奥永さつき

日々のできごとをそこはかとなくつづります。

最近読んだ本(2024.3)

2024-03-23 21:47:55 | 社会
A. J. Ayer, “Foundations of Empirical Knowledge,” The MacMillan Company, 1940.
構成 (日本語訳)は神野慧一郎 他訳、「経験的知識の基礎」、勁草書房
I The Argument from Illusion (錯覚からの議論)
1 Exposition of the Argument (議論の提示)
2 Evaluation of the Argument (錯覚からの議論の評価)
3 The Introduction of Sense-data (感覚所与の導入)
4 Misuses of the Argument from Illusion (錯覚からの議論の誤用)
5 Theories of Perception as Alternative Languages (代替言語としての知覚理論)
II The Characterization of Sense-data (感覚所与の性格づけ)
6 Acts and Objects in Sensation (感覚の作用と対象)
7 "Esse est Percipi" (「存在するとは知覚されることである」)
8 Sensing and Knowing (感覚することと知ること)
9 The Errors of Formalism (形式主義の誤り)
10 Sentences, Propositions, and Facts (文、命題、そして事実)
11 The Nature of the "Given" (「所与」の本性)
III The Egocentric Predicament (自己中心的境位)
12 The Privacy of Personal Experience (個人的経験の内私性)
13 Public and Private Languages (公的な言語と私的な言語)
14 Concerning the Privacy of Sense-data and the Publicity of the Material World
(感覚所与が私的であり物質的世界が公的であることに関して)
15 The Hypothesis of the Existence of Other People's Experiences
(他者の経験が存在するという仮説)
IV Causality and Perception (知覚と因果性)
16 The Causal Theory of Perception (知覚の因果説)
17 Formulation of "the Principle of Determinism" (「決定論の原理」の定式化)
18 The Animistic Idea of Necessary Connexion (必然的結合の物活論的な観念)
19 Criticism and the Rationalist Interpretation of Causal Laws
(因果法則の合理論的解釈の批判)
20 Evaluation of "the Principle of Determinism" (「決定論の原理」の評価)
21 The Causation of Sense-data (感覚所与の原因)
V The Constitution of Material Things (物質的事物の構成)
22 Concerning Phenomenalism (現象論について)
23 Elementary Construction of the Material World (物質的世界構成の基本)
24 Appearance and Reality (現象と実在)

概要 (印象に残った主張を挙げただけで、誤訳があるかもしれません)
Part I
「水の中の棒が曲がって見える」「見る角度によりコインが円であったり、楕円であったりする」というような錯覚から感覚について論じる。
・感覚が本当であったり、欺かれたりするのは、感覚の対象と物質的事物との関係が異なるためである。その関係が何かを発見することが哲学の問題である。
・直接知る対象は感覚与件であって、物質的事物ではない。
・感覚与件の提唱者は新たな仮説を提案しているのではなく、新たな言語の使用を推奨しているのである。
・H. H. Priceを論評して、「知覚について哲学する際には、ある種の専門用語を使用することが望ましいように思われる」「そして、利用可能な用語の中で「感覚与件理論」の用語が最も優れているようにみえる。」と結論付けている。
Part II
・「存在することは感覚されること」(G. Berkeley (1685-1753)を論評。「感覚与件が実際に感じられることを、感覚与件の存在の必要条件であると同時に十分条件とすることが賢明であると私は考える。」
・「曖昧さを避けるため、私は今後、感覚与件に関連して” awareness”という言葉を、物質的事物に関連して”perception”という言葉を使い、”knowledge”という言葉を命題的な意味に限定する。」
・Carnapの形式主義はまったく支持できない。
・「記号は何を意味するか」の問いに対して、記号とそれが象徴する対象との関係を1) 因果的(Russell)、2) 構造的同一性(Wittgenstein)、3) 形式主義(Carnap)を吟味する。「私の結論は、経験的命題の少なくともひとつが直接的に検証されない限り、その真理を信じる理由はないということである。そして、ある命題が直接的に検証可能であるためには、その命題を表現する文の意味が、観察可能な状態との(一義的である必要はないが)相関関係によって決定される必要がある。」
・「感覚与件の領域で私が採用している慣習によれば(そして、慣習の選択以外にここで問題となるものは何もないことを明らかにした)、現れるものはすべて実在する。」
Part III
・「知識理論の議論において、しばしばその真理が当然視される命題は、人は自分だけのものしか直接経験できないというものである。」
・「彼ら(哲学者)は、自分たちの知識以外に知識はあり得ないとほのめかしているような発言をするが、それは彼らが同じように知識を獲得できる他の人間の存在を本当に信じていないからではなく、個人の「閉じられた個人的な経験」から共通の社会的世界へ移行する方法が分からないからである。」
Part IV
・すべての出来事には原因があるという命題は、決定論の原理と呼ばれることもある。Humeは「これまで観察されてきたすべての場合において、種類Aの出来事は種類Bの出来事に引き継がれてきたという認識から、実際にすべての場合において両者は結合しているという確信へと」「移行してゆく」のが因果律とした。
・その移行には「アニミズムの遺物」があると考える。「私は、出来事の順序は超自然的に決定されるという形而上学的仮説の帰結としてのみ、原因と結果の間の経験的関係とされるものに「必然性」が帰属することを説明することができると考えるからである。」
・「ケルゼン博士の理論は、「普遍的因果律」は歴史的に普遍的な報復原理から導き出されたものである、というものである。 根底にある概念は、善悪の行為に報酬や罰が続くように、結果は原因に従うというものであり、これらの制裁は、擬人化されているかどうかにかかわらず、すべてを司る神によって執行されると考えられているため、必然的に結果が生じると考えられている。」
・「いわゆる「不確定性の原理」や「不確定性」を扱う上で重要なのは、ステビング教授が「不確定性の関係は自然界に不確定なものが存在することを示している、あるいは科学が不正確にならざるを得なくなったと考えること」と表現したような間違いを犯さないことである。」
・Kantは因果律を総合的な必要な関係として語っているからKantの解釈にいかなる意味も与えられない。
Part V
・「ある感覚与件が真実に感覚されるという命題が、いかなる物質的事物も真実に知覚されるということを含意しないのに対して、ある物質的事物が真実に知覚されるという命題は、常に、何らかの感覚与件が真実に感覚されるということを含意していると表現できる。」
・「感覚与件に言及することで、物質的事物についての文がどのような証拠によって検証されるかを示すことができ、物質的事物についての文の意味を一般的に解明することができる。そして、これが現象論的分析の目的と考えられる。」
・「私は、物質的事物の概念を生み出す視覚経験の構造の主な特徴は、第一に、個々の感覚与件間の類似関係、第二に、これらの類似した感覚与件が出現する文脈の比較的安定性、第三に、そのような感覚与件の出現が、私が示そうとした方法で、体系的に反復可能であるという事実、第四に、この反復が観察者の動きに依存することであると考える。」
・「私たちにできることといえば、感覚的な体験の経過を予測するための技法を精巧に練り上げ、それが信頼できると判明する限り、その技法に固執することくらいである。そしてこれが、物理的世界の実在を信じることに本質的に関わるすべてなのである。」

感想
・エイヤーの思考過程をそのまま記述したためなのか、読者を引き込むための意図かわからないが、But….. But…..と連続することが多く、議論を整理することに苦慮する。
・主張していることには概ね同意するし、私自身の考え方もエイヤーに近い。
・経験主義者として極当たり前のことを言っていると思う。
・「感覚与件」と訳されるsense-dataは捉えどころのない「言語」だが、Stanford U.のサイト(https://plato.stanford.edu/entries/sense-data/)によれば、
sense data: “what is given to sense”
Although the promoters of sense data disagreed in various ways, they mainly agreed on the following points:
1. In perceiving, we are directly and immediately aware of a sense datum.
2. This awareness occurs by a relation of direct mental acquaintance with a datum.
3. Sense data have the properties that they appear to have.
4. These properties are determinate; in vision, we experience determinate shapes, sizes, and colors.
5. Our awareness of such properties of sense data does not involve the affirmation or conception of any object beyond the datum.
6. These properties are known to us with certainty (and perhaps infallibly).
7. Sense data are private; a datum is apprehended by only one person.
8. Sense data are distinct from the act of sensing, or the act by which we are aware of them.

エイヤーは、感覚とその対象の行為対象分析を拒否する点で他の主要な理論家と異なる(上記項目 8)とのこと。