ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
神奈川県作文の会
綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

日本作文の会と国分一太郎さん-3

2011-12-12 11:21:20 | Weblog
 日本作文の会と国分一太郎さん―③


              田宮 輝夫(追悼特集 国分一太郎・その人と業績『作文と教育』1985年5月号より)

60年代になって、生活綴方を全体の教育、国語科のなかにきちんと位置づけようとしたとき、また、その後も、国分さんはしきりと、「さびしがることはない」ということをいわれつづけてこられました。ようやく日本の民間教育諸団体のなかで、国語科教育の目標や全体構造についての考えかたがかたまったなかでのことでした。
 日本語による言語活動のもつ意味、とりわけ綴りかたのしごとでは、子ども自身の表現意欲、書く題材、テーマをもとに自己のものとなった日本語をつかって、子どもの内部からわきおこってくるものを表現創造させるしごとです。この表現創造活動をさせることによって、自然や社会、人間や文化についての認識を正しく、たしかなものにしていきながら、子どもたちが自己の感情や意思をいっそうゆたかなものにしていくからです。子どもたちが、事物のすがたうごき、自己の心とむすびつけながらことばをえらぶことによって、日本語のよき使い手になっていくものです。ここに日本語による表現創造活動の意味深さがあります。この、日本語による表現創造活動が、子どもたちの発達、人格の形成にはたす大きな意味をもっと意識的に、自覚的にもたなければだめだ、というのが、国分さんの、「さびしがることはない」ということばになっていったものです。
 この、日本語による表現創造活動の大きな意味を考えると、戦後、何度か改訂された学習指導要領について、そのつど、きびしい批判の目をむけてこられたのも、この仕事のもつ大きな意味を、実用主義・形式主義・技術主義的な、国語科教育におしとどめてきたものへのするどい指摘でした。文部省とその周辺の人びとが、国語科教育の本質をあいまいにしてきたのに対し、戦後、いちはやく日本の国語科教育の全体像をあきらかにし、日本語そのものを日本の子どものものにしていくための言語の教育と、よみかた、つづりかたを中心とする言語活動の教育を、おおきな二本立てのものにしていくという、日本の国語科教育の創造と充実のための全体構造をゆるぎないものにしたことも、わたくしたちは国分さんのおしごとからまなびとらなければならないと思っています。生活つづり方研究の指導者であったと同時に、戦後の日本における自主的、民主的な国語科教育創造のためにもすぐれた指導者でもありました。日本語の国語科教育全体の研究と実践に及ぼした国分さんのかずかずの業績については、ここでいちいちとりあげることはできませんが、戦後の日本の国語科教育のありかたを考えるとき、国分さんのおしごとを抜きにしては語れないというだけにとどめておきます。

   二

 残された時間で、国分さんの人がらについていくつかもうしあげておきます。
 さきほども、ご自分の意見を頭から決しておしつけることはしなかったといいましたが、それは、日本の父母や教師たちを信じきっていたからだといえるでしょう。日教組の全国教研集会などでも、国語教育のありかたや、つづり方の指導について、国分さんたちとかなりへだたった意見がでても、それをきちんとうけとめ、まとめの発言のときもそういう意見を全体討論のなかで正しく位置づけて発言されることがたびたびでした。そのあと、宿舎に帰って、そのはなしになると、ここは日本作文の会の研究会でもないし、民間教育の競い合う場ではないからといってわらっておられました。そのかわり、大衆的研究集会のなかへ、サークルのセクトをもちこむような発言を耳にすると、たいへんきびしい指摘をなさることが何回かありました。
 それぞれの地域で研究、実践しているひとりひとりの動向をたいへんこまかくつかんでおられ、どこそこのだれは、こういうよい研究をしているとか、新しいくふうをともなった実践があったりすると、それを機関誌に反映させ、全体のものにしていくようにしなければだめだというように、いつも、日本作文の会の充実と発展という立場からわたくしたちを導いてくださいました。
戦前のことをふりかえっておられたのでしょうか。日本作文の会の組織と財政問題などについても、いつも心をくだいておりました。何も財政的な基盤のない日本作文の会にとっては、機関誌『作文と教育』や、会刊行物の売れゆきがいつも気になっておりました。戦後三十余年のあいだ、日本作文の会の名による教師むけ、子どもむけの単行本をたいへんな数を出してきました。日本の他の民間教育研究団体のなかで、その団体名を編者や著者にしている単行本を日本作文の会ほど多く出しているところはありません。会の研究成果を世に問うていこうということといっしょに、みんなの力でひとつのしごとをつみあげていこうという作風が日本作文の会につくられていったからです。その作風をつくってきたのも、国分さんをはじめとする人びとの長いあいだのむすびつきによるものです。人と人とのむすびつきをいつも、本当に大切にしてこられました。人びととの連帯ということを身をもって実践されてきた国分さんでした。
 だれそれに心配ごとがあったり、悩みごとがあったりすると、そのことをいつも気にかけていて声をかけてくれました。人の心の痛みが本当にわかる人でした。どれほど多くの人びとが、国分さんのそういう人間的なやさしさになぐさめられ、はげまされたか知れません。多くの人びとが国分さんのお世話によってご自分の著書をもつようになった事実を何べんもきいております。みんなでいっしょになってしごとをしようという一方で、みんなでひとりの人間をもりたてていこうという、文字どおり、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」という生き方をつらぬかれた国分さんから、わたしたちは語りつくせぬ多くのことを学ばせていただきました。
 どうか安らかにおねむりください。国分一太郎さん。

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1 コメント

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懐かしさがちがうんだろうな (工藤 哲)
2011-12-14 13:36:09
 田宮輝夫さんは、本などにのっている名前でしかぼくは知らないのですけど、田中さんは、何度もお会いしているのでしょうから、懐かしさがちがうのでしょうね。
 《1985年3月29日、東京信濃町の「千日谷会堂」で、「国分一太郎さんを偲ぶ集い」であいさつされたものでした。》
とのことですが、もしかしたら田中さん、集いで、このあいさつを聞いていた?

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