ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
神奈川県作文の会
綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

「横須賀・逗子」作文の会のご案内

2017-03-21 15:15:02 | Weblog

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綴方理論研究会 会報「はじける芽」②

2017-03-14 10:37:58 | Weblog

「はじける芽」には、添田さんが紹介してくれた写真も工藤さんが送ってくれました。その写真もここで紹介させていただきます。

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綴方理論研究会 会報「はじける芽」

2017-03-13 21:31:52 | Weblog

          綴方理論研究会 3月例会のご案内

  ■日時 2017年3月18日(土)PM1時~5時 

  ■場所 駒場住区センター 目黒区駒場1-22-4

    *京王井の頭線・駒場東大前下車。改札前12時45分に集合。

                        

◇講義 「とつおいつ90」(乙部武志さん)

 

◇提案 「日本の児童詩教育のはじまり」

     国分一太郎・学芸大学特別講義「生活綴方と昭和国語教育史」より

     第6回講義(1984.7.11)の前半部分(田中定幸さん)

 

 *資料は、前もって読んでおくと分かりやすいと思いますということで、田中さんにメールをすると、資料を添付ファイルにして送ってくれることになっています。

 

  ★ 2月例会の報告

 

  ◆講義・「とつおいつ89」乙部武志さん)

(1)NHKのテレビ番組なのですが、土曜日の午前11:30~午前11:54の時間帯に、『目撃!日本列島』という番組があります。24分間という長さですが、毎回、面白いテーマが取り上げられて、放送されているみたいです。2月例会のあった2月25日(土)は、「悩んで、もがいて、生きて~私たちの“二十歳の原点”~」という題で放送があり、乙部先生は、それを見てきたとのこと。二十歳の頃というのは、誰にとっても、熱い想いを抱いていたり、様々な悩みを抱えていたりする時期でもあっただろうと話されていました。『二十歳の原点』という本、私は、知りませんでした。鉄道自殺をした京都の立命館大学の学生(高野悦子)の日記だそうです。自殺をしたのは、1969年の6月24日。京都市内の国鉄山陰線に身を投じて亡くなっています。高野悦子の二十歳の誕生日(1969年1月2日)から6月22日までの日記(この2日後に自殺しているわけです)が、2年後の1971年に、新潮社から『二十歳の原点』として出版されました。今年(2017年)は、出版から46年だそうですが、今年1月には54度目の増刷があり、今でもかなり人気があるようです。25日のNHKの放送は、「ナゼこの本が読み継がれているのか」がテーマだったようです。高野悦子が自殺をした1969年は、私も二十歳でした(私の場合は12月になってですが)。乙部先生が、この本を購入して読んでいらしたというのを聞いて、すごい読書家だったのだなあと改めて思いました。

(2)『四年生の作文教育 -年間計画とその実践- 』の紹介がありました。1973年(昭和44年)百合出版から出版されたものです。一年生から六年生までのものが出版されており、その後、この6冊に続くように様々な本が出版されていったらしく、この時期、日本作文の会がすごく充実していた時期だったのではないかなと感じました。表紙を見て、わたし自身、何年生かのものを持っていた記憶があるのですが、もう残っていません。四年生のものを乙部先生が執筆していたなどというのは全く知りませんでした。出版当時、乙部先生、44歳です。この本の「あとがき」のコピーを下さいましたので、載せておきます。

 

《ここから》 ――――――――――――――――――――――――

 

           あとがき

 教師の備えなければならない資質は何か? と問われたら、ためらうことなく「創造性」と答える。

 教師が、創造性をなくしたときは、すでに、教師としての最低条件を喪失したことになる。創造力が枯渇したときに、教師の仕事ぶりはどうなるか。言うまでもなく、それまでの備蓄をはき出す以外にはない。そのたくわえがどんどん減っていくときに、受け持たれた子どもたちの不幸は、測り知れないものがある。教育とは創造だからである。

 もちろん、教育には文化遺産の継承という重要な側面もある。これを否定するつもりはないが、ここでいう「継承」とは、単なる引き継ぎではない。ましてや、うけうり(「うけうり」に傍点が打ってある:記録者)にであっていいはずはない。

 ところで、自らを顧みて、はたして、この「創造性」が備わっているであろうか。 恥ずかしいことだが、今までの教師生活は、先輩の遺した偉大な足跡を、ただ、なぞってきたに過ぎない。特に、「作文教育」については、ひたすらに、教えてもらい、まねをさせてもらい、危っかしい足どりで、歩いてきたような気がする。そこには、独創というものが、ひとかけらもなかったような気がする。すなわち、自分自身では、精一杯の知恵をしぼって、これこそは、独創と気張ってみたり、こんどこそは、だれもやらなかった方法だと気負ってみることもあるが、結局は、いつか、どこかで吸収したことを、いささかアレンジして出しているに過ぎないということである。

 本書をまとめるにあたって、必ずしも、満足できない作文教育の現状を、少しでも、開拓、進展させることに役立てたいと思いつつ筆を進めてきた。大部分は、 (本文中にも説明したように)現在勤務している多聞小学校での実践であり、その記録も新しいものばかりである。今までの実践を総まとめし、現時点でのトータルとして、多くの批判を仰ぎたいとの考えもないではなかったが、理論的な面は稀薄になっても具体的な実践を多く提示することのほうがいいと思いなおし、最近のことを中心に述べた。創造性の有無は読者諸兄の判断にまちたい。

 読み返してみて、不備だらけである。とくに、自然や社会のことについてつづらせたことについての実践や、教科の学習で得た知識を、書くしごとをとおして血肉化し、定着させることについては、 一章をおこして述べるべきであったと思っている。さらに、年間計画についても、詳述しなければならなかったし、文集づくりのための技法についても、もっと、たくさんの項目を入れるべきだったと反省している。

 前述したように、多くの先輩の実践に学びながら、その足跡をなぞるのみの教師生活ではあるけれども、そして、恥多き実践ではあるけれども、これからも、「作文教育」の道を一途に進んでいくであろう。すでに、「作文」を抜きにした教育は考えられないほど、「作文」は、ぼくのからだの中にずっしりとした重さを占めている。「作文」のしごとをとおして、教育を考えるようになったし、子どもを考えるようになった。生活綴方こそ、ぼくの教師生活の支えといってよい。 だから、日本作文の会に所属していることが、大きな幸せであり、また、誇りでもある。生活綴方に育てられて、今日を迎えられたのである。

 本書が世に出ることになったのは、ひとえに日本作文の会の会員諸兄姉のおかげである。もちろん、多くの作品を使わせてもらった子どもたちにも感謝しなければならない。

 最後に、ぼくにとっては、初めての単独著作である本書を刊行する機会を与えてくださった百合出版の後藤彦十郎氏をはじめ、やっかいな原稿整理でお世話になった編集部の皆さんに厚くお礼を申し上げたい。

    一九七三年六月    

                           乙 部 武 志

《ここまで》――――――――――――――――――――――――――――――――

 

(3)『解放教育』1991年7月の臨時増刊号(No.276)に関するお話がありました。

「生活つづり方の継承と発展 --国分一太郎追悼のひとつの里程として--」という題がついています。国分先生が亡くなられてから6年目、7回忌の年、「国分一太郎の遺志を継承発展させるために」ということで、この臨時増刊号が出されました。

 二部構成になっていて、第一部では、そうそうたるメンバーの文章。『生活綴方と解放教育』(鈴木祥蔵)、『兄上・またこぶし忌が巡って参りました』(国分正三郎)、『生活綴方の「ファーブル」がわれわれに遺した課題』(乙部武志)他。

 第二部は、子どもたちの作品集。こんな詩を見つけました。

 

  からっぽの背中

 井上 弘子(津山 北陵中 三年)

なあ、みんな

集会のときに整列するじゃろう/ いっつもあの子の後ろからだけ/ 列がとぎれるんで / いっつも いっつもで/ おかしかろう

早う並んでんや/ ほら 始まった/ あたし 違うで あんたじゃが/ 違うでえ/ あんたじゃ/ いやじゃあ 臭いもん

もう やめてや/ みんな/ あの子は聞いとんで/ 何も言わんで/ ただ聞いとんで

どんな顔して立っとるか/ 見てみんちゃい/ なんにも言えんようになるで/ ズンとくるで/ 汚い 臭い/ 気持ち悪い/ 言われてうれしがる人がどこにおる/ 汚いのは洗えばええんじゃろ/ 不満があるんならはっきり言ってあげればええ/ クラスメートじゃもん/ 気持ち悪い 悪くないは主観の違い/ そうじゃろ?

あの子/ ぜったい/ 絶対にふりむかん/ いつも/ いつもギュッと口を結んで前を見すえとるだけじゃ/ けど/ あの子の背中が胸をつく/ そばにおるだけで/ あたしの心は痛いなあ/ そんなにあたしらはバカなんか?/ あの子の気持ち/わかってやれんほどに……

(岡山県教組『おか山っ子』より)

 

(4)「とつおいつ」終了後の話し合いで、添田さんから、2点、発言。①1982年

 10月の『作文と教育』に、乙部先生が豊田正子について書いている文章を見つけた。見つけたばかりでまだ読んでいないのだけれども、次回コピーして持ってこれそうとのこと。

②『解放教育』のタイトルの中に「里程」という言葉が使われていることに関連、豊田正子の作品は、国分一太郎の生活綴方運動にとって、里程標だった面があるのではないか。自分のやってきた生活綴方運動はどうだったのか、豊田正子の作品を通じて考えていくということを国分先生は考えていたのではないかと思うと発言。

(5)添田さんの発言に対して、乙部先生から、①国分一太郎は、豊田正子をぜんぜん否定していなかった。②それだけでなく、豊田正子が成人してから書いたものなどについても、きちんと読んでいたという話がありました。

 

◆報告:文学雑誌「人民文学」時代の豊田正子―作品「さえぎられた光」の生成過程―

その二(添田 直人さん・豊田正子を愛する会) 

 1950(昭和25)年11月の『人民文学』創刊号に、豊田正子は小説『眞夜中の爆音』を書いています。空襲の劫火の中で死んでいった下の弟のこと。上官が豪華な食事をしているのに、ろくな食事も供されず「栄養不足がたたって乾した蛙のようにやせて」死んでいった海軍整備兵の上の弟のこと。戦後になって、この戦争は負けると思っていた等居直る「自由主義者」や「インテリ」たちの狡さ、欺瞞性。そういった、さまざまな矛盾や不正義に対する怒りを、豊田正子自身は、書ききれないことに気がついていきます。短編であったこともあるのでしょうか。

 添田さんから興味深い話。西沢隆二が、国分一太郎に、鈴木三重吉祭をやるべきだと言いだした話は、『いつまで青い渋柿ぞ』の「11 ヨウシュヤマゴボウ」に詳しいのですが、この西沢隆二、『人民文学』を創刊するのに係わった人だったらしいとのこと。推定ですとの断わりがありましたが、豊田正子を指導した大木顕一郎、その指導者である鈴木三重吉はすばらしいと考える西沢隆二ですから、豊田正子を編集委員として呼ぼうと考えたのはこの人だった可能性があると思うとのこと。

 ところが、編集委員となり、自身、小説を書いていく正子なのですが、“『綴方教室』の豊田正子”のままでは、「書けない」、このままでは弟たち二人の死に対する悲しみ、怒りといったものを「書けない」と、豊田正子は考えていったようです。そして、10年後。1960年(昭和35年)、『さえぎられた光』(『傷ついたハト』理論社・所収)が発表されます。資料として配られたものを読むだけでも『眞夜中の爆音』とはまったく違った筆致。正子の認識の変化、書きぶりの変化をどう分析することが大切なのかなと思います。弟たちがどのようにして死んでいったのか、自分たちはどうあるべきだったのか。『さえぎられた光』の中の母親の語りが印象的。二人の息子を失った悲しみ、怒りがひしひしと伝わってきます。

 『赤い鳥』綴方と生活綴方の違いに関して、前回も今回も話に出ましたが、添田さんが資料として配った『いつまで青い渋柿ぞ』の「11 ヨウシュヤマゴボウ」。私は、これを読んでストンときました。『生活綴方ノートⅡ』でも、「『綴方教室』と『山びこ学校』」と題した部分でかなり厳しい書き方で国分一太郎がその違いを論じていて、まるで西沢隆二に向かって書いているような印象を受けたと添田さんは話していました。それを聞いていて、何としても手に入れたいと思って調べてみたのですが、『実践生活綴方ノートⅠ、Ⅱ』は手に入るのですが、『生活綴方ノートⅡ』の方は、古書店では「扱っていない」としか出てきませんでした。

◆報告の後の話し合いで出たこと 

(1)豊田正子の3、4年の頃の作品、たいへんよく書けているが、大木顕一郎の指導の仕方はどういうものだったのかという質問。戦後に出された『綴方のふるさと』という豊田正子の作品の中に、大木顕一郎がどのように綴方の指導や授業をしたのかに関する記述があるとのこと。子どもたちの書いた作品をくりかえし書き直しをさせ、でき上がった作品を謄写刷りして配り、みんなで読み合う。正子の作品もそのようにして紹介され、書いてある中身についてみんなから質問を出させ、正子がそれに答えるなど、そういう授業が行われていたようです。さらに、『赤い鳥』の作品の読み聞かせも行われ、どう書けばいいのか、どう書き直していけばいいのかなどが分かるように指導が行われていたみたいです。(2)『赤い鳥』に載った豊田正子の作品の改作の問題。そのことが分かった事情に関する質問。様々な経緯、事情があったようです。「改作」に関するいろいろな研究者たちの評価は、定まっていないよう。教育的配慮と言っていいのかどうか。時代背景から言って「仕方がない」ものだったのかどうか。明らかに「いきすぎ」だったのかどうか。(3)「綴方」と「作文」の概念、どう違うのかということに関して、いろいろな話が出ました。明治の初めは、「作文」という言葉が使われていたこと。明治33年の小学校令の改正で、国語科の中に、「綴方」が設けられたこと。「綴る」という言葉に関連して、「綴字」、「編綴」、「範文模倣期」等々。「作文」から「綴方」、「赤い鳥」綴方、生活綴り方(前期と後期)など、明治期、大正期、昭和期と、「綴方教育」がどのように行われていたのか(それぞれの時期、子どもたちの書いていた文章は、どのようなものだったのか。時間割はあったのか等)分かっているようで分かっていないことが多いのを痛感しました。(4)田中さんから2点、要望。①大木顕一郎や鈴木三重吉によって「展開的記叙」(展開的過去形表現)の指導を受けた豊田正子。文学作品を書くようになれば、ある日のことだけでなく、時には、長い間にわたることも書かなければならなくなるし、説明的な文章も入れなければならなくなる。豊田正子も、もしかしたら作品のどこかで、「脱皮」しているようなところがあるのではないか。作品が大きく変化したとか、題材が全体をとらえていて、いつも考えている、感じていることはこうなんだというふうに書いている、そういう作品があったら教えてほしい。②大木顕一郎か鈴木三重吉のどちらが書いていたのか、今はっきりしないのだけど、文章を書かせる時、短い間のできごとを書かせるということを書いていた。自分の実践面でも、遠足のことを書く時など、朝から晩までのことではなく、遠足の中の一コマを選んで書くようにさせてきた。そういったあたり、二人がどのように書いているか、分かったら教えてほしい。(5)司会の高橋朱美さんのまとめ!「田中さんから、新しい宿題が出されました。」次回すぐでなくて結構です。添田さん、またどうぞよろしく。

                                        (文責:工藤 哲)

・充実した研究会でしたね。工藤さん、お忙しい中、まとめありがとうございます。また、添田さん2回にわたって豊田正子にふれてお話しいただき、ありがとうございました。

 次回の提案、がんばります写真、このあと添付できたら、付け加えます。(田中定幸)

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綴方理論研究会 2月例会のご案内

2017-02-23 14:44:37 | Weblog

「はじける芽」理論研究会 2月例会のご案内

 

 日時 2017年2月25日(土)PM1時~5時 

 場所 駒場住区センター 目黒区駒場1-22-4

       *京王井の頭線・駒場東大前下車。改札前12時45分に集合。

                        

◇講義 「とつおいつ89」(乙部武志さん)

 

◇提案  文学雑誌「人民文学」時代の豊田正子

―作品「さえぎられた光」の生成過程―  (前回の続き) 

(添田 直人さん・豊田正子を愛する会)

1月例会参加の方は、前回の資料を持ってきてください

 

★ 1月例会の報告

《事務連絡》

(1)山形の国分恵太さんから、榎本さん、田中さん宛てに資料が送られてきたとのこと。山形新聞の記事で、昨年の12月4日(日)、11  日(日)、18日(日)と、3回にわたって国分一太郎が取り上げられています(「やまがた再発見―国分一太郎」)。筆者は、児童文学者の鈴木実さん。山形新聞は、地域で広く読まれている新聞なので、国分一太郎が改めて取り上げられたことは喜ばしいですと榎本さん。その新聞の記事をコピーして、配ってくださいました。

(2)榎本さんのところに、日本作文の会常任委員会の委員長名で(?)ハガキが届いていたとのこと。『作文と教育』の購読者数が「危機的状況」なので、購読者を、各人あと一名でも増やして欲しいという訴え。(中略)

 なぜ、こんなふうに減っていったのか。機関誌の中でもそう、研究会などでも、系統案に基づいた指導の実践報告などが組織的に否定され、自由な議論が保証されなくなっていったことに対し、きちんとした総括もなしに増やして欲しいでは、広めるつもりにならないというのが榎本さんの弁。日色さんもずっといい続けてきましたが、機関誌「廃刊」などとなったら、どうするのでしょう。

◆講義・「とつおいつ88」乙部武志さん)

*乙部先生からご指摘がありました。前回の12月例会「とつおいつ87」の報告の中で、誤記載をしてしまいました。訂正をお願いします。

《 ②国土社の社長からの依頼で、国分一太郎、寒川道夫、倉沢栄吉等の監修(?)によって出されていた月刊雑誌『国語の教育』。 》 → 寒川道夫ではなく、滑川道夫の間違いでした。ちなみに、この時には、寒川道夫はすでになくなっていたとのことでした。

(1) 「とつおいつ」の冒頭で、一冊の冊子の紹介がありました。1985(昭和60)年8月27日付けのもの。北原白秋の門下として著名な、童謡で鳴らした巽聖歌。百合出版の社長を務め、縁の下の力持ちのようにして日本作文の会を助け、運営に当たった後藤彦十郎。国分一太郎曰く、「死ぬまで委員長」だと言われ続けてきた今井誉次郎。『山芋』の寒川道夫。それと国分一太郎。この五人の先生方を偲んでということで、記念の講演会が開かれ、その時の様子をまとめたのが、この冊子だとのこと。この冊子の中に、「野名竜二」という名前が出て来ます(系統案について反対する急先鋒のようになっていく人物、後に、田宮輝夫、野名竜二の「田宮野名論争」として、名前を馳せていく人物)。この人物の名が出ており、そういう人物が主催、追悼の講演会を開いた形になっていることが紹介されました。乙部先生からは、冊子の中身に関して詳しく説明があったのですが、資料に語ってもらいます。資料(1)、資料(2)をじっくりご覧ください。

(2)現在、日本作文の会の機関誌『作文と教育』にSOSの火が灯っているということと関連させて、戦後の日本作文の会、始動の頃の話が出ました。日本作文の会の常任委員の人たちには、民間側(民間教育団体側)人たちと官製側(文部省寄り)の人たちが混在していたとのこと。革新的なことが旗印といってもいいような日本作文の会に、なぜ官製側(文部省寄り)と言われるような人たちがいたのか?この頃は、文部省も少しはまともだったということなのでしょうか。三笠宮を顧問に迎える算段をしたのは「知恵者」の国分一太郎だったとのことでした。官製側の人たちとして名が挙がっていた人物としては、倉沢栄吉。滑川道夫の名も挙げられていました。滑川道夫は、秋田の成田忠久のもとで北方教育に直接たずさわった人物なのですが、結局は、官製側という烙印を押されるようになっていったとのこと。官製側、民間側、根っこの部分は全く違っているというのは否めない事実だけれども、お互い同士、罵りあいながらも、同じ団体で研究を続けていた時期があったということは、ひじょうに面白いことですとのことでした。

(3)「吉沢久美子」さんという、成田忠久さんの娘さんからの手紙の紹介がありました。

 1989(平成元)年6月29日の消印。この方、乙部先生が杉並区浜田山小学校に勤めていた時に、その学区域にお住まいだったとのこと。その吉沢久美子さんが、どうして便りをくれることになったのか?榎本さんが関係しているようです。墨田区の東向島というところに、吉沢久美子さんの妹さんが住んでいて、第九の合唱をするメンバーだったということ。同じ第九のメンバーの一人だったのでしょうか、「養護教諭」の方という言い方が出ていました。おそらくこの養護の先生と榎本さんが知り合いだったのでしょうか。たぶんそんなことから、吉沢久美子さんが書いた手記、父成田忠久を語る、みたいな手記が、乙部先生の手に入ることになったみたいです。そういった事情があり、乙部先生と吉沢久美子さんの間で交流が始まったようです。

 成田忠久氏のことも、話に出てきました。九段小学校を会場に、東京作文の会の会合を持っていたそうですが、成田忠久氏が中央公論社の編集の仕事をしていた関係で、中央公論社の社員の人の案内で、研究会にいらしてくださったそうです。その後も、いろいろとご援助いただいたとのことでした。私などにとっては、伝説上の人物みたいな方ですが、そんな方と身近に接する機会を持っておられた乙部先生がうらやましいなあと思います。(4)もう一冊、『文集について』という冊子、資料(3)の紹介がありました。国分一太郎は、全国行脚という形で、作文教育、生活綴方の普及ということに頑張っていらしたのですが、文集というものの大事さということを考えて、新書版がはやり始めた頃、新書版の冊子を自費で作って、無償で配ったのだそうです。何かの機会に、欲しい人がいたら配ってくださいということで、その冊子を10冊くらい乙部先生にくださったそうです。国分一太郎は、具体的に教師にどういうことを要求していたか、どういうことをしてもらいたいと考えていたのか、そういったことが分かる冊子ですとのことでした。

 

◆報告:文学雑誌「人民文学」時代の豊田正子―作品「さえぎられた光」の生成過程―

(添田 直人さん・豊田正子を愛する会) 

. 冒頭

 榎本さんが配った3枚の資料の「下」の部分にある記述を取り上げて話がスタートしました。記述部分を下に要約します。

《国分は49年9月から「教育新報」に、連載論文「生活綴方の復興と前進のために」を執筆し始めている。51年2月になり、それが「新しい綴方教室」という書名となって刊行された。刊行する際、テーマとした「生活綴方の復興と前進のために」を国分はなぜ改題したのだろうか。あえて「綴方教室」という、鈴木三重吉の「赤い鳥」綴方教育の実践によりなった書名(「綴方教室」)を使ったのは、なぜなのだろうか。》 

 鈴木実さんがそのように問題を投げかけているけれども、これへの回答が、実は今日、話そうと考えていた内容なのです、という説明がありました。

. 資料(7点)について

①文学雑誌『人民文学』時代の豊田正子、という表題のついたレジュメ。ご友人の勧めで、雑誌『労働者文学』に、400字詰め原稿用紙×50枚の評論を書いたばかりで、その中身に沿って、レジュメが作られているとのこと。②年表が2枚。「出来事」「年齢」「豊田正子」「執筆作品」の項で作成されており、豊田正子誕生から死去までを表にしたもの。12月例会の時に、田中定幸さんが国分一太郎の年譜を作ってきて紹介、国分一太郎について考えていく上で大変分かりやすいと好評でしたが、添田さん作成の年表も、大変分かりやすいものでした。③山田とき著『路ひとすじ』からの抜粋で、「おばあさんの手紙」。④岩波文庫『新編 綴方教室』から、豊田正子10歳の時の作品「自転車」の全文と大木顕一郎の指導記録の部分をコピーしたもの。⑤国分一太郎文集8「ひとのこと本のこと」より、「豊田正子『綴方教室』」の部分をコピーしたもの。⑥国分一太郎著『いつまで青い渋柿ぞ』より、「11 ヨウシュヤマゴボウ」の部分のコピー。⑦『人民文学』(1951年1月号)の「読者だより」のコピー(国会図書館でコピーしてきたもの)。裏面に、最近復刻版が出たとのことで、それからのコピー。⑧『人民文学』(1950年11月の創刊号)に豊田正子が出した作品「真夜中の爆音」全文のコピー。⑨豊田正子の作品「さえぎられた光」の中から、上の弟、稔の部隊葬の部分等をコピーしたもの。 添田さんからは、途中5分間の休憩を取りましたが、1時間半強、お話をいただきました。まとめきれませんので、最後の方に、レジュメのみ、資料(4)として掲載いたします。

 

Ⅲ 印象に残ったこと、いくつか

(1) 豊田正子は、1922(大正11)年に生まれて2010(平成22)年に亡くなっているのですが、関東大震災の前年に生まれて、東日本大震災の前年に亡くなっているという紹介。さらに、1945(昭和20)年の敗戦の年は、正子23歳。この年代、一番亡くなった人たちの多い年代だったらしいのです。弟たち二人、『綴方教室』に、「稔」(上の弟)、「光男」(下の弟)として出ている二人の弟たちの名前。厚木飛行場の整備兵をやっていた上の弟は、19歳で、「餓死状態」でなくなっており、下の弟(本所で、住み込みの労働者だった)も45年3月の東京大空襲で行方不明になっています。戦争に、大きく影響を受けた人だったようです。

(2) 1950年代はどういう時代だったのか(レジュメの4の部分)に関して、古井由吉の言葉を紹介。「1950年代に10代後半の自殺者が多かった」のはなぜなのかを分析しています。戦前の教育の影響と敗戦による価値観の崩壊を経験した若者たちが、絶望の中、多く自殺していったのではないか。添田さんは、統計などでこのあたりきちんと確認されているようです。(3)『人民文学』の「読者だより」(復刻版)に空蘭部分があり、「この箇所は、著作権の了解が得られなかったため収録できなかった(不二出版)」とあり、執筆者が(東京都墨田区 早乙女勝元)とあるので、どういう内容だったのか、国会図書館まで調べに行ったとのこと。中身は、豊田正子のことが書かれており、特に「著作権」云々というほどのことでもないので、経緯を知るために、早乙女勝元にTEL。会ってもらったそうです。何かの手違いがあったみたいです。この「読者だより」を早乙女勝元が原稿を書いた当時は、早乙女18歳(正子29歳)。関係ありませんが、私は、この時、2歳かな。いずれにしても、国会図書館まで出かけていき調べたり、早乙女勝元にアポを取ったり等、添田さんの行動力、研究姿勢には、頭が下がります。(4)今回は、時間の関係で取り上げることができませんでしたが、「さえぎられた光」を読んでいくと、「ファシズム軍隊の暴力と階級制度」(「眞夜中の爆音」)に対する正子、父親、母親たちの憤りがひしひしとが伝わってくるのを感じました。名作だと思います。北海道の古書店に購入依頼をしましたが、25日(土)までに届くかどうか……。(文責:工藤)

 

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「横須賀・逗子」作文の会 2月例会のご案内

2017-02-07 16:21:31 | Weblog

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「横須賀・逗子」作文の会 1月例会のご案内

2017-01-12 18:15:02 | Weblog

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「はじける芽」綴方理論研究会 1月例会のご案内

2017-01-11 13:20:59 | Weblog

          「はじける芽」 綴方理論研究会 1月例会のご案内

 

  日時 2017年1月15日(日)PM1時~5時 

  場所 駒場住区センター 目黒区駒場1-22-4

           *京王井の頭線・駒場東大前下車。改札前12時45分に集合。

 

◇講義 「とつおいつ88」(乙部武志さん)

 

◇提案  文学雑誌「人民文学」時代の豊田正子

       ―作品「さえぎられた光」の生成過程― 

       (添田 直人さん・豊田正子を愛する会)

 

 ◆講義・「とつおいつ87」乙部武志さん)

(1)最初に紹介があったのは、東根市を会場に開かれた、日本作文の会の第11回作文教育研究大会の話。この頃の大会の資料が大事に保管されていて、それをもとに、どのような大会だったのか話がありました。東京からは、30名ほどが参加。参加者名簿によれば、「埼玉県」に桐山久吉さんの名前。もちろん東京には、乙部先生の名前も。

(2)「啄木」について書かなかったことが悔やまれてならないという国分一太郎のつぶやき。国分一太郎と啄木がどのような関係にあったのか、追究しなければならないことがたくさん残っている。山田亨二郎さんが巣鴨での研究会でいくつか資料を残していった。そういった資料を見ていたら、国分一太郎が啄木に毒されたみたいとでもいうか、啄木が念頭にあったのだなということが本当によく分かった。

(3)『綴方指導読本』の紹介。表紙のローマ字表記に、啄木が表れている。「昭和11.9.長瀞小学校綴方研究部編」となっているが、国分一太郎の作成したもの。あるいは東海林隆さんが手伝っているかもしれない。裏は、「第11回作文教育研究会 会場 山形県東根市の 記念として」となっている。山形の先生たちが、この日の記念に復刻したものだろう(写真を入れておきますので、ご覧ください)。

(4)『石をもて追われるごとく』(国分一太郎編)の編集後記として、「この40年、あとがきにかえて」という国分一太郎の文章が載っている。読んでいくと、国分一太郎が「悔しくて、悔しくて」と口でつぶやいていただけでなく、「この40年、あとがきにかえて」の中にそのことが書かれていることに気がついた。砂田周蔵によって書かせられた、たくさんの調書の原本。戦後になって、研究のためにということで借りていった相手が紛失してしまったということ。よっぽど悔しかったことだと思う。『小学教師たちの有罪』に自分の本当の調書を載せたかったに違いない。

(5)『石をもて追われるごとく』という表題。これは、石川啄木の歌の一部。いかに啄木に傾倒していたかが分かる。(6)恵まれた教師生活を送ることができた(時代がそういう時代だった)として、いくつか紹介がありました。①執筆を任されて2冊、出版物を出すことができたこと。②国土社の社長からの依頼で、国分一太郎、寒川道夫、倉沢栄吉等の監修(?)によって出されていた月刊雑誌『国語の教育』。これのNo.52号。詩に関する座談会で司会という大役を任せられたという話。③知りませんでした!「お母さんの勉強室」というNHKのテレビ番組に出ていらっしゃったとのこと。その放送台本なども見せていただきました。

(6)東根市のあすなろ書店の店主、村田民雄さんの著書『書業無情』の「家系訪問」の話。面白い本。改めてじっくり読んでいきたい。


◆報告:国分一太郎・学芸大学第6回講義後半「生活綴り方教育に対する文部省の弾圧

         ―生活主義運動に対する文部省の弾圧―について(田中 定幸さん) 

 1943年(昭和18年)8月発行の司法省刑事局発行の『生活主義教育運動について』。同年9月発行の文部省教学局の『生活主義教育運動の概観』。この二つの極秘文書は、タイアップしながら、生活綴方教育にたずさわる教師たち(学者・研究者)への弾圧(司法弾圧、行政処分の弾圧)のためのバイブルのようにして使われていく(使われてきた)、そのへんの事情がよく分かりました。国分一太郎の指導した文集「もんぺの弟」や「生活勉強・綴方教室進行過程」まで資料として出てくる。1940年(昭和15年)の山形から始まった弾圧の資料や北海道の綴方連盟事件に関わる資料、その他、多くの地域で実践された綴方作品なども、「反国家的な教育思想」に基づくものとして収められているようです。

 第6回講義では、国分一太郎は『生活主義教育運動の概観』をもとに、この文書がどういった内容のものなのか、目次にそって丁寧に説明を続けています。説明されている中身を見ていくと、この頃の生活綴方教育に関して、実に周到に権力側からの分析がなされていることに驚いてしまいます。分析の仕方が綿密というか、半端じゃない。それなら少しくらいまともな結論に行き着くのかというとそうはならず、《このような教育を行なうことは「コミンテルン及ビ日本共産党ノ目的遂行ノ為ニスル行為」であり、治安維持法違反で有罪である》となっていくのですから不思議でなりません。

 国分先生が触れられなかった部分、「生活主義綴方教育の内容 」という部分を田中さんが引用しているのですが、ここなど全くその通り。

《 以上のごときプロレタリア教育方法論として生活主義綴方教育の教育方法には次のような配慮がなされている。即ち、

 第一、生産的労働運動場面に取材させる事である。……

 第二、批判精神の啓培である。……

 第三、意欲性ないし強靱な行動性の啓培である。……

 第四、協働性の涵養である。……

 第五、労働参加を強調し、これを奨励する事である。……

 第六、レアリズムの手法にのっとり長文を綴らせる事である。……

 第七、新課題主義の採用である。……

 第八、児童の心理の発達段階に即した指導が為されること事である。…… 》

 このあたりの分析は精緻そのものといっていいように思うのですが、最後に出てくる結論は、結局、このような指導を採用しているのは、「階級闘争を遂行する上においても必要」であり、「共産主義社会においても必要な性格であるから」だ、となるのです(この強引さ、何か某政権の論理と酷似している?)。

 この文書の執筆者に関連して「伏見猛彌」(今で言う「御用学者」?)の名が出ていましたが、『小学教師たちの有罪』と比べながら読んでみてそうなのかなと思うのですが、この『生活主義教育運動の概観』がまとめられていく出発点のあたりで、「砂田周蔵」の関わりがあるようです。

 田中さんが「国分一太郎年譜」を作ってきました。「国分の足跡」を縦軸をとしてしっかりとらえていく。それと一緒に、その時の「国分の実践・論文等」、「綴方教育界の動き」、「社会の動き 他」等を横軸として関連をとらえていくようにすると、問題のありかが分かりやすいのではないかとのことでした。また『小学教師たちの有罪』の話になってしまいますが、P231に、「治安維持法が公布された年、1925年は、わたくしが、師範学校令改正により、新規入学した年であり…」という記述があります。「国分の足跡」と「社会の動き 他」という観点でこのようなあたりも押さえてみると、やっぱり分かりやすいですね。自分たちで、このような年譜に、書きこみをして活用していくようにすれば、勉強しやすくなると思います。

 今回、添田直人さんの参加がありました。いらしていただいて早々で申しわけないのですけれど、お願いをして、1月例会では、豊田正子について語っていただくということになりました。楽しみです。

 

                              (文責:工藤 哲)

 研究会は、どなたでも参加できます。初めて参加される方は、当日、井の頭線「駒場東大前」駅、渋谷方面の改札を出たところにお出でいただくか、あるいは事前に046-873-4339田中までご連絡ください。

 

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明けましておめでとうございます。

2017-01-11 12:42:58 | Weblog

明けましておめでとうございます。

本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

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「横須賀・逗子」作文の会 12月例会のご案内

2016-12-12 19:03:52 | Weblog

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綴方理論研究会 12月例会のご案内

2016-12-07 23:04:04 | Weblog

初めての方も、どうぞお気軽にご参加ください。お問い合わせは、090-9811-3888でも結構です。

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