ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
神奈川県作文の会
綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

三 「作文の授業」の原則-3

2011-06-30 21:58:58 | Weblog
      子どものうちに育てておきたい心と表現力-⑥


(3)授業は教師のはたらきかけを含めた子ども集団の学び合いである

 ここでわざわざこんなことわりを入れたのには、理由があります。それは、原稿用紙だけを与えて、あとはすべて子どもたちにおまかせという授業をしている教師がまだいるようです。「指導」ではなく、「支援」だなどといわれるようになって、それに力をえたかどうかは分かりませんが、すべてが子どもまかせにしていることがあります。子どもの持っている力に期待することは大切ですが、それ以前に教師が、どうはたらきかけるかが問題です。
 それとは逆に、作文であっても、ワークシートが作られます。その流れにそってすすめられては、なんで集団で学習しているのか意味がなくなってしまうこともあります。。
 学び合う集団の力を,どう生かすかも、授業のよしあしを決めるだいじな要素なのです。
 子どもたちは、教師に導かれながら学び始めます。子どもたちは、はじめは教師に導かれながらもやがてはその援助を抜け出して学んでいくのです。さらにすすむと、子どもたちどうしが、課題を出し合って集団で学習を進めていくようになります。
そのためにも、教師が、どこでどのように指導して個々を育て、それを集団のなかでいかに発揮させるか、常に考えて進めなくてはなりません。

(4)やさしいものからむずかしいものへ

 作文の指導であっても、授業であるからには、やさしいものからむずかしいものへと順にすすめられていかなければなりません。子どもの成長・発達に合わせて、学年毎のねらいを明らかにして書かせたいと思うのは、この考え方からくるといってよいでしょう。
具体的には、表現方法・技術といった事から考えたとき、題材の選択、構想のたて方、記述の仕方、推敲の仕方、観賞の仕方などについて、やさしいものはどのようなものかをおさえなくてはなりません。
また、指導のはじめには、どのような内容と形式をもった文章をかかせることが大切なのかその縦軸となる系統性も明らかにしなくてはなりません。

(5)学習は積み上げられていく

 そして、学習は積み上げられていくのです。その前に学んだ文章表現の方法と技術が、次の作文の学習に生かされなくてはなりません。「出来事の順に書く」という経験をさせたら、それを意識させて、「時間の順にはならない構成」もあることに気づかせます。そして、文章の構成は、大きく二つに分けられることを理解させていきます。
「ある日、あるとき」の出来事を書きつづった作文が生まれたとき、その作文の構成が出来事の順に書かれていることを確かめます。そして、文末の表現の多くが「…ました、」「…ました。」という過去形表現が多くつかわれていることに気づかせます。そのことを確かめたら、この作文に名づけをします。「ある日型」の作文と呼ぶことにします。すると、こんどは、別な作品がでてきたときに、その違いが明確になります。
 作文の授業であっても、定着させること。それを「積み上げて」展開することも大切なことなのです。

6)「実作」が大切である。

 「自己表現」を重視する作文教育では、内容と形式のすぐれている作品を手本としてあたえて書き方をおしえることを、できるだけひかえるようにします。「自己表現」を重視するところでも、述べているように、文章を書くときには、次のようなことが行われます。
 子どもたちは、生活体験をふりかえり、そのなかから一つのことを題材にえらびます。えらんだことがらを思い浮かべ、構想を練り、一つひとつの事実と言葉をつきあわせ、言葉をえらんで書きすすめます。文と文のつながりを考え、さらには書きたいテーマ意識しながら書きすすめていきます。時には、たちどまって、それまで書いてきた文章を読み返して、その続きを考えます。書き終わったら、読み直して、誤字や脱字をみつけたり、えらんだ言葉がぴったりしているかを考えたり、自分の気持ちをわかってもらえるために事実がきちんと書かれているかふりかえります。
 とても、繊細なしごとであり、集中力の求められる作業です。苦痛のともなう活動でもあるといえます。
 けれども、考えをめぐらし、ことばを駆使しながら文につづって、考えを目にみえる形にしていく活動は、文章表現独自の活動として位置づけなければならないことです。どう表現していくか悩み、考えるなかで、表現力は鍛えられていのです。こう考えて「実作」の大切さを授業の原則の一つに位置づけておきたいのです。

三 「作文の授業」の原則ー2

2011-06-29 10:41:39 | Weblog
            子どものうちに育てておきたい心と表現力ー⑤

(二)「作文の授業」における10の原則

(1)「ねらい」があること
 文章表現の指導においては、「自己表現」を重視するという立場から、子どもの主体性や表現意欲を大切にすることは言うまでもありません。できれば課題を与えないで、子どもたちが書きたいことを自由に選んで、自分なりに組み立てを考えて記述する。そして、その子らしさが出ている文章が生まれることを期待します。
また、子どもたちが書いた作品を、紹介するときにも、まず書き手の子どもの気持ちを何よりも大切にします。みんなにも伝えたいという気持ちを大事にしながら授業を展開していくことになります。書き手の子どもの作品に「よりそって」読み合うことを基本にします。
  けれども、限られた時間のなかに設定されている「授業」であるからには、はっきりとそこに「めあて」を教師はもたなければなりません。とくに課題を与えずに、自由に書かせるときには、自由に書かせる理由がどこにあるのかを考えなくてはりません。
 行事作文の後に作文を書かせている方がまだ多くあるようですが、なぜ、行事が終わった後で、そのことを作文に書かせるのか、その「めあて」をはっきりさせなくてはならなりません。
そして、結果として生まれてくる「作品」を、「めあて」にそうかたちで、とりあげれば、行事作文といえども、意味をもってくることがあります。
 子どもの作品に「よりそって」読みあうことも、大事なことです。けれどもそこにも、なぜ、その子の作品をとりあげるのか、作品から何を学ばせたいのかを、はっきりしなければなりません。ただ、作品を読ませ、子どもにまかせて気づいたことを、認めあうだけでは、授業とはいえないとおもいます。限られた時間のなかで行われて授業は、意図的計画的な指導であり、「とりたてた指導」でなくてはならないのです。

(2)ねらいに応じたさまざまな授業かたちがあること
文章表現のねらいを、学級の実態に応じて立てることもあるだろうし、また、その学年で育てたい表現力をもとにめあてを立てて、授業を展開する場合もあります。題材の多面化を考えたとき、自由に題材を選ばせ、書いた作品を発表するなかで、取材の範囲を広げていく場合もあります。それとは違って、いくつか題材を紹介し、そのなかから選んで書くようにさせて、だんだんと「作文のタネ」として広げていく方法もあります。
 「自己表現」を大切にする文章表現指導であっても、課題を与えて作文を書くように指導する場合もあります。
のちにくわしくふれることになりますが、「ある日、あるときのことで、自然のなかで夢中になって遊んだことを、したことの順に、よく思い出して書こう」というような指導題目(単元目標)をたてて指導する場合もあります。
その場合、「ある日、あるときのこと」というのは、「対象へのかかわり方」(ここでは、なんどもくりかえしたことでなくあるときのこと、一回限りのことと限定をしている)で、次の、「自然のなかで夢中になって遊んだこと」というのは、今回は、学校生活、家庭生活などに題材を求めるのではなく、野や山や海や川で遊んだことを書こうと、ここでも条件を与えて、範囲をせばめていわけです。
 こうした、課題をあたえ、指導のポイントを明確にして、子どもたちが表現の過程にそって書くことで、「何を」「どんな組み立て」で、「どう書くか」を学ばせることで、文章表現力の基礎をみにつけさせようとしているからです。
また、前回は、題材の面では、課題を与えて書いたので、今回は、書きたい題材を自由に選んで書かせます。そして、生まれた作品を「鑑賞」するなかで、育てたい表現力を定着させる場合もあります。
また、必要に応じて、「書き出し」「会話」「構成の工夫」「描写」について、あるいは「原稿用紙の使い方」についてとりあげて、その点について指導することもあります。
 「自己表現「を重視する作文の指導であっても、限られた授業時間のなかで行われるのですから、そこにねらいがあり、ねらいに応じた様々な授業が展開されなくてはならないのです。ここに教師としての工夫と創造性がもとめられ、また、その授業は、子どもたちの自主性を尊重しながら行われなければならないのです。

次回は、つぎの項目を話します。

(3)授業は教師のはたらきかけを含めた子ども集団の学び合いである

三 「作文の授業」の原則-1

2011-06-28 11:55:38 | Weblog
       子どものうちに育てておきたい心と表現力-④


「言語活動」を重視するなかで、「読むこと」のなかにも、「書く活動」がとりいれられ、話す、聞く」の領域の中でも「書く」ことが生かされています。国語科以外の教科の学習にも。積極的に「書く」ことが取り入れられています。それはとてもいいことだとわたくしも思っています。
 けれどもその書く力、表現力は、どこでどのようにつけられているのでしょう。また、そうした「書く」活動をとりいれたことで、くり返し書かせることで、あたかも文章表現力を育てる「指導」をしたと思い込んでいる人もいるようです。
 書く力・文章表現力は、国語科の「書く」領域で、しっかりとした系統をふまえて、「授業」として展開していかなければならないのではないでしょうか。
 そうした観点にたって、しばらくは、「作文の授業」について考えてみます。(二)では「作文の授業」における10の原則をかんがえてみました。(一)の作文の授業の難しさを、共有しながら、つぎの10項目を読んで、これから私が、とんなことを語りたいのか、今回は、想像してみて下さい。

三「作文の授業」の原則

(一)作文の授業のむずかしさ
(二)「作文の授業」における10の原則
(1)「ねらい」があること
(2)ねらいに応じたさまざまな授業かたちがあること
(3)授業は教師のはたらきかけを含めた子ども集団の学び合いである
(4)やさしいものからむずかしいものへ
(5)学習は積み上げられていく
(6)「実作」が大切である。
(7)「表現意欲」を育てることは何よりも大切にされる
(8)子どもに育てたい内容をもつ
(9) 指導は重点的、分析的、あるいは具体的に行われる
(10)「文章表現過程」の明確化



(一)作文の授業のむずかしさ
 「作文の授業」というとなんだかとてもむずかしいように思う人もいます。教科書には「作文」という言葉があまり登場しなくなったので、そう感じる人もふえてきました。また、作文の授業のむずかしさは、「学習の見通しがたてにくい」という点にもあるといわれてきました。そこには、創造性も求められる「表現」のもつ、特殊性からくるものもあるように思います。次のようなことも、よく指摘されます。

  ・「学級の実態」が、とても大切にされること。
  ・子どもたちにとって、学習のめあてがつかみにくいこと。
  ・教師自身にも、指導の道筋がみていないこと。
  ・学年ごとの指導のねらいが明確になっていないこと。
  ・授業の展開のしかたがわからないこと。

といったことなどが、よくあげられます。
 また、作文教育の実践が語られるとき、子どもの生活や実態の多くが語られ、そこで生まれた作品によって、どのように子どもたちがかわっていったか、どんな子どもに育っていったかということが多く話されます。
 けれども、どのようなめあてのなかで、どのような指導が行われたのか、どんな授業の展開のなかで、その作品が生まれてきたのかあまり話し合われません。一斉指導がどのような形で進められ、それと合わせて個別指導がどうおこなわれたかなどが、なかなか明らかにされません。
 文章表現指導の経過や、指導目標を明らかにしてとりくむことが、文章表現指導を形式的なものにして、表現技術ばかりを教えこむことになると考えたからかもしれません。表現技術の指導に偏っているのではないかという指摘もあるので、その批判をさけていたのかもしれません。もちろんこうした批判には耳をかたむけなければなりません。ここに「自己表現」を重視した文章表現指導のむずかしさがあるともいえます。
 文章表現指導のこうした特殊性にも配慮しつつ具体的な授業の展開を考えたとき、そこにも「授業の原則」としておさえなければならないことがあります。

二 「自己表現」を重視する文章表現指導で育つ力―その2

2011-06-25 18:51:08 | Weblog
         『子どものうちに育てておきたい心と表現力-③』

(三)意欲と経験に着目することで思考力・創造性が育ちます
 さらに、文章表現の指導のめあて(Ⅳ)として次のことをあげています。「ものごとをとらえ、とらえなおす過程と、それを文章に表現する過程とを、きちんとむすびつけたところで、子どもたちの認識諸能力(観察するちから、知覚し認知するちから、記憶し表象するちから、すじみちただしく思考するちから、ゆたかに想像するちからなど)をのばしていくこと。」
 このねらいは、「指導要領」でも、にわかに強調されだした「思考力」「判断力」「表現力」を育てようということと、共通するところといってよいと思います。
このねらいにおいても、「自己表現」をする過程の方が、よりはたらく記憶力、再生的な想像力、あるいは新しいものを生み出す創造力、分析したり総合したりするときにも養われる思考力、あるいは要点をまとめる力、そして表象力といった力が育つのだと考えています。
 脳科学者の茂木健一郎さんは、「創造性」、を生む力を、「ひらめきを生む力は、鍛えることができる。」として次のように書いています。
                        (注)『ひらめきの導火線』(茂木健一郎 PHP新書 2008.9.2)

  「ひらめきとは、前頭葉の意欲と、側頭葉の経験のかけ算である。脳の側頭葉では、意欲や目標意識、やる気がつくら れる。側頭葉には、さまざまな経験が記憶、集積されている。両者がうまく結びついたときに、創造性やひらめきが生ま れるのだ。創造性を高めたければ、意欲と経験を結ぶ回路がうまくつながるようにすればいい」

 こう述べているのです。この「意欲と経験」の回路を結ぶ役割をもっているのが、子ども自身が題材を選んで書く。生活を書く。過去の体験を書くと言うことなのです。
 子ども自身が、書きたいことがらを、自分が考え、感じた事実の何をとりあげながら、どう組み立ててどう展開していくか。書き進めていくか。すなわち事実とのつきあわせ、事実の位置づけ、分析などをしながら書いていく。自分のとらえたことを書く文章であるから、自分らしさを時には追求し、時には試行錯誤するなかでひとまとまりの文章を書く。その過程で、思考力や想像力、論理性が養われていくのです。
 また、「ある日、ある時のこと」を、ものやこととむすびつけて、正確に書いて、読み手によくわかるように書くこと。そして、書いた作品を読み合うことを大切にします。書かれている作品の書き方。書きぶりにふれてそのよさを確かめ合います。そして、こういう書き方ができたのは、そのとき、その場面で、よく目や耳、あるいはこころをはたらかせたから書けたのだということから。いろいろな感覚器官をはたらかせてとらえたからその表現が生まれたことをおさえます。
こうした作品を鑑賞するなかからも、日々の学習や生活の中で感覚をゆたかにはたらかせることの大切さを子どもたちは学んでいくのです。その結果として、観察力、想像力、表象力。思考力、想起力を身につけ創造性ゆたかな子どもを育てることができるのです。

(四)今と未来を生きる子どものための表現活動
 このほかにも、わすれてはならない「書くこと」の大切な側面があります。それは、「社会」が子どもたちにもとめる表現力ではなく、子どもにとって必要な表現力であり、未来に生きる子どものために、子どもの時に育てておきたい表現力です。
 子どもたちは今、自分の気持ちをすなおに表現できる機会を失っている子どもたちが多くいます。子どもたちが感じる、喜怒哀楽を、言葉にして表現する機会を失っていると言われています。そうした子どもが、思いもかけない事件を起こしたりもしています。
 2004四年長崎の佐世保市で起きた小学生六年生の同級生殺害事件は今もなお、記憶の残っていることと思います。この事件を起こした女児の「人格特性」について、長崎家庭裁判所佐世保支部が「審判決定要旨」を公表し、それをまとめて、柳田邦男が次のように述べて、心の未成熟の問題と言語化能力が育っていない問題を指摘しています。

(1)自分のなかにあるあいまいなものを分析し統合して言語化する作業が苦手。
(2)幼少期より、自発的な欲求の表現に乏しく、対人行動は受動的。
   自分の欲求や感情を受けとめてくれる他者がいるという基本的な安心感が希薄で、他者に対する愛着を形成し難い。
愉快な感情は認知し、表現できるが、怒り、寂しさ、悲しさといった不愉快感情は未分化で、適切に処理されないまま抑圧されている。
(3)言葉や文章の一部にとらわれやすく、文章の文脈や作品のメッセージ性を読みとることができない。
   相手の個々の言動から相手の人物像を把握するなど、断片的な出来事から統合されたイメージを形成することが困難。このため、他者の視点に立って、その感情や考えを想像し、共感する力や、他者との間に親密な関係をつくる力が育っていない。
(4)情緒的な分化が進んでおらず、愉快な感情以外の感情表現には乏しい。そのため周囲から、おとなしいが明るい子として評されている。
   怒りを認知しても、感情認知自体の未熟や社会的スキルの低さのために、怒りを適切に処理できずに、怒りを抑圧・回避するか、相手を攻撃して怒りを発散するかという両極端な対処行動しか持ち得ない。同級生から、「怒ると怖い子」と評される。(注 『壊れる日本人』柳田邦夫 新潮社 2005.3.30)

また、子どもたちに必要な観点から「読む力・書く力」とは何かという観点から、「誰でもどこでも通用する貨幣としての知識や技能として、読む・書く力が求められている。」(注)としながらも、次のように述べています。

「しかしもう一方でわすれてはならないのは、言葉は貨幣だけでなく、子ども一人ひとりの「私」を象り、子どもの内面を豊かにし、取りかえ不可能な特定の他者との絆をつくりだしていくという視座である。今大人たちが求めているのは、国際学力テスト競争にも勝てる貨幣としての読む力や書く力かもしれない。しかし子どもたちが真に求めているのは、「私」の内面や言葉をつくり出しているテキスト内容や出来事世界を読む経験であり、語る経験であり、書く経験である。そして、それは、その子どもの言葉を聴き認めてくれる人との絆の間に生まれてくる。(注)それは何を読むか、何を書くかという「内容」にあるのである。連続型、非連続型テキストという形や熟考プロセスや技法だけを取り出した指導ではなく、子どもにとって読むに値する知的興味や心を動かす知恵や思考を含む内容の文章、伝えたい・書く内容に値する内容を表現できる場を準備することで、子どもが求め、子どもたちに必要な、読む力、書く力はついていくのではないだろうか。

 子どもたちに必要な『読む力・書く力』とは何か」(秋田喜代美『児童心理』2007.8 金子書房)
秋田は「四 貨幣としての言葉と「私」の言葉」のなかで、OECDのシュライヒャー氏の国際読書学会でのスピーチの最初の「知識は貨幣である」という言葉を引用しています。
(注)秋田喜代美・黒木秀子(編)『本を通して絆をつむぐ』北大路書房、2006
  
 こうした指摘は、子どもの権利条約にももりこまれている子どもの意見表明権を育てるといった考え方に通じるものです。

 このように、子どもの内面を表現させることの大切さが指摘されています。
こうしたことからも、自己の体験と結びつけ表現する「自己表現」に着目した文章表現の指導が、国語科の授業のなかにしっかりと位置づけられなければならないのです。


二 「自己表現」を重視する文章表現指導で育つ力―その1

2011-06-25 18:37:56 | Weblog
 岡山のみなさん、先日は、私の「作文の授業」―その考え方・進め方―を長い時間きいてくださってありがとうございます。時間が限られていましたので、かんたんに触れた部分が、このブログのページです。             

         『子どものうちに育てておきたい心と表現力ー②』



二 「自己表現」を重視する文章表現指導で育つ力

(一)文章表現指導のねらい
「活動例」として追加した、(1)から(5)から生まれてくる文章を「生活文」とよぶ人もいます。とくに、(2)の「『ある日、あるとき』に起きた出来事で、考え感じたことを文章に書くこと。」をとおして生まれた作品を言う人がいます。
けれども、わたしは、そういうジャンルわけをしてはいません。あとで詳しくふれますが、子どもの表現意欲や興味・関心を大切にし、子ども自らが選ぶ題材と発想に着目した「書くこと」の指導なのです。子どもの成長・発達と、認識をふまえた指導なのです。
また、これを、「何を」、「どんな組み立て」で、「どう書く」か、「どう読みなおす」か。さらには、それを学級集団で「どのように鑑賞するか」という、子どもの文章表現の過程にそった授業を展開することを考えているのです。
生活綴方・作文教育の実践にもとづいた考え方がそこに受け継がれています。そのねらいは、次のとおりです。

  Ⅰ 子どもたちの自然や社会への認識、人間についての理解をひろめふかめ、ただしくゆたかにする。
  Ⅱ 「はじめ」「なか」「おわり」のくみたて・構成をもつところのひとまとまりの質のよい文章をかく能力をのばす   こと。
  Ⅲ みずからが文章をかくという言語活動のなかで、つまり言語の使用のなかで、日本語の発音・文字・単語・文法・   語い・文体などについての自分の知識をたしかめ、とぎすますようにさせること。
  Ⅳ ものごとをとらえ、また、とらえなおす過程と、それを文章に表現する過程とを、きちんとむすびつけたところ    で、子どもたちの認識諸能力(観察するちから、知覚し認知するちから、記憶し表象するちから、すじみちただしく   思考するちから、ゆたかに想像するちからなど)をのばしていくこと。 
                (注 教育文庫・17『つづり方教育について』(国分一太郎 むぎ書房 1985.8)

(二)「もの」と「こと」の結びつきで育つ表現技術・言葉の力
 この「自己表現」を大切にする文章表現指導では、表現技術が育てられないのではと、疑問に思う人もいます。また、じっさいに実践していなかったり、授業を観なかったり、実践記録をていねいに読まないで批判する人もいますが、そんなことはありません。
 「Ⅱ」にも書かれているように、子どもたちの発想にもとづいた「はじめ」「なか」「おわり」のある「ひとまとまりの文章」を書く力を育てます。書く活動では、表現したいこととむすびついた形で、「考えたとおりに書く力」「事実を書く力」「経過を書く力」「説明風に書く力」「事実(根拠)を入れて書く力」が、育ちます。これらの文章表現力が身につくと、手紙もかけるし、報告文や記録文、論説文などもかけるのです。
また、「自己表現」を大切にする文章表現指導では、子どもたち自身に題材を「えらぶ」ことと、「自分のことば」で表現することを大事にします。
 子どもたちは自分の感動や課題を文章におきかえて、客観的にみつめます。表現技術の獲得とあわせて、学習や生活の中にある価値を「書くこと」によって学んでいるのです。
これを、生活のなかにある意味やねうちを学ぶと言いかえたり、認識が深まるといったりもしています。(Ⅰ)で示したねらいはこのことをさします。
 「自分のことば」というのは「自分のものになった言葉」ということで、よく知っている言葉を「えらんで」書くようにさせます。このことの方が、ものやことと結びついた表現ができるのです。ことばを適切に使うことが習慣づけられるのです。文のねじれや、文のみだれがない、すじみちとおった文をつくりだすこができるのです。
 これは(Ⅲ)にも書かれているように、「日本語の発音・文字・単語・文法・語い・文体などについての自分の知識をたしかめ、とぎすます」ことになるのです。ここでもしっかりと、国語科教育のねらいを達成しようとしているのです。
それでは「語い」の力が育たないのではと言う人がいるかもしれません。が、言葉や「語い」の獲得は、国語科教育のもう一つのたいせつな分野である、「読むこと」の活動の中で、文章を詳細によませるなかで「語い」を豊かにするようにするのです。教科学習のなかでも、そこにでてくる言葉をしっかりと身につけさせるようにします。また、日常の会話のなかでも、言葉をゆたかにするように心がけることは言うまでもありません。
 その結果として、身についている「自分のことば」をつかって文章を書くようにさせるのです。こうした考えを大事にしながら文章表現活動をさせるのです。するとインターネットや本で調べたことを、そのまま写した文章を書くようにはならないのです。

一 子どものうちに経験させたい「言語活動」

2011-06-17 04:42:44 | Weblog
子どものうちにそだてておきたい心と表現力-①


一 子どものうちに経験させたい「言語活動」
(一)指導要領にある「言語活動例」
 新しく告示された学習指導要領の「国語」科の「各学年の目標及び内容」を読むと、これから小・中学校の国語科で、どのような文章表現指導が行われようとしているかがよくわかります。
 もっともよくわかるのが「言語活動例」として示されているところです。
 小学校の〔第1学年及び第2学年〕では、「2内容 B書くこと」の(1)で、書くことの指導事項がかかれています。その次に(2)として「(1)に示す事項については、例えば、次のような言語活動を通して指導するものとする。」と書かれています。

  ア 想像したことなどを文章に書くこと。
  イ 経験したことを報告する文章や観察したことを記録する文章などを書くこと。
  ウ 身近な事物を簡単に説明する文章などを書くこと。
  エ 紹介したいことをメモにまとめたり、文章に書いたりすること。
  オ 伝えたいことを簡単な手紙に書くこと。

 解説(平成20年8月)では、こう説明しています。
アは、想像したことを文章に書く言語活動として、「想像したことなどから、登場人物を決め、簡単なお話を書いたり、見たことや経験して感じたことを詩の形式で書いたりする。物語の内容について、書き加えたり、書き換えたり、続きを書 いたりするなどの活動も考えられる。」ということなどが書かれています。

イは、報告や記録の文章を書く言語活動例であるとしています。「経験したこと」を「報告する文章を書くときには、報告する相手を明確に設定するとともに、報告することの目的に沿って内容や文章構成を工夫することが必要となる。「観察 したこと」を記録するためには、「観察したことや観察して感じたことなどを、その場で確実に記録していくことが必要 になる。対象としては、低学年では、身近な自然の観察や、飼育、栽培している動植物などの観察が考えられる。」と書 かれています。

ウは、説明する文章を書く活動だと述べています。説明する「身近な事物」の「特徴に沿って、説明する順序を考えなが ら、形状や様子、動きなどを簡単に文章に書くことである。」としています。

エは、紹介したいことをメモや文章にまとめる活動だとしています。児童は、「人物や遊び、施設、本、絵など、日常生 活の中に紹介したいことを多く持っている。」そこでこれらを活用して、紹介のためのメモや文章を書くようにするこ  とが考えられると言うのです。

オは、実用的な文章を書く活動だと言うのです。「手紙を書く学習では、相手を明確にして伝えたり、返事をもらったりという交流を重視する必要がある。」といっています。低学年では、「形式を重んじることよりも、短い文や伝言でもよい ので、書いた手紙で交流する楽しさを感じとらせるようにすることが大切である。」とも書かれています。

(二)加えたい「言語活動例」
長い引用になってしまいましたが、新しい教科書は、この例示にそって作られていくことになります。
これをお読みになったかたがたはどう思われますか。たしかに、どれも大切なことのように思える、そう思われたかたもいらっしゃるでしょう。21世紀がいわゆる「知識基盤方社会」の時代であると言われていることから、必要なことなのだと納得された方もあると思います。

 その一方で、なんだか、一人ひとりの子どもの意欲や関心とかけはなれたことを求められていると感じた方もいらっしゃるのではないかと思います。育てたい大事な力とは思えるけれど、どこか、子どもの成長・発達を考えないで、「実用的」にという言葉も使われているように、社会で求められているものがそのまま、小学校や中学校におりてきてしまっているのではないか、そんなふうに思う人がいるのではないでしょうか。
 小学校や中学校では、もっと子どもの成長・発達にそって、言葉の獲得、文字の獲得、ものやことと結びつけた「書くこと」の指導をしていきたい。子どもの表現意欲や発想とむすびつけながら、子どもが表現することの喜びを感じとれるような文章を書かせたい。

 こう思っているかたが、多いのではないかと思います。わたしも、この点が抜けているように思うのです。
あるいは、どの学校でも、どの教師もだいじなことだと思っておこなわれているから、あえて「指導要領」では示さないというのでしょうか。

 それはともかくとして、子どもたちが、「日々の生活のなかでとらえたこと、考え感じたことを表現する」ことは、子どものこころをひらき、自立をうながすとともに、子どものときにこそさせたい表現活動なのです。子どもの成長・発達を考慮に入れて、今と未来を生きる子どものための文章表現力を育てることになるのです。
 この「自己表現力」を育てる指導を、国語科のなかにしっかりと位置づけなくてはならないと思います。
そのために、小学校の低学年から中学校にかけての「書くこと」指導のなかに、(「指導要領」にそって言うならば、)次のような「言語活動」を、くりかえし取り入れていくことが必要です。

(1)話したいこと(知らせたいこと・思ったこと)を、そのとおりに書くこと。
(2)「ある日、あるとき」に起きた出来事で、考え感じたことを文章に書くこと。
(3)「何日もつづいたこと」を、時間の経過にそってとらえて、文章に書くこと。
(4)「いつもあること」くりかえし経験していることを説明するように文章に書くこと。
(5)「いつもあること」くりかえし経験していることを、事実を入れて説明するように書くこと。

*この「言語活動」で、そのような文章が書かれるか、そのためにどのような具体的な指導が必要かについては『作文指導のコツ① 低学年』『作文指導のコツ② 中学年』『作文指導のコツ③ 高学年』(田中定幸著 子どもの未来社)等をご覧ください。

 こういった活動の中から育ってくる表現力を「文章表現の基礎・基本」とおさえるのです。そしてこれこそが、「子どものうちに育てておきたい文章表現力」なのです。

おなじようなことをかいているね

2011-06-09 19:39:43 | Weblog
  “単元学習”ぎらい=遠山啓氏

 まだ“水道方式”を提唱されないことだったろう。遠山先生とわたくしたちは、“単元学習“ぎらいということで、いつも考えが一致していた。数学教育では、やお屋さんごっこ、さかな屋さんごっこがはやるし、国語教育では、話すこと・聞くこと・読むこと・書くことをゴチャマゼにしたような授業がはやる。それをたがいに困ったことだろうと考えていたのだった。
(中略)
 こうして遠山先生とわたくしは“単元学習”ぎらいで共鳴し、そのあと顔をあわせさえすれば、そのような話しあいをした。それからあとでは、“単元学習”批判のことにかぎらず、教育問題についての意見が一致するようにもなった。あのえらい先生に、いまとなってあやかるつもりで、こんなことを告白するのではないが、ときどき遠山先生から、わたくしは、“おなじようなことをかいてるね”といわれたりした。たがいに雑誌などに書くものが似ているというわけだった。
 くだって日教組から委託された教育制度検討委員会で、わたくしたちは教育内容面をよけいに担当したが、そのとき、わたくしは遠山先生の“総合学習”論をおおいに支持した。その“総合学習”論は、いわゆる合科教授とか生活科的学習などではなく、各教科学習での達成を生かして、ひとつのテーマに各せまらせようとするものだった。だからこれは中学校とか高等学校でのしごとということになる。おたがいの“単元学習”ぎらいは、やみくもにきらいなのではなく、はるかに教育的指導がすすんだときには、もっと別な意味でいかされる、できもしない幼少な子に総合的な勉強などさせるべきではない。こういうことであったのかもしれない。そういえば、遠山先生ほど、その思想・文化・教育にわたって、“総合学習”考察をした学者はまれなのかもしれぬと思う。(以下略)

 国分一太郎が、〈遠山啓氏追悼〉として『数学教室』(1980年3月)に書いた、その一部である。今。この文章を読んで、心を動かすのは、以下のような文章を書いたり話したりしているからかもしれない。


ーーあらためて国語教育の「領域」(構造)を考えるーー

 文学作品や説明的な文章を読むことのなかでことばのきまりの指導を行うだけでは、日本語の力が身につかないということの反省から、文法をとりたてて、時間をとって、一定の順序性に立って教えなければならないものとして「言語の体系的指導(日本語そのものの教育)」の柱を立てた。それと同時に、もう一つの柱としては「日本語をもちいてする諸活動」の教育を考えた。そして、この「言語活動」には「つづり方(作文)教育」「読み方教育」「話し言葉の指導」が含まれ、「言語の体系的な指導」のなかには、「文字」「言語」の指導が位置づけられた。
 そして、教科構造として「言語の教育」と「言語活動の教育」を基本構造として、それぞれの内容を明らかにしてその教育が進展するにつれて、両者が関連しあい結び合って教育の実をあげることを実践の上で明らかにした。
また、「言語活動の教育」の中においても、「つづり方教育」「読み方教育」(読み方教育においては、〈科学的説明文の読み、文学作品の読み〉、「音声言語」(である話しことばの指導)のそれぞれの特徴をとらえ、子どもの発達と意欲、そして、具体的な授業展開と、その目標達成について、きめこまかな配慮をして、実践を展開するように心がけてきた。
実用的で、社会に役立つ言語力を求める立場に立ち、「読むことから書く」というように、教科構造あるいは「内容」への配慮を欠いた「領域」を超えての、過度の「言語活動」の導入は、「国語科」にとっては、大きな問題である。また、「国語科」で学んだ言語の力が、他教科のなかで発揮する力とはなりえないのではないだろうか。
日本語教育の本質を問い直すこととあわせて、それぞれの領域で、めざすものは何か、どのような学習展開によって、それが可能になっているのかを明らかにしなくてはならない。

 えらいお二人の先生にあやかるつもりはないが、――「おなじことをかいているね」とは言われないまでも、――棒線の部分と重なることを、国語科・日本語の指導においてもいえるのではないかと、心配している。

  *「“単元学習”ぎらい=遠山啓氏」は『人のこと本のこと』〈国分一太郎文集8・新評論〉に収録されている。


書くこと・見つめること・生きること

2011-06-04 04:27:32 | Weblog
                                     主催・神奈川県作文の会・会長・田中定幸
                                               事務局長・内田 光生
                               連絡先・携帯090-9811-3888 ℡.FAX 046-873-4339                

神奈川県作文教育研究大会の御案内


 今年の第60回全国作文教育研究大会(日本作文の会主催)は、7月29日(金)~31日(日)に東京で開かれます。東京大会の応援もかねて、6月に研究会を計画しました。
 講演をお願いした森朋子先生は、東京作文教育協議会の事務局メーバーで、開催の準備に今奔走されています。詩集『町田の子』の編集委員として活躍され、実践を「クレスコ」や「作文と教育」にも多数発表しています。毎年、“森トラベラーズ”を企画し、若い先生をたくさん誘い、作文の全国大へ引率されるバイタリティ溢れる方です。昨年担任した3年生の「たいへんだった子どもたち」の関わりの日々を元気いっぱい報告してくださる予定です。
分科会は以下の内容です。知り合いの方、同じ職場の方にも声をかけて、ぜひご参加下さい。

一 日 時 2011年6月5日(日)10時より
二 場 所 藤沢労働会館(YAHOO!JAPAN・住所で検索してください。
三 日 程  9:45 受付 10:00 開会
10:30~12:00 

講演「作文教室・わたしをふるいたたせるもの」
            ―書くこと・読み合うことを大事にしながらー
                      森 朋子先生(町田市立町田第一小学校)

13:00~14:30 報告 「作文教育を支えに歩んだ39年間」
                                     小澤みつ江(秦野作文の会)
    ◇教職39年に悔いなし。その充実感は、作文教育に出会い、作文教育に惹かれ、作文教育とともに歩んだことの証、一枚文詩集がもたらしてくれるものでした。一枚文詩集は私の教員生活そのものであり宝物です。つたない実践ではありますが報告します。

14:40~16:10 報告 国分一太郎に学ぶ教師の「心得」「授業の基本」
                                           田中定幸(横須賀作文の会)
    ◇「国分一太郎生誕100年」のこの年、改めて国分一太郎から学びたいと思います。

四 参加費 500円(当日資料代として)
五 年会費 2.000円(会員の方は年会費の納入をお願いします)
六 このチラシを増す刷りして、知り合いの方をさそってください。
■会終了後 会員総会(会員の方は、お残りください。)

 絵に ことばをそえる

2011-06-04 03:43:35 | Weblog
  「おはなし」を絵と文でかきましょう

 文字の学習がすすんでくると、絵の中に出てくる人の名前をいれたり、話した言葉を書き入れたりもする子が増えてくる。そこで、絵をかいたあとに、習った文字をつかってことばをそえてかくようにする。「絵と文でかきましょう」という授業を組んでみる。
 教育出版の教科書ではこれが「教材化」されている。
 ここでのおさえの大切なところは、毎日の生活の中にある心にのこった出来事は、絵でも文にでも、表現することができるということである。
 そして、表現する場合には、一つの場面として描かれた絵のように、一つのことがらについてとらえたことを、この時期では書けばよいということである。
 この時期の子どもたちは絵をかくのがすきだ。「お絵かき」といってよろこんでかく。お話も、一つのことをくわしく話せるようにもなっていく。

 
   えと ぶんで かきました


 まだ もじの べんきょうは おわっていないのですが こまかい まちがいは きに しないで えと ぶんで おはなしを かきました。

     へんな むし

  だんごろむしみたいな
  むしがいたの
  だんごむしよりながかった。つかむと
  くろいしろいみたいのを
  だした。 ぼくつかんだの。
  しげながけいくんも
  つかんだの。
  ぼくより
  しげながけい
  くんが
  ながく
  つかんで
  たの。
  そしてなす          絵 略
  とかが
  うえてるとこ
  いったの。
       なかお ゆうすけ
  6月18日金ようび



    おおあめが  ふった
 
 七がつ五かは、おおあめでした。よこすかの ひがしの ほうに ある つくいがわでは、はしが ながされるほど すごい ものでした。
 そこで、くる ときの ようすを えと ぶんで かくことに しました。

     たいふう
  きょう 
  がっこうまで
  えりちゃんの
  おじいちゃんに
  がっこうまで
  おくって            絵 略
  きてもらったの。がっこうの
  みずたまりにはいったの。
  それでがっこうの
  みずたまりは
  ふかかったの。
          つまぬま さおり
     7月5日


                                   ーーいいなあーー
 

「ひらがな」という便利な文字

2011-06-01 22:20:45 | Weblog
ツルピカ先生とゆかいな仲間40人の作文教室

子どもたちに、ツルピカ先生は、こんなふうに『作文指導のコツ』―①②③―と3冊出しているけれど、この本に書いたことの奥に、もっと大事なことがある。
文章を書くときに、いちばん大事なコツ・原則を、ツルピカ先生が尊敬する国分一太郎先生はこう書いているといって、板書した。

――「ありがたいことであった。わたしたちの祖先は、わたしたちのために、「****」「****」という便利な{もの}をつくっておいてくださった――。

さて、****には何がはいりますかときいてみた。
「鉛筆。」
「紙」
なるほどそういうふうにも考えることができる。でも、国分一太郎はそういうふうには書いてない、
「漢字。」
いいとこ、いってるなあ。
「文字。」
「文字。」と言うコトバは、実は「もの」という所に入っている。

――「ありがたいことであった。わたしたちの祖先は、わたしたちのために、「****」「****」という便利な文字をつくっておいてくださった――。

さあ、「****」「****」にはいるものは。
「ひらがな」と「カタカナ」
あたり。

 このことを、こころのなかに大事にしまっておいてほしい。――「ひらがな」と「カタカナ」を知っているみなさんだから――書きたいことを、「ひらがな」と「カタカナ」をつかって書けば「作文」が書けるということを、とこう話した。
 だからといって、このことを十分に理解は出来ないだろう。
 けれども、作文は、正直に、素直に、自分がとらえた「こと」「もの」といっしょに思ったこと、考えたことを自分のつかいなれたコトバで書けばよいという「安心感」を持たせたいと思ったからだ。
 
 国分一太郎先生は、〈「ひらがな」という便利な文字〉という小見出しのあとに、次のように書いている。

ありがたいことであった。わたしたちの祖先は、わたしたちのために、「カタカナ」「ひらがな」という便利な文字をつくっておいてくださった。
 「かな」は、一文字が一音をあらわすので、その文字を知っておれば、そして、話したいことがありさえすれば、「ぶん」をつづけることができる。「文章」をつづることができる。それがやさしくできる。

                         《『文章表現指導入門』国分一太郎著・明治図書》