た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
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座禅

2017年07月18日 | essay

座禅の体験があるというので行ってみる。

脚をきちんと組めないから、半分だけつま先を上げて半跏趺坐というやつを組む。慣れない。こんな脚の組み方ではとても半時持たない気がする。それでもここで止めるわけにもいかない。

手で印を結ぶ。背筋を思い切り伸ばし、薄目を開ける。

鐘がチン、と鳴る。

堂内にいる四十人ばかしの参加者はみんな一斉に同じ姿勢で黙り込む。

一分。二分。五分。十分。何分経っても静かである。

警策と呼ばれる棒を持った僧侶が、背後を、しわり、しわり、と畳の音を立てながら近づき、遠のいていく。

心を無にしたいと思う。が、できない。当たり前である。たった一日の体験で心が無にできるわけはあるまい。それでもせっかくだから無にしたいと思う。無が駄目ならせめて悟りを開いたような心持ちになりたいと思う。もちろんそれも叶わない。

しわり、しわり、と足音。

左隣の人がやたら警策に叩かれている。僧侶が通るたびに合掌して警策を請求している。せっかく体験に来たのだから、たくさん叩かれた方が得だ位に思っているのかも知れない。

右隣の女も落ち着かない。腹筋が弱いのか、背筋を伸ばしては猫背に戻り、また背筋を伸ばしては猫背に戻っている。この女こそ叩かれるべきである。合掌して隣をお願いしますとでも言ってみようか。もちろんそんなわけにはいかない。

一向に心が落ち着かない。坊主は毎日こんなことをしているのだろうか。

鐘がチン、チン、と二回鳴る。

終了の合図である。

脚のしびれだけが残った。

 

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