ruine(リュイン)
多くの人にとって、海外旅行の楽しみのひとつと言えば、遺跡巡りではないだろうか。特に、歴史的エピソードが豊富で、神話の世界を彷彿とさせる旧跡が数多く残る地中海地方では、遺跡巡りが旅の重要なテーマのひとつとさえ言えるだろう。
かく言う私も、大の遺跡好きである。
但し、私が遺跡を好きなのは、その空間が湛える、かつての繁栄の残滓や、時の権力者が享受した富や栄光を連想させることに対する嗜好からではない。日本人的な感性である無常観とも違う。
喩えて言えば、イギリスのヴィクトリア朝時代の人々が「発見」したピクチャレスクの感覚に近いものだ。まさにそこに在る、瓦礫に潜む崇高の美。一分一秒たりと崩壊を止めない遺跡という場所が発散する(一見矛盾したように思える)永劫の感覚は、崩壊を愛する美意識を、いたく刺激する。
歴史という呪縛から切り離された瞬間、遺跡は、「絵」としての美しさを放ち始める。その切り取った、自分だけのために存在する一枚の絵は、救いようのない憂愁と虚無感を湛えた存在でありつつ、人に永遠を感じさせる力がある。
そういった意味で、「ruine(廃墟)」(多くのヨーロッパ系言語でも類似)は、私にとっての遺跡の意味を、より的確に表現しうる言葉のような気がする。遺跡というとき、例えばsite archéologique (考古学的(遺物のある)場所)や、
yuuのようにhéritage(遺産)という単語をあてる方 が適切なのかもしれない(尤も、私はフランス語のことはよくわからない)が、私はこのruineという言葉をよりいっそう好む。
さて、旅好きで神話好きの人間の例に漏れず、私も今までにたくさんの遺跡を巡ってきた。
それぞれに思い入れがあるのだが、上に記したように「ピクチャレスク」な意味で最も愛着があるのが、チュニジア北部、アルジェリアとの国境にほぼ近い位置ににある、ローマ時代の遺跡、ドゥッガだ。本場イタリアのローマ遺跡よりも保存状態が良いと言われるドゥッガの遺跡は、考古学的な見地からも非常に意義深い場所だが、今回はあえてそういったことには触れずにいたい。
ドゥッガの遺跡を訪れたのは、秋雨降る季節。雨が、古代の街の路地裏の石畳をすっかり洗い流した後の夕刻だった。秋雨とは言っても、日本で経験する時雨とは質を異にする。ドゥッガへ移動する車の中、狂ったように窓ガラスを叩く大粒の雨とにらめっこをしていた私だったが、不思議なことに、ドゥッガに到着した途端、土砂降りの雨は、さっとやんでしまった。
驟雨の後の垂れ込めた雲間から、一条の光が地上に差し、遠くに臨むテーブルマウンテンと、足下の涸れた石畳を鈍く照らし出していた。重く時を刻む神殿址は、その一瞬、時計の針を進めることを止めた。永遠が、ゆっくりと、舞い降る羽毛のように、私の頭上に降り注いだ。
全て偶然が為した、神秘的な美の邂逅と連鎖。
その時、私は、時の狭間を経験した。(m)
遺跡では時を止めたいけれど、クリックは一秒ごとにお願いしたいな~。