ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
神奈川県作文の会
綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

「横須賀・逗子」作文の会 1月例会のご案内

2017-01-12 18:15:02 | Weblog

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「はじける芽」綴方理論研究会 1月例会のご案内

2017-01-11 13:20:59 | Weblog

          「はじける芽」 綴方理論研究会 1月例会のご案内

 

  日時 2017年1月15日(日)PM1時~5時 

  場所 駒場住区センター 目黒区駒場1-22-4

           *京王井の頭線・駒場東大前下車。改札前12時45分に集合。

 

◇講義 「とつおいつ88」(乙部武志さん)

 

◇提案  文学雑誌「人民文学」時代の豊田正子

       ―作品「さえぎられた光」の生成過程― 

       (添田 直人さん・豊田正子を愛する会)

 

 ◆講義・「とつおいつ87」乙部武志さん)

(1)最初に紹介があったのは、東根市を会場に開かれた、日本作文の会の第11回作文教育研究大会の話。この頃の大会の資料が大事に保管されていて、それをもとに、どのような大会だったのか話がありました。東京からは、30名ほどが参加。参加者名簿によれば、「埼玉県」に桐山久吉さんの名前。もちろん東京には、乙部先生の名前も。

(2)「啄木」について書かなかったことが悔やまれてならないという国分一太郎のつぶやき。国分一太郎と啄木がどのような関係にあったのか、追究しなければならないことがたくさん残っている。山田亨二郎さんが巣鴨での研究会でいくつか資料を残していった。そういった資料を見ていたら、国分一太郎が啄木に毒されたみたいとでもいうか、啄木が念頭にあったのだなということが本当によく分かった。

(3)『綴方指導読本』の紹介。表紙のローマ字表記に、啄木が表れている。「昭和11.9.長瀞小学校綴方研究部編」となっているが、国分一太郎の作成したもの。あるいは東海林隆さんが手伝っているかもしれない。裏は、「第11回作文教育研究会 会場 山形県東根市の 記念として」となっている。山形の先生たちが、この日の記念に復刻したものだろう(写真を入れておきますので、ご覧ください)。

(4)『石をもて追われるごとく』(国分一太郎編)の編集後記として、「この40年、あとがきにかえて」という国分一太郎の文章が載っている。読んでいくと、国分一太郎が「悔しくて、悔しくて」と口でつぶやいていただけでなく、「この40年、あとがきにかえて」の中にそのことが書かれていることに気がついた。砂田周蔵によって書かせられた、たくさんの調書の原本。戦後になって、研究のためにということで借りていった相手が紛失してしまったということ。よっぽど悔しかったことだと思う。『小学教師たちの有罪』に自分の本当の調書を載せたかったに違いない。

(5)『石をもて追われるごとく』という表題。これは、石川啄木の歌の一部。いかに啄木に傾倒していたかが分かる。(6)恵まれた教師生活を送ることができた(時代がそういう時代だった)として、いくつか紹介がありました。①執筆を任されて2冊、出版物を出すことができたこと。②国土社の社長からの依頼で、国分一太郎、寒川道夫、倉沢栄吉等の監修(?)によって出されていた月刊雑誌『国語の教育』。これのNo.52号。詩に関する座談会で司会という大役を任せられたという話。③知りませんでした!「お母さんの勉強室」というNHKのテレビ番組に出ていらっしゃったとのこと。その放送台本なども見せていただきました。

(6)東根市のあすなろ書店の店主、村田民雄さんの著書『書業無情』の「家系訪問」の話。面白い本。改めてじっくり読んでいきたい。


◆報告:国分一太郎・学芸大学第6回講義後半「生活綴り方教育に対する文部省の弾圧

         ―生活主義運動に対する文部省の弾圧―について(田中 定幸さん) 

 1943年(昭和18年)8月発行の司法省刑事局発行の『生活主義教育運動について』。同年9月発行の文部省教学局の『生活主義教育運動の概観』。この二つの極秘文書は、タイアップしながら、生活綴方教育にたずさわる教師たち(学者・研究者)への弾圧(司法弾圧、行政処分の弾圧)のためのバイブルのようにして使われていく(使われてきた)、そのへんの事情がよく分かりました。国分一太郎の指導した文集「もんぺの弟」や「生活勉強・綴方教室進行過程」まで資料として出てくる。1940年(昭和15年)の山形から始まった弾圧の資料や北海道の綴方連盟事件に関わる資料、その他、多くの地域で実践された綴方作品なども、「反国家的な教育思想」に基づくものとして収められているようです。

 第6回講義では、国分一太郎は『生活主義教育運動の概観』をもとに、この文書がどういった内容のものなのか、目次にそって丁寧に説明を続けています。説明されている中身を見ていくと、この頃の生活綴方教育に関して、実に周到に権力側からの分析がなされていることに驚いてしまいます。分析の仕方が綿密というか、半端じゃない。それなら少しくらいまともな結論に行き着くのかというとそうはならず、《このような教育を行なうことは「コミンテルン及ビ日本共産党ノ目的遂行ノ為ニスル行為」であり、治安維持法違反で有罪である》となっていくのですから不思議でなりません。

 国分先生が触れられなかった部分、「生活主義綴方教育の内容 」という部分を田中さんが引用しているのですが、ここなど全くその通り。

《 以上のごときプロレタリア教育方法論として生活主義綴方教育の教育方法には次のような配慮がなされている。即ち、

 第一、生産的労働運動場面に取材させる事である。……

 第二、批判精神の啓培である。……

 第三、意欲性ないし強靱な行動性の啓培である。……

 第四、協働性の涵養である。……

 第五、労働参加を強調し、これを奨励する事である。……

 第六、レアリズムの手法にのっとり長文を綴らせる事である。……

 第七、新課題主義の採用である。……

 第八、児童の心理の発達段階に即した指導が為されること事である。…… 》

 このあたりの分析は精緻そのものといっていいように思うのですが、最後に出てくる結論は、結局、このような指導を採用しているのは、「階級闘争を遂行する上においても必要」であり、「共産主義社会においても必要な性格であるから」だ、となるのです(この強引さ、何か某政権の論理と酷似している?)。

 この文書の執筆者に関連して「伏見猛彌」(今で言う「御用学者」?)の名が出ていましたが、『小学教師たちの有罪』と比べながら読んでみてそうなのかなと思うのですが、この『生活主義教育運動の概観』がまとめられていく出発点のあたりで、「砂田周蔵」の関わりがあるようです。

 田中さんが「国分一太郎年譜」を作ってきました。「国分の足跡」を縦軸をとしてしっかりとらえていく。それと一緒に、その時の「国分の実践・論文等」、「綴方教育界の動き」、「社会の動き 他」等を横軸として関連をとらえていくようにすると、問題のありかが分かりやすいのではないかとのことでした。また『小学教師たちの有罪』の話になってしまいますが、P231に、「治安維持法が公布された年、1925年は、わたくしが、師範学校令改正により、新規入学した年であり…」という記述があります。「国分の足跡」と「社会の動き 他」という観点でこのようなあたりも押さえてみると、やっぱり分かりやすいですね。自分たちで、このような年譜に、書きこみをして活用していくようにすれば、勉強しやすくなると思います。

 今回、添田直人さんの参加がありました。いらしていただいて早々で申しわけないのですけれど、お願いをして、1月例会では、豊田正子について語っていただくということになりました。楽しみです。

 

                              (文責:工藤 哲)

 研究会は、どなたでも参加できます。初めて参加される方は、当日、井の頭線「駒場東大前」駅、渋谷方面の改札を出たところにお出でいただくか、あるいは事前に046-873-4339田中までご連絡ください。

 

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明けましておめでとうございます。

2017-01-11 12:42:58 | Weblog

明けましておめでとうございます。

本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

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「横須賀・逗子」作文の会 12月例会のご案内

2016-12-12 19:03:52 | Weblog

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綴方理論研究会 12月例会のご案内

2016-12-07 23:04:04 | Weblog

初めての方も、どうぞお気軽にご参加ください。お問い合わせは、090-9811-3888でも結構です。

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第6回豊田正子記念フォーラムのご案内②

2016-11-27 18:43:13 | Weblog

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第6回豊田正子記念フォーラムのご案内①

2016-11-27 18:40:00 | Weblog

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「北に向かいし枝なりき」 国分一太郎「教育」と「文学」研究会「会報13号」より⑦

2016-11-17 16:20:09 | Weblog

同じく20日の研究会で

〈資料紹介〉国分一太郎文集「生活の跡」考

 

 

についてふれてくださる山田恭二郎さんの文章をご紹介します。

「はらいたい人、たな米などくなず」

                              山 田 亨二郎

                                                 (国分一太郎・こぶしの会)

 国分一太郎は長瀞小学校勤務の8年間で、16冊の文集をつくっている。うちわけは「がつご」3冊、「もんぺ」5冊、「もんぺの弟」8冊の16冊で、現在「もんぺ」の一号だけが欠本になっている。

 ズーズー先生とはどんな先生だったのだろうか、『国分一太郎文集』全10巻をはじめ、多くの資料が残されてはいるが、その割には読まれてはいないようだ。長瀞小学校には有形文化財指定の想画と国分学級の教師と児童との濃密な関係を知ることのできる、文集のすべての現物と、資料収蔵室にはそのコピーと一部の現物が蒐されている。

生存している教え子も少なくなり、直接実像にせまる機会もなくなり、残された資料を丁寧に読み解く方法しかなくなってしまった。

 以下は「もんぺの弟」1号に記された、「五月二日の日記から」の全文である。

 五月二日の日記から

  もんぺのお父っあ   

 齋藤恵一がひさしく休んだので、今日は見舞いにいった。自てん車をふんでいく松沢道は白かった。その日は健吾も休んだ。「はらいたいど」とだれかがおしへた。

 地ぞう様の所へいくと、もうみんながあそんでゐて、その中に健吾も遊んでゐた。はらいたくて学校をやすんだ健吾が、ひるまでなほって、大きなふくべんをさげて、たな米をぽろぽろと地ぞう様のえんにこぼしながら食べてゐた。「ケンゴ、ナホタガ」とゆふと、いつものぽかんとしたかほで「ナホタ」といふのである。「明日からこいな」といふと、「ん」といった。「はらいたい人、たな米などくなず」といったら、だまってたな米のふくべんにふたをした。

    ×

 恵一の家にいったら、家はがらんとあいてゐてだれもゐない。馬にるすをさせてだれもゐない。家の中は明るい。

 馬がまぐさをくってゐる。僕が入っていくとまやのすみの方にいって、しゅうと小便をした。

「恵一」とよんでも家の中はひそっとしてゐる。恵一はねむってるかもしれないと思って又戸の口にもどって来た。しゃくやくの芽が赤くでてゐる。ともてからとって来たらしいあさづきが戸の口になげてあって、「晴雨の友」とかいたかさが入口にひっかかってゐる。

 家をぐるぐるまはってゐると、恵一の兄さんがともてからかへって来た。こやしをけをかついだまゝ「恵一ねっだっす」「みんなはたけゐだっす」といって又こやしをくんでゐる。「恵一ゐねな」といふと「ほんであそび行ったべっす」といってこやしをくんでゐる。「恵一な体なんたや」ときくと「こんどえなだっす。卵くったっす」といってともてにいってしまった。

「さて恵一はどこへいったのだ。あそびに行かれる位だらもういいな。」

 私はよろこんでふくらんだもものつぼみをながめてゐた。向のどてで子供がころころころんでゐる。もうがつごも青いのだ。(「もんぺの弟」1号昭和9年10月発行)

 この文章を書きはじめてから、何度も何度も読みかえしていると昭和9年5月の松沢の風景が、現実味を帯びて浮かんでくるのだ。7月8日(金)、午後から今年の研究会の準備会があり、久しぶりで同級生の奥山昭男君と会ったので、小学校から松沢までの道のりを聞いたところ、さすがの奥山君、4㎞と自信を持って答えた。僕は数日、悶悶として、館長にでも聞いてみようと思っていたのだ。

 国分一太郎は、車社会に入ってからも若い教師たちに、車ではなく、自転車での家庭訪問を勧めている。その理由はたぶん、一日一文、一日一絵運動を実践するためのプランづくりの、参考にするためではなかったのか。

(「国分一太郎の青春の記録」P24)

 

文集名

学年

発行年度(昭和)

1

がつこ1号

尋四男

25

6年2月9日

2

がつこ2号

尋五男

15

7年1月6日

3

がつこ3号

尋五男

57

7年2月8日

4

もんぺ1号

尋四男

 

8年5月

5

もんぺ2号

尋四男

31

8年7月9日

6

もんぺ3号

尋四男

100

8年11月3日

7

もんぺ4号

尋四男

57

9年2月

8

もんぺ5号

尋四男

156

9年4月25日

9

もんぺの弟1号

尋三男

138

9年10月30日

10

もんぺの弟2号

尋三男

32

10年1月1日

11

もんぺの弟3号

尋三男

15

10年2月11日

12

もんぺの弟4号

尋四男

33

10年6月20日

13

もんぺの弟5号

尋四男

59

10年11月15日

14

もんぺの弟6号

尋四男

30

11年2月

15

もんぺの弟7号

尋五男

23

11年6月25日

16

もんぺの弟8号

尋五男

68

12年3月24日

 

「もんぺ」5号と「もんぺの弟」1号のページ数が極端に多いことに気付く。

 順調に4年生の担任を続けていたが、昭和9年の1月に入り、5年生の担任が出来ないことに気付き、5年生を意識した文集づくりを始める。完成したのは、昭和9年の4月25日になっていた、当然担任は5年生ではなく、3年生の担任になっていた。5年生を意識した分、ページ数がおおくなっていった。

「5年生からの詩について」という短い文章の中で、『5年生からは、詩に力がほしい。僕たちの長とろ村の自然や生活の中に見つけた詩を、ほんとに詩らしく、力づよく、きびきびと、血がほどばしるやうに、あらはす事が大切だ。

 詩は生活のさけびだ。生活の旗だ。生活のうただ。うたは思ひきってさけぶだらう。詩もさけびだ。だから詩には力がほしい・詩は生活の血だ。血がないと、人間は死ぬやうに、生活に詩がないと生活は生々としない。かがやきがない。長瀞の詩をほしいのは、長瀞の生活をよくしたいからだ。

 よい長瀞の詩は日本の詩だ。長瀞子供も日本の子どもだからなのだ。」と。さらに「ひとりびとりよのびて行け。― 5年生からのすすむ道」と題し、ひとりずつを励まし続けている。51名全員を。そして文集の最後の最後に発行 昭和九年四月二十五日 尋五用綴方の本として、と小さく記している。

 最後にもう一つ「私達をそだてて下さる人々」という欄があり、お父さんとお母さん、おばあさん、おぢいさん、兄弟姉妹、そのほか村の人達。遠い所から私たちをそだててくれる手紙を下さった方々。雑誌にかいて下さった方々。―秋田のお父さん成田忠久先生、秋田の先生、加藤周四郎先生、岩手の宮古小学校かもめの諸君と髙橋啓吾先生、宮崎県土々呂小学校、木村壽先生、長崎県、近藤益雄先生、東京の野村芳兵衛先生、小砂丘忠義、千葉春雄先生。いずれも全国的に活躍している先生方と文通を続けながら、「もんぺの弟」組の担任となる。三年生で大正14年の生れの子どもたちだ。

「もんぺの弟」1号は昭和9年10月の発行。

「もんぺの兄貴には5冊もくれて、オラダにはくれない」と先生をしかった人も、こんどこそよろこんでくれるだろ。」と八号まで発行した。「女の沼田先生がやすんで国分教室には、百十二人のむすことむすめがぎっしり並びました。先生ののどがいたくなりました。二百二十四の目が死んだ魚の目のやうにどろんとした日が多くなりました。先生は綴方をなかなかよまれなくなりました。」と悪条件の中でも、「もんぺの弟たちよ。なぜもんぺははくのだらうか。」と呼びかかけ続けていた。(2016年7月15日)

                                             「こぶし通信10号」より

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「北に向かいし枝なりき」 国分一太郎「教育」と「文学」研究会「会報13号」より⑥

2016-11-17 16:10:14 | Weblog

「北に向かいし枝なりき」 国分一太郎「教育」と「文学」研究会「会報13号」より⑥

 20日の国分一太郎「教育」と「文学」研究会で、小野正敬さんといっしょに「東根の想画教育」について報告してくださる、村田民雄さんは、『書業無情』という本を最近出版しています。それを読んだ感想を、榎本豊さんが次のように書いています。

 

     『書業無情』

            村田 民雄著(ひがしね叢書)を読む

                                 榎本 豊(会員)

  国分一太郎「教育」と「文学」研究会は、今年で12回目を終えた。この会が長く続けられるのは、地元山形に国分一太郎をこよなく愛している人々がたくさんおられるからだ。その中でも実質的な仕事を、精力的に働いて我々東京のメンバーと常に連絡を取って、毎年2日間国分一太郎の思想を受け継いで下さっているのが村田民雄さんだ。

 その村田民雄さんから本が送られてきた。「書業無情」と言う題名だ。普通ならば、「諸行無常」という平家物語の冒頭の言葉を思い出す人が多いだろう。この4文字言葉の本来の意味を調べてみると、次のように解説してある。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」現代語訳:祇園精舎の鐘の音は「世の中に不変のものはないという風に聞こえる。沙羅双樹の花の色は、栄える者は必ずや衰え滅び、長くは続かないこの世の定理をあらわしている。)」また、『いろは歌』にある「いろはにほへとちりぬるを」も諸行無常を意味する。

「書業無情」の題名の謎

 なぜこのような4文字熟語を作ったのかを不思議に思いながら読んでいくと、すぐに謎が解けた。「天知我知」と言う最初のページで理解できた。村田さんは、地元山形の神町で、本屋を開業している。20年前に書かれたこの文章の中に、開業して26年と書いてあるので、今年で46年目に入っている。20年前から、「大型店の進出やコンビニの出店が相次ぎ、どこも売り上げ不振にあえいでいる。」と書いてある。この短い文章の中に、著者の仕事への希望と不安がはめ込まれている。「書業」とは、本屋の仕事という意味だろう。「無常」でなく「無情」に置きかえたのは、相手への思いやりもない冷淡なことを強調したのだろう。このように、どこの章も、この4文字熟語をひねって題名をつけている。したがって、題名を読みながら、今度はどんな落ちなのだろうとわくわくしながら読んでしまう。この4文字熟語は、文章が出来てから、その後にこじつけたとあとがきに書かれているが、たいした発想力である。

8年もの間連載

「書業無情」と言う章は、この本の3分の1のページを割いている。解説によると、著者が、全国書店新聞「本屋のうちそと」に1996年から、2004年までに、載せた文章である。8年もの間連載したことになる。読み手が、同業の本屋さん関係の人が読むので、厳しい現実の商売のことが多いが、著者の仕事への希望や夢も所々に出てくる。1996年の5月「言語冗談」などを読むと、郵便局員と著者の遊び心が出て、思わず笑ってしまう。また、次々に出てくる、ユーモアにも感心してしまう。1998年の4月「以心伝心」などを読むと、商店街主催で、地域を元気づけることが、町を活性化させるという考えが貫かれている。過疎過密の人口移動で、地方の経済は疲弊してきているが、その中でギリギリの試行錯誤が至るところの章に出てきて、読みながらかくれた応援団になっている自分に気がつく。

真向かいのパン屋の息子が芥川賞作家

 2001年9月「和重月間」に、初めて芥川作家になる阿部和重のことが出てくる。著者の家のすぐ近くに住んでいたという。阿部については、「きてけらっしゃい東根」の2月「阿部和重の町」に詳しくでてくる。2005年の1月13日のビックなニュースは、東根市出身の阿部和重が、芥川賞を受賞した。著者の店の真向かいにある「パンの木村家」の次男であるという。本屋的にはジャンボ宝くじの1等賞にも勝るほどの奇跡であると書いてある。受賞したら、新聞社に頼まれていた本屋のオヤジのコメントも活字になった。翌朝は店にもテレビ局が押しかけ、各局のニュースで放送されたので、阿部和重にも劣らぬ「有名人」になった。さらに8月「出会いの小さな旅」でも、その後の半年後のことも触れてある。東京、札幌、仙台などの大都市からの学生がこの神町を訪れた。こんな文章を読むと、村田さん長いことやっていると、素敵なことも起きるもんですねと、心に思いながら読んでしまう。

市民が作る総合誌

 2003年1月「総合冊子」にも触れたい。東根市の文学界が母体となって、文学を志す会員の創作発表の場として発行してきた同人誌がある。1ページあたり、2,000円の掲載料を取って、年2回の継続発行している。毎号500部が売り切れになるという。村田さんは、その雑誌の編集と販売を手伝ってきたという。今どき、このような文化活動が、続いているということが、他の地域にあるだろうか。私も何冊か手に入れたが、様々のジャンルの文章が載せられている。何年か前に、田中定幸さんが書いた1枚の写真を巡っての国分さんとの思い出を綴ったものが、印象に残っている。

ふるさと神町への思い

 次の章は、「ふるさとスケッチ」の方は、1996年から東根文学会が担当したコラムで、現在まで続いているという。その中の、神町関係を著者が担当したものである。1つのコラムには、必ず美術連盟の挿絵が添えられている。自分の地元神町に生まれ育った著者の生きた歴史の一コマが描かれている。「赤門」では、敗戦後、米軍基地が全国に作られ、神町もその中の1つである。米軍相手のキャバレー街は、自衛隊移住とともに近辺の老若男女の社交の場になったが、今はその場所も形もさだかでない赤門が、それぞれの心に残っているという。著者の1才下の私にも、浦和の町に米軍の住居があり、その周りには、厳重に金網で囲われていたことを思い出した。本土の方でなくなった部分が、すべて沖縄に凝縮されたと思うと複雑である。

 次の「神町駅」にも、詳しく基地のことが触れられている。「郡道」では、村田少年の家がサクランボとりんごの果樹栽培農家であることが分かる。農繁期休みには、一家の家事労働の大事な役割を任されている。「神町開村350年」を読むと、1661年の原野に鍬を入れ、現在に至る歴史が分かる。りんご栽培は、明治のはじめごろに始まっている。それを記念して、若木山公園に神町小学校の生徒全員が「わたしたちの若木原」が群読で披露されたという。村田さんの孫もその中の一人で、目頭を熱くして聞いたと書かれている。地元の人にとってはなじみの深い地名の由来なども、克明に調べて書いてある。

東根の名所

「きてけらっしゃい山形」は、河北新報夕刊紙に月一回コラムを中心にまとめたものである。仙台圏の読者に、山形東根市を売り込むことを意識して書いたと書かれている。

 「関山街道」では、この道を松尾芭蕉をしたって、正岡子規が歩き、長塚節は、正岡子規の足跡を求めて歩いている。関山トンネルを過ぎると、「文学の杜」があり、3人の足跡偲ぶ文学碑が建てられている。峠下の大滝には関山隧道を越えた文人、子規、長塚、国木田独歩らの文学碑が並んで建っている。国分さんは、戦前の教員時代に、交通費を浮かすために、仙台の研究会まで、人に自転車を借りて、参加しているという有名な話が残っている。私たち理論研究会のメンバー数人で、その場所を見に行ったことを思い出す。

  阿部和重さんのことも、ここで再び取り上げている。作品のほとんどが、ふるさと神町が舞台である。受賞作「グランド・フィナーレ」は、ロリコン趣味が妻に発覚して、離婚された主人公が神町に帰ってくるという設定で、地元の読者の反応も複雑だ。

  その他に、佐藤錦の発祥の地、東根のサクランボ、東根温泉での「湯けむり映画祭」等、地元ならではのことを取り上げている。

「芸実分化

 村田さんは、様々な地域文化に関わっていることが、よく分かる。市制30周年を記念しての「五百人の第9」。劇団民芸「人を喰った話」、モーツアルト生誕300年記念「市民のためのコンサート」、人形劇団「ひとみ座」、「ミュージックイン東の杜」、民話の会の「ごぜ唄コンサート」、親子劇場、東根落語会なども企画している。17年間に様々な分野で活躍している児童文学作家を招いて、講演会を開いている。

国分一太郎生誕100年記念行事

 これは、我々もずいぶんお世話になった、記念行事である。国分さんの戦前の勤務校長瀞小学校跡地(現在公民館)の庭に「教育記念碑」を建立する。東の杜資料館の中に「国分一太郎資料展示室」と「資料収蔵室」を開設している。国分一太郎研究者にとっては、貴重な宝の山になっている。

「もんぺの弟」復刻について

 長瀞小学校尋常科3年生の60人の子どもたちの詩を綴った文集である。これは、1962年日本作文の会全国大会が、この長瀞小学校で行われたときに、国分さんの教え子たちが、その文集の字をまねながら(当時コピーなどなかった)作ったものである。やがて、国分さんが亡くなった年に、NHK仙台放送局、当時の文集を題材に「昔・むらの子どもは」―50年前の子どもたち―と言うタイトルで、東北地方を中心に放映された。当時想画教育も長瀞小は盛んであった。その想画と一緒に、教え子さんたちが、自分の文章を読み上げた。この映像は、たいへんうまく編集されており、毎年夏に行われる国分一太郎「教育」と「文学」研究会の折に、何度か放映された。何度見ても、感動する映像である。

「爺々刻々

 ここでは、村田さんの心の中に残っている、恩師や一緒に文化活動に携わって亡くなった人達の思い出を綴っている。直接知らない人ばかりだが、読んでいると、村田さんの人柄がにじみ出ている。また、9条の会や安保法案反対集会等、平和の問題に様々に関わって、活動していることが分かる。

「家系訪問」

 NHKのファミリーヒストリーを、楽しみに見ている一人であるが、一昨年91才で亡くなった父親村田吉助さんが亡くなったことをきっかけに、父親の書類から「村田政五郎」の除籍謄本を見つけ、自分のルーツを調べるきっかけになる。父親の兄妹が、戦前浅草区内に暮らしていた。それを調べていく過程が、克明に書かれている。浅草黒船町で、「村田煙管屋(きせるや)」だった。江戸末期に水野忠邦について山形にやってきた。この2つをもとに、先祖を辿る旅に出る。やがて、煙管の村田文六は享保3年創業、村田の名前はあまりに名高く煙管の代名詞になったと紹介されている。150年の歴史を、調べていくのは、たいへんな難しさであろうが、持ち前の感性のよさで、次々と明らかにしていく。

 

  毎年、国分一太郎「教育」と「文学」研究会でお世話になっているが、この本を読むと、村田さんの仕事への情熱と地域文化に貢献していく大切さが分かる。そこに暮らしている人々を元気づけることになり、ひいては自分の仕事にも繋がっていくことを、教えてくれる読み応えのある本であった。村田さん、まずは、出版おめでとうございます。購入したい方は、下記に連絡を。

 

『書業無情』村田民雄著(ひがしね叢書)

定価1,500円

発行 東根文学会「北の風出版」

 〒999-3763 東根市神町中央1-9-1

 電話 0237-47-0099 FAX 0237-48-1788

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「北に向かいし枝なりき」 国分一太郎「教育」と「文学」研究会「会報13号」より⑤

2016-11-16 10:19:13 | Weblog

〈分科会の感想〉

 

  これからも、元気で「語り部」を続けていってもらいたい

       ~榎本さんの報告『私を支えた平和教育』を聞いて~

                               工藤  哲(会員)

 報告の前半は、榎本さんが新卒の教員として赴任した最初の地、豊島区での7年間の話。後半は、異動で転勤となり、本格的に平和教育に取り組んでいった墨田区での実践の報告。

作文教育との出会い

 榎本さんは、1969年(昭和45年)の4月、豊島区の池袋第三小学校に新卒教員として赴任をしている。この時行った学校が池袋第三小学校だったのが良かった。豊島区の小学校の中でも、この池袋第三小学校に赴任したことが、榎本さんにとって大きな転機となっていく。

 この当時、豊島区は、東京23区の中でも、教職員組合が、しっかりと活動を続けている区の一つだった。しかも、その豊島区の中でも「池三小」は、組合運動と教育研究活動がしっかりと取り組まれている、まさに「拠点校」だったのである。この小学校で、榎本さんは後々、彼に大きな影響力をもたらす何人もの人たちと出会っている。豊島区教職員組合の副委員長の鈴木宏達さんがその一人。日本作文の会の事務局長の片岡並男さんもまた然り。そして、榎本さんに、もっとも大きな影響を及ぼすことになる女の先生がこの学校にいた。この女の先生は、日本作文の会の会員であり、綴方理論研究会のメンバーでもあった。この先生の勧めで、豊島で作文教育を研究する「豊島作文の会」が結成される。榎本さん、教職2年目の年である。この頃は、日本作文の会もまだ力を持っている時期で、榎本さんは、豊島作文の会、日本作文の会を通して、文章表現力を高める指導の腕をじわじわと磨いていくことになる。

 うらやましいなあと思うのは、この頃、やはり、この女の先生の紹介で、国分先生のご自宅で行われていた綴方の勉強会に榎本さんは参加をすることになる。榎本さんのあと、神奈川の田中定幸さんもこの勉強会(理論研究会)に参加するようになるのだが、なんともうらやましい。国分先生のそばで話が聞けるだけでもすばらしいことなのに、勉強会が終わった後は、国分先生の手料理で、お疲れさん会なのだという。(私など、国分先生のすぐそばに居た経験は、ほんの一日か二日でしかない!)

 国分先生は日本作文の会の常任委員で、日本作文の会の全国大会などで、「平和教育と生活綴り方」分科会の世話人をしていたなどの関係もあり、「国分さんの追っかけ」になっていた榎本さんは、作文教育の力を磨きながら、平和教育に関しても、心を向けていくことになる。

平和教育との出会い

 報告の後半は、墨田区へ転勤してからの話になる。1976年の4月、墨田区の小梅小学校に転勤になる。今から40年前のことである。このあと、榎本さんは、35年間、隅田の人となる。

 この墨田区も、榎本さんにとって大事な場所となっていく。墨田区は、江東区と並んで、東京大空襲で甚大な被害をうけた区だったからである。墨田区の最初の学校の小梅小学校。小梅小への通勤の時に通る言問橋。その言問橋の所々に、黒いシミがあったという。それが東京大空襲の時に、橋の上で亡くなった人々の死体の脂であったと後になって知ることになる。今はもう架け替えになって、新しい橋になってしまっているのだが、古い橋の黒いシミの部分は、区内の小学校などで大事に保存をされているらしい。焼け死んだ人たちの脂の痕が残っていた、そのような区への転勤だったことになる。

 転勤した時期は、東京大空襲を経験した保護者がまだ残っているころであり、父母の中や近所の人々の中に戦争体験者が残っている時期であったことなどから、戦争体験を聞き書きする平和教育の実践が始まっていく。

 今回、報告の時間は1時間。感想、意見交換は30分と予定していた。1時間では、榎本さんは、話しきれなかったのである。子どもの作品も、全文を読んでいくことがかなわず、要所の紹介になってしまった。榎本さんにしても、残念でならなかったことだろう。

 実は、今回の榎本さんの報告は、「つづり方フォーラム・21」(注)の会報に4回(2016年2月~5月号)にわたって掲載されたものがもとになっている。1回の原稿の量は、B5版6~8ページほどあり、1ページが上下2段になっているので、子どもの作品は、全文が掲載されている。それが4回にわたっているものだから、中身がぎっしり詰まっているものといっていいだろう。「原おじさんの戦争体験」は、上下2段、6ページもの長文、「母の姉は中国に」も5ページの長文である。全文を紹介できたらどんなに良かったろうと思う。レジュメには載っていない、その他の子の作品も、実はすごい作品ばかりなのである。

 *注:「つづり方フォーラム・21」:高知、大阪、奈良、三重、福岡、東京、神奈川などの教職員・研究者たちが中心になって、人権教育、生活綴方の教育のあり方を追究している研究集団。月1回、「新・つづり方通信」という会報を発行している。『えのさんの綴方日記』(http://www.yunochika.net/)の「私の平和教育」に、子どもたちの作品の全文が載っているが、やはり、機会を作って作品を紹介していってもらいたい。榎本さんの声で、語っていってもらいたいと私は思う。

 加藤民子さんが、感想として話されたことが、とても印象に残っている。榎本さんが子どもの作文を読んでいく時に、活字を目で追うのをやめて目を閉じて聞き始めたら、子どもの作文の中身がすっと入ってきたというお話だった。文字を音声にのせて表現(朗読・表現読み)したものは、目を閉じて聴いていくと、その良さ、楽しさがよりしっかりとつかめるのかも知れない。

 印象に残ったこと、もう一つ。聞き書きがうまくできるためには、3つの条件がそろわなければならないという話。1つは、語り手の話が具体的で、分かりやすいこと。 2つ目は、聞き書きをする側の本人が、じっくり相手の顔の表情などを見て、ていねいに話が聞けて、それを再現できる力があること。3つ目は、それを応援する親や教師の励ましの力。この3つのどれかが欠けても、「ひとまとまりのきちんとした文章にはならない」のだという。この三つが墨田区には、そろっていたのである。

 一つ目に関しては、墨田の事情が関係してくる。墨田区では、年に数回「平和集会」が、小、中学校で実施される。東京大空襲を経験しているからこそ行われ続けてきた「平和集会」。その平和集会には、東京大空襲や戦争体験者、原爆体験をした人たちが、「語り部」として招待され、墨田の子どもたちは、「語り部」の話を聞くことができるのである。2つ目の要素を支えるものとしては、榎本さんが、豊島で培ってきた文章表現力を育てる指導の仕方が効果を発揮していく。あと、3つ目に関連しては、墨田区の教職員組合(「墨教組」)の存在が大きい。「一人の子もきりすてない教育を」の理念のもと、「子ども・生活・地域にせまる反戦平和・反差別・解放の教育を」というスローガンを掲げて、ストライキも自前でやりきる、愚直なまでに、まじめな教職員組合である。もちろん、反動側からの攻撃もかかるが、保護者、子どもたちからの信頼は厚い。今はどうか分からないが、この頃の墨田区教委も、同和教育や平和教育を大切にする進歩的なところだったようだ。

語り続けてもらいたい

 榎本さんが、墨田区に転勤になったのは、「運命」に近いものがある。というよりは、実は墨田区の教職員組合が、榎本さんを招いたといっていいだろう(この辺の詳しい事情は、いつかまた、榎本さんから聞かせてもらおうと思う)。

 豊島でもそうだが、墨田でも、榎本さんは、組合で活躍をしている。「週刊墨教組」に、作文指導の進め方、平和教育の取り組み方などを伝える「はじける芽」の担当として、情宣関係で特に活躍されていた。

 墨田には、面白い人たちがたくさんいた。支部長の内田宜人さん、長谷川政國さん、永易実さん…もっとたくさんの名前を紹介できなければならないのだが、脳が委縮を始めているのか名前が出てこないナ。墨田で出会った人たち、教職員だけでなく、保護者や教え子たち等の人物談、エピソードなど、榎本さんにとっては、語り出したら切りがないくらい、面白い話が山ほどあるはず。

今年の11月には、71歳になる榎本さんに、どんどん語り続けてもらいたい。元気で、「語り部」を続けていってもらいたいと思っている。

                                             (豊島作文の会)

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