ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
神奈川県作文の会
綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

綴方理論研究会 2月例会のご案内

2017-02-23 14:44:37 | Weblog

「はじける芽」理論研究会 2月例会のご案内

 

 日時 2017年2月25日(土)PM1時~5時 

 場所 駒場住区センター 目黒区駒場1-22-4

       *京王井の頭線・駒場東大前下車。改札前12時45分に集合。

                        

◇講義 「とつおいつ89」(乙部武志さん)

 

◇提案  文学雑誌「人民文学」時代の豊田正子

―作品「さえぎられた光」の生成過程―  (前回の続き) 

(添田 直人さん・豊田正子を愛する会)

1月例会参加の方は、前回の資料を持ってきてください

 

★ 1月例会の報告

《事務連絡》

(1)山形の国分恵太さんから、榎本さん、田中さん宛てに資料が送られてきたとのこと。山形新聞の記事で、昨年の12月4日(日)、11  日(日)、18日(日)と、3回にわたって国分一太郎が取り上げられています(「やまがた再発見―国分一太郎」)。筆者は、児童文学者の鈴木実さん。山形新聞は、地域で広く読まれている新聞なので、国分一太郎が改めて取り上げられたことは喜ばしいですと榎本さん。その新聞の記事をコピーして、配ってくださいました。

(2)榎本さんのところに、日本作文の会常任委員会の委員長名で(?)ハガキが届いていたとのこと。『作文と教育』の購読者数が「危機的状況」なので、購読者を、各人あと一名でも増やして欲しいという訴え。(中略)

 なぜ、こんなふうに減っていったのか。機関誌の中でもそう、研究会などでも、系統案に基づいた指導の実践報告などが組織的に否定され、自由な議論が保証されなくなっていったことに対し、きちんとした総括もなしに増やして欲しいでは、広めるつもりにならないというのが榎本さんの弁。日色さんもずっといい続けてきましたが、機関誌「廃刊」などとなったら、どうするのでしょう。

◆講義・「とつおいつ88」乙部武志さん)

*乙部先生からご指摘がありました。前回の12月例会「とつおいつ87」の報告の中で、誤記載をしてしまいました。訂正をお願いします。

《 ②国土社の社長からの依頼で、国分一太郎、寒川道夫、倉沢栄吉等の監修(?)によって出されていた月刊雑誌『国語の教育』。 》 → 寒川道夫ではなく、滑川道夫の間違いでした。ちなみに、この時には、寒川道夫はすでになくなっていたとのことでした。

(1) 「とつおいつ」の冒頭で、一冊の冊子の紹介がありました。1985(昭和60)年8月27日付けのもの。北原白秋の門下として著名な、童謡で鳴らした巽聖歌。百合出版の社長を務め、縁の下の力持ちのようにして日本作文の会を助け、運営に当たった後藤彦十郎。国分一太郎曰く、「死ぬまで委員長」だと言われ続けてきた今井誉次郎。『山芋』の寒川道夫。それと国分一太郎。この五人の先生方を偲んでということで、記念の講演会が開かれ、その時の様子をまとめたのが、この冊子だとのこと。この冊子の中に、「野名竜二」という名前が出て来ます(系統案について反対する急先鋒のようになっていく人物、後に、田宮輝夫、野名竜二の「田宮野名論争」として、名前を馳せていく人物)。この人物の名が出ており、そういう人物が主催、追悼の講演会を開いた形になっていることが紹介されました。乙部先生からは、冊子の中身に関して詳しく説明があったのですが、資料に語ってもらいます。資料(1)、資料(2)をじっくりご覧ください。

(2)現在、日本作文の会の機関誌『作文と教育』にSOSの火が灯っているということと関連させて、戦後の日本作文の会、始動の頃の話が出ました。日本作文の会の常任委員の人たちには、民間側(民間教育団体側)人たちと官製側(文部省寄り)の人たちが混在していたとのこと。革新的なことが旗印といってもいいような日本作文の会に、なぜ官製側(文部省寄り)と言われるような人たちがいたのか?この頃は、文部省も少しはまともだったということなのでしょうか。三笠宮を顧問に迎える算段をしたのは「知恵者」の国分一太郎だったとのことでした。官製側の人たちとして名が挙がっていた人物としては、倉沢栄吉。滑川道夫の名も挙げられていました。滑川道夫は、秋田の成田忠久のもとで北方教育に直接たずさわった人物なのですが、結局は、官製側という烙印を押されるようになっていったとのこと。官製側、民間側、根っこの部分は全く違っているというのは否めない事実だけれども、お互い同士、罵りあいながらも、同じ団体で研究を続けていた時期があったということは、ひじょうに面白いことですとのことでした。

(3)「吉沢久美子」さんという、成田忠久さんの娘さんからの手紙の紹介がありました。

 1989(平成元)年6月29日の消印。この方、乙部先生が杉並区浜田山小学校に勤めていた時に、その学区域にお住まいだったとのこと。その吉沢久美子さんが、どうして便りをくれることになったのか?榎本さんが関係しているようです。墨田区の東向島というところに、吉沢久美子さんの妹さんが住んでいて、第九の合唱をするメンバーだったということ。同じ第九のメンバーの一人だったのでしょうか、「養護教諭」の方という言い方が出ていました。おそらくこの養護の先生と榎本さんが知り合いだったのでしょうか。たぶんそんなことから、吉沢久美子さんが書いた手記、父成田忠久を語る、みたいな手記が、乙部先生の手に入ることになったみたいです。そういった事情があり、乙部先生と吉沢久美子さんの間で交流が始まったようです。

 成田忠久氏のことも、話に出てきました。九段小学校を会場に、東京作文の会の会合を持っていたそうですが、成田忠久氏が中央公論社の編集の仕事をしていた関係で、中央公論社の社員の人の案内で、研究会にいらしてくださったそうです。その後も、いろいろとご援助いただいたとのことでした。私などにとっては、伝説上の人物みたいな方ですが、そんな方と身近に接する機会を持っておられた乙部先生がうらやましいなあと思います。(4)もう一冊、『文集について』という冊子、資料(3)の紹介がありました。国分一太郎は、全国行脚という形で、作文教育、生活綴方の普及ということに頑張っていらしたのですが、文集というものの大事さということを考えて、新書版がはやり始めた頃、新書版の冊子を自費で作って、無償で配ったのだそうです。何かの機会に、欲しい人がいたら配ってくださいということで、その冊子を10冊くらい乙部先生にくださったそうです。国分一太郎は、具体的に教師にどういうことを要求していたか、どういうことをしてもらいたいと考えていたのか、そういったことが分かる冊子ですとのことでした。

 

◆報告:文学雑誌「人民文学」時代の豊田正子―作品「さえぎられた光」の生成過程―

(添田 直人さん・豊田正子を愛する会) 

. 冒頭

 榎本さんが配った3枚の資料の「下」の部分にある記述を取り上げて話がスタートしました。記述部分を下に要約します。

《国分は49年9月から「教育新報」に、連載論文「生活綴方の復興と前進のために」を執筆し始めている。51年2月になり、それが「新しい綴方教室」という書名となって刊行された。刊行する際、テーマとした「生活綴方の復興と前進のために」を国分はなぜ改題したのだろうか。あえて「綴方教室」という、鈴木三重吉の「赤い鳥」綴方教育の実践によりなった書名(「綴方教室」)を使ったのは、なぜなのだろうか。》 

 鈴木実さんがそのように問題を投げかけているけれども、これへの回答が、実は今日、話そうと考えていた内容なのです、という説明がありました。

. 資料(7点)について

①文学雑誌『人民文学』時代の豊田正子、という表題のついたレジュメ。ご友人の勧めで、雑誌『労働者文学』に、400字詰め原稿用紙×50枚の評論を書いたばかりで、その中身に沿って、レジュメが作られているとのこと。②年表が2枚。「出来事」「年齢」「豊田正子」「執筆作品」の項で作成されており、豊田正子誕生から死去までを表にしたもの。12月例会の時に、田中定幸さんが国分一太郎の年譜を作ってきて紹介、国分一太郎について考えていく上で大変分かりやすいと好評でしたが、添田さん作成の年表も、大変分かりやすいものでした。③山田とき著『路ひとすじ』からの抜粋で、「おばあさんの手紙」。④岩波文庫『新編 綴方教室』から、豊田正子10歳の時の作品「自転車」の全文と大木顕一郎の指導記録の部分をコピーしたもの。⑤国分一太郎文集8「ひとのこと本のこと」より、「豊田正子『綴方教室』」の部分をコピーしたもの。⑥国分一太郎著『いつまで青い渋柿ぞ』より、「11 ヨウシュヤマゴボウ」の部分のコピー。⑦『人民文学』(1951年1月号)の「読者だより」のコピー(国会図書館でコピーしてきたもの)。裏面に、最近復刻版が出たとのことで、それからのコピー。⑧『人民文学』(1950年11月の創刊号)に豊田正子が出した作品「真夜中の爆音」全文のコピー。⑨豊田正子の作品「さえぎられた光」の中から、上の弟、稔の部隊葬の部分等をコピーしたもの。 添田さんからは、途中5分間の休憩を取りましたが、1時間半強、お話をいただきました。まとめきれませんので、最後の方に、レジュメのみ、資料(4)として掲載いたします。

 

Ⅲ 印象に残ったこと、いくつか

(1) 豊田正子は、1922(大正11)年に生まれて2010(平成22)年に亡くなっているのですが、関東大震災の前年に生まれて、東日本大震災の前年に亡くなっているという紹介。さらに、1945(昭和20)年の敗戦の年は、正子23歳。この年代、一番亡くなった人たちの多い年代だったらしいのです。弟たち二人、『綴方教室』に、「稔」(上の弟)、「光男」(下の弟)として出ている二人の弟たちの名前。厚木飛行場の整備兵をやっていた上の弟は、19歳で、「餓死状態」でなくなっており、下の弟(本所で、住み込みの労働者だった)も45年3月の東京大空襲で行方不明になっています。戦争に、大きく影響を受けた人だったようです。

(2) 1950年代はどういう時代だったのか(レジュメの4の部分)に関して、古井由吉の言葉を紹介。「1950年代に10代後半の自殺者が多かった」のはなぜなのかを分析しています。戦前の教育の影響と敗戦による価値観の崩壊を経験した若者たちが、絶望の中、多く自殺していったのではないか。添田さんは、統計などでこのあたりきちんと確認されているようです。(3)『人民文学』の「読者だより」(復刻版)に空蘭部分があり、「この箇所は、著作権の了解が得られなかったため収録できなかった(不二出版)」とあり、執筆者が(東京都墨田区 早乙女勝元)とあるので、どういう内容だったのか、国会図書館まで調べに行ったとのこと。中身は、豊田正子のことが書かれており、特に「著作権」云々というほどのことでもないので、経緯を知るために、早乙女勝元にTEL。会ってもらったそうです。何かの手違いがあったみたいです。この「読者だより」を早乙女勝元が原稿を書いた当時は、早乙女18歳(正子29歳)。関係ありませんが、私は、この時、2歳かな。いずれにしても、国会図書館まで出かけていき調べたり、早乙女勝元にアポを取ったり等、添田さんの行動力、研究姿勢には、頭が下がります。(4)今回は、時間の関係で取り上げることができませんでしたが、「さえぎられた光」を読んでいくと、「ファシズム軍隊の暴力と階級制度」(「眞夜中の爆音」)に対する正子、父親、母親たちの憤りがひしひしとが伝わってくるのを感じました。名作だと思います。北海道の古書店に購入依頼をしましたが、25日(土)までに届くかどうか……。(文責:工藤)

 

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「横須賀・逗子」作文の会 2月例会のご案内

2017-02-07 16:21:31 | Weblog

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「横須賀・逗子」作文の会 1月例会のご案内

2017-01-12 18:15:02 | Weblog

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「はじける芽」綴方理論研究会 1月例会のご案内

2017-01-11 13:20:59 | Weblog

          「はじける芽」 綴方理論研究会 1月例会のご案内

 

  日時 2017年1月15日(日)PM1時~5時 

  場所 駒場住区センター 目黒区駒場1-22-4

           *京王井の頭線・駒場東大前下車。改札前12時45分に集合。

 

◇講義 「とつおいつ88」(乙部武志さん)

 

◇提案  文学雑誌「人民文学」時代の豊田正子

       ―作品「さえぎられた光」の生成過程― 

       (添田 直人さん・豊田正子を愛する会)

 

 ◆講義・「とつおいつ87」乙部武志さん)

(1)最初に紹介があったのは、東根市を会場に開かれた、日本作文の会の第11回作文教育研究大会の話。この頃の大会の資料が大事に保管されていて、それをもとに、どのような大会だったのか話がありました。東京からは、30名ほどが参加。参加者名簿によれば、「埼玉県」に桐山久吉さんの名前。もちろん東京には、乙部先生の名前も。

(2)「啄木」について書かなかったことが悔やまれてならないという国分一太郎のつぶやき。国分一太郎と啄木がどのような関係にあったのか、追究しなければならないことがたくさん残っている。山田亨二郎さんが巣鴨での研究会でいくつか資料を残していった。そういった資料を見ていたら、国分一太郎が啄木に毒されたみたいとでもいうか、啄木が念頭にあったのだなということが本当によく分かった。

(3)『綴方指導読本』の紹介。表紙のローマ字表記に、啄木が表れている。「昭和11.9.長瀞小学校綴方研究部編」となっているが、国分一太郎の作成したもの。あるいは東海林隆さんが手伝っているかもしれない。裏は、「第11回作文教育研究会 会場 山形県東根市の 記念として」となっている。山形の先生たちが、この日の記念に復刻したものだろう(写真を入れておきますので、ご覧ください)。

(4)『石をもて追われるごとく』(国分一太郎編)の編集後記として、「この40年、あとがきにかえて」という国分一太郎の文章が載っている。読んでいくと、国分一太郎が「悔しくて、悔しくて」と口でつぶやいていただけでなく、「この40年、あとがきにかえて」の中にそのことが書かれていることに気がついた。砂田周蔵によって書かせられた、たくさんの調書の原本。戦後になって、研究のためにということで借りていった相手が紛失してしまったということ。よっぽど悔しかったことだと思う。『小学教師たちの有罪』に自分の本当の調書を載せたかったに違いない。

(5)『石をもて追われるごとく』という表題。これは、石川啄木の歌の一部。いかに啄木に傾倒していたかが分かる。(6)恵まれた教師生活を送ることができた(時代がそういう時代だった)として、いくつか紹介がありました。①執筆を任されて2冊、出版物を出すことができたこと。②国土社の社長からの依頼で、国分一太郎、寒川道夫、倉沢栄吉等の監修(?)によって出されていた月刊雑誌『国語の教育』。これのNo.52号。詩に関する座談会で司会という大役を任せられたという話。③知りませんでした!「お母さんの勉強室」というNHKのテレビ番組に出ていらっしゃったとのこと。その放送台本なども見せていただきました。

(6)東根市のあすなろ書店の店主、村田民雄さんの著書『書業無情』の「家系訪問」の話。面白い本。改めてじっくり読んでいきたい。


◆報告:国分一太郎・学芸大学第6回講義後半「生活綴り方教育に対する文部省の弾圧

         ―生活主義運動に対する文部省の弾圧―について(田中 定幸さん) 

 1943年(昭和18年)8月発行の司法省刑事局発行の『生活主義教育運動について』。同年9月発行の文部省教学局の『生活主義教育運動の概観』。この二つの極秘文書は、タイアップしながら、生活綴方教育にたずさわる教師たち(学者・研究者)への弾圧(司法弾圧、行政処分の弾圧)のためのバイブルのようにして使われていく(使われてきた)、そのへんの事情がよく分かりました。国分一太郎の指導した文集「もんぺの弟」や「生活勉強・綴方教室進行過程」まで資料として出てくる。1940年(昭和15年)の山形から始まった弾圧の資料や北海道の綴方連盟事件に関わる資料、その他、多くの地域で実践された綴方作品なども、「反国家的な教育思想」に基づくものとして収められているようです。

 第6回講義では、国分一太郎は『生活主義教育運動の概観』をもとに、この文書がどういった内容のものなのか、目次にそって丁寧に説明を続けています。説明されている中身を見ていくと、この頃の生活綴方教育に関して、実に周到に権力側からの分析がなされていることに驚いてしまいます。分析の仕方が綿密というか、半端じゃない。それなら少しくらいまともな結論に行き着くのかというとそうはならず、《このような教育を行なうことは「コミンテルン及ビ日本共産党ノ目的遂行ノ為ニスル行為」であり、治安維持法違反で有罪である》となっていくのですから不思議でなりません。

 国分先生が触れられなかった部分、「生活主義綴方教育の内容 」という部分を田中さんが引用しているのですが、ここなど全くその通り。

《 以上のごときプロレタリア教育方法論として生活主義綴方教育の教育方法には次のような配慮がなされている。即ち、

 第一、生産的労働運動場面に取材させる事である。……

 第二、批判精神の啓培である。……

 第三、意欲性ないし強靱な行動性の啓培である。……

 第四、協働性の涵養である。……

 第五、労働参加を強調し、これを奨励する事である。……

 第六、レアリズムの手法にのっとり長文を綴らせる事である。……

 第七、新課題主義の採用である。……

 第八、児童の心理の発達段階に即した指導が為されること事である。…… 》

 このあたりの分析は精緻そのものといっていいように思うのですが、最後に出てくる結論は、結局、このような指導を採用しているのは、「階級闘争を遂行する上においても必要」であり、「共産主義社会においても必要な性格であるから」だ、となるのです(この強引さ、何か某政権の論理と酷似している?)。

 この文書の執筆者に関連して「伏見猛彌」(今で言う「御用学者」?)の名が出ていましたが、『小学教師たちの有罪』と比べながら読んでみてそうなのかなと思うのですが、この『生活主義教育運動の概観』がまとめられていく出発点のあたりで、「砂田周蔵」の関わりがあるようです。

 田中さんが「国分一太郎年譜」を作ってきました。「国分の足跡」を縦軸をとしてしっかりとらえていく。それと一緒に、その時の「国分の実践・論文等」、「綴方教育界の動き」、「社会の動き 他」等を横軸として関連をとらえていくようにすると、問題のありかが分かりやすいのではないかとのことでした。また『小学教師たちの有罪』の話になってしまいますが、P231に、「治安維持法が公布された年、1925年は、わたくしが、師範学校令改正により、新規入学した年であり…」という記述があります。「国分の足跡」と「社会の動き 他」という観点でこのようなあたりも押さえてみると、やっぱり分かりやすいですね。自分たちで、このような年譜に、書きこみをして活用していくようにすれば、勉強しやすくなると思います。

 今回、添田直人さんの参加がありました。いらしていただいて早々で申しわけないのですけれど、お願いをして、1月例会では、豊田正子について語っていただくということになりました。楽しみです。

 

                              (文責:工藤 哲)

 研究会は、どなたでも参加できます。初めて参加される方は、当日、井の頭線「駒場東大前」駅、渋谷方面の改札を出たところにお出でいただくか、あるいは事前に046-873-4339田中までご連絡ください。

 

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明けましておめでとうございます。

2017-01-11 12:42:58 | Weblog

明けましておめでとうございます。

本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

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「横須賀・逗子」作文の会 12月例会のご案内

2016-12-12 19:03:52 | Weblog

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綴方理論研究会 12月例会のご案内

2016-12-07 23:04:04 | Weblog

初めての方も、どうぞお気軽にご参加ください。お問い合わせは、090-9811-3888でも結構です。

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第6回豊田正子記念フォーラムのご案内②

2016-11-27 18:43:13 | Weblog

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第6回豊田正子記念フォーラムのご案内①

2016-11-27 18:40:00 | Weblog

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「北に向かいし枝なりき」 国分一太郎「教育」と「文学」研究会「会報13号」より⑦

2016-11-17 16:20:09 | Weblog

同じく20日の研究会で

〈資料紹介〉国分一太郎文集「生活の跡」考

 

 

についてふれてくださる山田恭二郎さんの文章をご紹介します。

「はらいたい人、たな米などくなず」

                              山 田 亨二郎

                                                 (国分一太郎・こぶしの会)

 国分一太郎は長瀞小学校勤務の8年間で、16冊の文集をつくっている。うちわけは「がつご」3冊、「もんぺ」5冊、「もんぺの弟」8冊の16冊で、現在「もんぺ」の一号だけが欠本になっている。

 ズーズー先生とはどんな先生だったのだろうか、『国分一太郎文集』全10巻をはじめ、多くの資料が残されてはいるが、その割には読まれてはいないようだ。長瀞小学校には有形文化財指定の想画と国分学級の教師と児童との濃密な関係を知ることのできる、文集のすべての現物と、資料収蔵室にはそのコピーと一部の現物が蒐されている。

生存している教え子も少なくなり、直接実像にせまる機会もなくなり、残された資料を丁寧に読み解く方法しかなくなってしまった。

 以下は「もんぺの弟」1号に記された、「五月二日の日記から」の全文である。

 五月二日の日記から

  もんぺのお父っあ   

 齋藤恵一がひさしく休んだので、今日は見舞いにいった。自てん車をふんでいく松沢道は白かった。その日は健吾も休んだ。「はらいたいど」とだれかがおしへた。

 地ぞう様の所へいくと、もうみんながあそんでゐて、その中に健吾も遊んでゐた。はらいたくて学校をやすんだ健吾が、ひるまでなほって、大きなふくべんをさげて、たな米をぽろぽろと地ぞう様のえんにこぼしながら食べてゐた。「ケンゴ、ナホタガ」とゆふと、いつものぽかんとしたかほで「ナホタ」といふのである。「明日からこいな」といふと、「ん」といった。「はらいたい人、たな米などくなず」といったら、だまってたな米のふくべんにふたをした。

    ×

 恵一の家にいったら、家はがらんとあいてゐてだれもゐない。馬にるすをさせてだれもゐない。家の中は明るい。

 馬がまぐさをくってゐる。僕が入っていくとまやのすみの方にいって、しゅうと小便をした。

「恵一」とよんでも家の中はひそっとしてゐる。恵一はねむってるかもしれないと思って又戸の口にもどって来た。しゃくやくの芽が赤くでてゐる。ともてからとって来たらしいあさづきが戸の口になげてあって、「晴雨の友」とかいたかさが入口にひっかかってゐる。

 家をぐるぐるまはってゐると、恵一の兄さんがともてからかへって来た。こやしをけをかついだまゝ「恵一ねっだっす」「みんなはたけゐだっす」といって又こやしをくんでゐる。「恵一ゐねな」といふと「ほんであそび行ったべっす」といってこやしをくんでゐる。「恵一な体なんたや」ときくと「こんどえなだっす。卵くったっす」といってともてにいってしまった。

「さて恵一はどこへいったのだ。あそびに行かれる位だらもういいな。」

 私はよろこんでふくらんだもものつぼみをながめてゐた。向のどてで子供がころころころんでゐる。もうがつごも青いのだ。(「もんぺの弟」1号昭和9年10月発行)

 この文章を書きはじめてから、何度も何度も読みかえしていると昭和9年5月の松沢の風景が、現実味を帯びて浮かんでくるのだ。7月8日(金)、午後から今年の研究会の準備会があり、久しぶりで同級生の奥山昭男君と会ったので、小学校から松沢までの道のりを聞いたところ、さすがの奥山君、4㎞と自信を持って答えた。僕は数日、悶悶として、館長にでも聞いてみようと思っていたのだ。

 国分一太郎は、車社会に入ってからも若い教師たちに、車ではなく、自転車での家庭訪問を勧めている。その理由はたぶん、一日一文、一日一絵運動を実践するためのプランづくりの、参考にするためではなかったのか。

(「国分一太郎の青春の記録」P24)

 

文集名

学年

発行年度(昭和)

1

がつこ1号

尋四男

25

6年2月9日

2

がつこ2号

尋五男

15

7年1月6日

3

がつこ3号

尋五男

57

7年2月8日

4

もんぺ1号

尋四男

 

8年5月

5

もんぺ2号

尋四男

31

8年7月9日

6

もんぺ3号

尋四男

100

8年11月3日

7

もんぺ4号

尋四男

57

9年2月

8

もんぺ5号

尋四男

156

9年4月25日

9

もんぺの弟1号

尋三男

138

9年10月30日

10

もんぺの弟2号

尋三男

32

10年1月1日

11

もんぺの弟3号

尋三男

15

10年2月11日

12

もんぺの弟4号

尋四男

33

10年6月20日

13

もんぺの弟5号

尋四男

59

10年11月15日

14

もんぺの弟6号

尋四男

30

11年2月

15

もんぺの弟7号

尋五男

23

11年6月25日

16

もんぺの弟8号

尋五男

68

12年3月24日

 

「もんぺ」5号と「もんぺの弟」1号のページ数が極端に多いことに気付く。

 順調に4年生の担任を続けていたが、昭和9年の1月に入り、5年生の担任が出来ないことに気付き、5年生を意識した文集づくりを始める。完成したのは、昭和9年の4月25日になっていた、当然担任は5年生ではなく、3年生の担任になっていた。5年生を意識した分、ページ数がおおくなっていった。

「5年生からの詩について」という短い文章の中で、『5年生からは、詩に力がほしい。僕たちの長とろ村の自然や生活の中に見つけた詩を、ほんとに詩らしく、力づよく、きびきびと、血がほどばしるやうに、あらはす事が大切だ。

 詩は生活のさけびだ。生活の旗だ。生活のうただ。うたは思ひきってさけぶだらう。詩もさけびだ。だから詩には力がほしい・詩は生活の血だ。血がないと、人間は死ぬやうに、生活に詩がないと生活は生々としない。かがやきがない。長瀞の詩をほしいのは、長瀞の生活をよくしたいからだ。

 よい長瀞の詩は日本の詩だ。長瀞子供も日本の子どもだからなのだ。」と。さらに「ひとりびとりよのびて行け。― 5年生からのすすむ道」と題し、ひとりずつを励まし続けている。51名全員を。そして文集の最後の最後に発行 昭和九年四月二十五日 尋五用綴方の本として、と小さく記している。

 最後にもう一つ「私達をそだてて下さる人々」という欄があり、お父さんとお母さん、おばあさん、おぢいさん、兄弟姉妹、そのほか村の人達。遠い所から私たちをそだててくれる手紙を下さった方々。雑誌にかいて下さった方々。―秋田のお父さん成田忠久先生、秋田の先生、加藤周四郎先生、岩手の宮古小学校かもめの諸君と髙橋啓吾先生、宮崎県土々呂小学校、木村壽先生、長崎県、近藤益雄先生、東京の野村芳兵衛先生、小砂丘忠義、千葉春雄先生。いずれも全国的に活躍している先生方と文通を続けながら、「もんぺの弟」組の担任となる。三年生で大正14年の生れの子どもたちだ。

「もんぺの弟」1号は昭和9年10月の発行。

「もんぺの兄貴には5冊もくれて、オラダにはくれない」と先生をしかった人も、こんどこそよろこんでくれるだろ。」と八号まで発行した。「女の沼田先生がやすんで国分教室には、百十二人のむすことむすめがぎっしり並びました。先生ののどがいたくなりました。二百二十四の目が死んだ魚の目のやうにどろんとした日が多くなりました。先生は綴方をなかなかよまれなくなりました。」と悪条件の中でも、「もんぺの弟たちよ。なぜもんぺははくのだらうか。」と呼びかかけ続けていた。(2016年7月15日)

                                             「こぶし通信10号」より

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