ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

君よ わが妻よ 

2011年01月19日 | 読みました

寒い寒い毎日ですが ふっと見上げると「白木蓮(はくもくれん)」がつぼみを膨らませています


今日は少し暖かでした。ぽかぽかとお日様が暖かいと感じる時間帯がありました。

阪急に買い物に行きました。そこで迷い子の放送がありました。「従業員の皆様、
赤の上着、白と黒のチェックのパンツ、赤と黒の靴を履いた、4歳のXXちゃんが
迷子になっておられます。お気づきの方は1階のXXまで…」

10分おきぐらいに3回ほどありました。「まだ見つからへんらしいな~、泣いてい
たらすぐ分かるのにな~」「もしかしたら、出てしまったかもね」なんだか私達も身
につまされて、周りをキョロキョロ見回しながら帰れない気持ちになりました。

4回目で「…XXちゃん、見つかりました」との放送。ホッとしました「涙のご対面
かしらね~?」「XXちゃん叱られてるかしらね~?」と語りつつ、一安心で帰宅し
ました。


        君よ わが妻よ       石原典子
          父 石田光治少尉の手紙

始めは石原慎太郎東京都知事夫人の本であるということで読んでみようかと言う気
になりました。

典子さんは父親の顔も知らない、父親の方も、写真の典子さんしか知らない、あ~
これが戦争なんだ。典子さんの母親(この手紙の受取人)にしても結婚後数年で夫
を戦争に取られ、身内の支えがあったとは言え、二人の子持ちで、20代から未亡
こんな話は、当時はざらでした。

石田少尉は軍の正規のルートである士官学校での職業軍人ではなく、1年間、士官
とか幹部候補生と言う名目で養成された予備将校は中学(今の高校)卒以上の学問
があり、費用も自弁で1年間軍隊で教育を受け将校の資格を取るという、少尉でした。
正規の幹部候補生なら、20代ですが、石田少尉は32歳の子持ち少尉でした。

その軍隊生活の数年の間に妻に送った75通の手紙を元に書かれた本です。戦死で
すが、将校の家族でもあり、親や親族に助けられた生活で、親子3人だけの生活と
言うことではなかったのが戦争と言う場合ではまだ幸せの部類だったかも知れません。

戦争で一番悲惨なのは空襲で孤児になり、子どもなのに一人で生きていかなければ
ならなかった子ども達です。「浮浪児」と蔑まれ生きていました。生きていくために悪
いこともしたようです。そんな孤児の為の寮が出来て収容されるまで、一人で生き
ていたのです。

その子ども達も生きておられれば70歳以上です。沖縄の自決問題の遺族のように、
戦争で死んだ両親の命の代償の年金は貰ってないと思いますよ。

東京では今になって空襲でなくした財産の賠償を求める動きがあると読みましたが、
戦争によって失われた命、財産の代償を生きている人が、遺族である、財産である
という事で、国に賠償を求めるのは私は少し違うような気がします。私事で言えば
財産を失ったのは母であり、補償を受けるのも母であり私では無いと思っています。

戦争によって、肉親も財産も失わなかった人も居ます。それはそれでいい運命の元
に生まれたということです。

戦争を知っている私達は「いかなる理由があっても、戦争は絶対駄目!」と語り継
ぐことだと思っています。
                             (1540回)



   おじいちゃんと散歩… 私も祖父とこうしていたのかと 目が離せませんでした

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