれたのが加藤弘之です。
弘之は頭脳明晰にして学問一筋の子でした。
藩校・弘道館に学んだあと、江戸に出て佐久間象山に洋式兵学を学び、大木仲益(後
の坪井為春)に蘭学を学びます。
万延元年(1860)、24才にして幕府から蕃書調所(ばんしょしらべしょ):東大の前
身、教授手伝いに採用されます。
加藤弘之はドイツ学を研究し、維新後は政府へ出仕、東京大学初代総理(長)をはじ
め、官界・学界で活躍し明治の教育界、官界の大御所として君臨します。
ちなみに、(b)の桜井勉(さくらいつとむ)は加藤より7才年下の同郷の生まれ、
日本気象測候所の創始者としてとても有名な人物です。
(c)中江種造(なかえたねぞう)は加藤より10才年下の豊岡市の生まれ、明治の鉱山
王として成功し、市の上水道建設費を全額寄付したことでとても有名な人物です。
(d)浜尾 新(はまおあらた)は、加藤より13才年下の豊岡藩江戸詰め下級武士の子と
して生まれ、上野の美術学校(のちの東京芸大)創立、東京帝国大学総理をつとめ、
東京大学のイチョウ並木と、構内に立つ浜尾の銅像はとても有名なものです。
明治の教育界、官界には、ふるさと但馬出身の大人物が活躍していました。
『ケンちゃんのお手伝い』
(今回は昔の話じゃなくって、きのうのとっても嬉しかった話を書こうかね)
ケンちゃん、きのうはアトムの大感謝祭で、店は大勢のお客さんで賑わったね。
じいちゃんは、ケンちゃんの一生懸命手伝いをする姿を見ていて感心したよ。
凄いなあ~と、本当に感心したよ。
嬉しかったな。
二日前、準備が終わったケンちゃんに聞いたね。
楽しいゲームを確認しながら「ケンちゃんは売り出しの日は、どこの担当になっ
てもらおうかな」とたずねたら、ケンちゃんは言ったね。
「トランプも、水鉄砲も、テッシュ釣りも、ぬり絵も、ボールすくいも、風船釣りも、
イライラ棒も、全~部する~」って言ったね。
きのうは本当にやったね。
どれもこれも走り回って、ケンちゃんはやってたね。
お客さん一人ひとりに「どっちにしますか」と尋ねて、キャラメル味か塩味かって聞
いて、三角袋のポップコーン手渡しもやってたね。
「トランプ忘れましたか。ハイ、どれか引いてください」。
「それから、箱の中から一枚取って」とちゃんと説明してたね。
「3等賞はこの中から選べますよ」なんてことまで案内出来てたね。
凄いすごい。
小さな子には「こうしてすくってね。スーパーボール5個だったね。おまけをどうぞ」っ
て、手にいっぱいあげてたね。
凄く上手をするんだね。まるで商売人みたいだよ。
「ぬり絵の人ありませんか~」なんて呼びかけてたね。走ってご褒美のオモチャ持って来
なくても選んでもらったらいいんよ。
水鉄砲のゲーム、お菓子をヒモに釣って準備、上手いことサッサと出来たね。
「大人だけれどさせてね」とやってたおばちゃん感心してたよ。
「ティシュ釣りは、このサオでどうぞ」と渡して、「ハイ、スタート」とタイマー押す合図、
上手いことちゃんと案内出来るね。「ピ~ピ~、はいそこまで」なんて念押しまでして。
兄ちゃん達がイライラ棒で「ピンポ~ン」と失敗してたね。
「2回まではやって下さい」「何度でも楽しんでね」なんて感心したよ。
ケンちゃんの働きぶりに、じいちゃんも父ちゃんも、母ちゃんもばあちゃんも感心してたん
よ。
ハッピ姿のケンちゃんを見て、お客さんが何人も褒めておったよ。
「ケンちゃんよくお手伝いできるね~。早ようから電気屋さんできるんね」と、お客さんが
みんな褒めてたね。
「ミオちゃんはまだ3才だから、自分が遊んでばかり。
ぼくは5才で手伝えるんだ」と、大売り出しでケンちゃんの役割をよ~く分かってたね。
ケンちゃんの働きぶりに、みんなとっても感心してたんよ。