富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

建水分神社 秋祭り 宮入り2023

2023年11月02日 | だんじり・祭り

2023年10月21日 11:09 今年の当番「東板持」地区の氏子より担がれる建水分神社の御神輿。

御旅所「比叡前(へのまえ)」を2、3度回ります。御神輿は建水分神社より御神霊をのせてここ御旅所にやってきました。

 

11:24 南河内郡千早赤阪村水分(すいぶん) 御旅所「比叡前」

その後、御旅所に御神輿が据えられました。地車の宮入りを待ちます。

通常の宮入りは、神社境内に地車が参入することをいいますが、建水分神社の場合は御旅所の御神輿前へ参集する事を「宮入り」といいます。

 

綺麗にお供え物を飾りつけされた御神輿。

神輿渡御祭についてはこちらをご覧ください。建水分神社 秋祭り 御神輿渡御祭

 

11:24 第一番「水分(すいぶん)」地車入場。神社の宮元にある地区からです。

宮入り順は、①水分 ②森屋 ③川野辺 ④二河原辺 ⑤桐山 ⑥芹生谷 ⑦中 ⑧神山 ⑨寛弘寺 ⑩白木 ⑪長坂 ⑫今堂 ⑬南別井 ⑭北別井 ⑮寺田 ⑯南加納 ⑰北加納 ⑱東板持 ⑲下河内 ⑳馬谷

千早赤阪村、河南町、富田林市の三市町村の地車が宮入します。

 

11:27 まずは御神輿に向かいます。

今年は宮入り地車が過去最大の20台。この宮入り順は、原則的に「水上順」として、神社を起点にまず宮元地区、そして水上から水下へと決められています。(建水分神社HPより)

 

11:27 御旅所の御神輿前で2、3度「おじぎ」をします。

御神輿については、9:30頃 神社の神輿庫より引出し、

10:30頃 拝殿下で御神霊を御神輿にお移りいただく儀式、

11:00頃 当番「東板持」氏子により御旅所に付き添われ、御旅所「比叡前」に到着。諸事情によりトラックに載せて移動。

 

11:31 そして「あばれ」。

「あばれ」とは御神輿に対するパフォーマンス。いろんな得意技を披露します。約10分間の晴れ舞台。

「水分」地区は建水分神社のほか、「楠公誕生地」などがあります。また千早川と水越川の合流地点にあり、ここに作られた「畑田井堰」をはじめ重要な井堰が河南台地ほか水下の多くの地区を潤します。

 

得意の「横しゃくり」。だんじりが倒れて来るのではないかと思うくらい倒します。

横ではしっかりニ重に曳き手が支えます。とてもしんどい力のいる技です。

この立派な石川型の「水分」地車はいつ製作されたものかよく解っていません。

 

11:38 第2番「森屋」地車入場。

「森屋」地区は菊水橋はさんで千早川の両岸にまたがる地区で、上流部に下赤阪の棚田や下赤阪城があります。

 

得意の「縦しゃくり」

ここの地車は安政二年(1855)の製作されたと思われます。すでに168年も経過しています。

墨書きに「大工 南加納 梅吉」とあり、近隣の村の大工さんが製作したようです。それにしても立派な地車ですね。

 

「やった~ぁ!」 「あばれ」が終わって万歳三唱。

鬼板(屋根で言うなら鬼瓦の部分)が、よくある「獅子噛(ししかみ)」ではなく、「宝殊と二龍」なのは珍しいです。

 

11:46 第三番「川野辺」地車入場。

この地区は河南台地(河岸段丘)の上手に位置し、古く奈良時代までに完成したと思われる旧石川郡の正方位条里地割に乗っかっています。その当時から水越川から井堰で水を引き、田んぼを耕作していました。町を通る東側の古い街道筋には太神宮夜燈やお地蔵さん、西国三十三度供養塔などの石造物がたくさんあります。

 

横しゃくりをしながら、回転します。

明治末期に下河内の地車を購入と伝わります。この地域の地車は石川型の上地車がほとんで、古くからの地車が多いようです。

 

11:52 決められた並び順に納めます。

この地区は人口が104人(2022調べ)と少ないですが、よく頑張っての宮入りです。

 

11:54 第四番「二河原辺(にがらべ)」地車入場。

この地区は御旅所の上流部にあり、楠木正成の顕彰碑「奉建塔」や「スイセンの丘」で有名です。上赤阪城への登り口はここからが便利です。

 

前コマを浮かしながら回ります。砂ほこりが舞います。

地区人口が107人と少なく曳行が大変です。

 

万歳三唱で盛り上がります。

この地車は江戸末期から明治中期までに奈良県新庄町弁之庄で製作され、大正末期に二河原辺が購入した言われています。 

 

11:54 第五番「桐山」地車入場。この地域も御旅所より上流の地域です。

集落の下に田んぼが広がり、秋には彼岸花がきれいなところです。

 

もともと「森屋」の地車で、いつかは解りませんが、現在桐山の所有となっているそうです。千早赤阪村の地車6台の内5台は建水分神社(御旅所「比叡前」)に宮入りします。

 

「あばれ」が終わり、万歳三唱。ここまで千早赤阪村。

 

「桐山」の地車:鬼板が、「龍神」。

 

「森屋」の地車:鬼板が「宝殊と二龍」。

 

「二河原辺」の地車:この地域多い「獅子噛(ししかみ)」

 

12:11 第六番「芹生谷(せるたに)」地車入場。ここから河南町。

芹生谷は河南台地の東にあり、双円墳の「金山古墳」が有名です。

 

綺麗な地車はなんと明治19年(1886)新堂大工製作の石川型地車です。

「明治19年 新堂村 大工 久保新治郎」の墨書きが残っています。平成25年(2013)の大修理で、本体の灰汁(アク)洗い・締め直し・大、小屋根取替などを行ない、写真の通り見違えるように再生しました。

 

材木はケヤキでなくヒノキを使用しています。おおむね、南河内の地車は岸和田型とは違い、ヒノキを使用しているものが多いですが、これは金剛・葛城山地に多く杉・ヒノキが植林されていることと関係があると思われます。地産地消、地元の優秀な材木を使ったわけですね。 

これで明治前期まで富田林市新堂で地車を作っていたことが分かります。新堂大工町は江戸期に平岡家や久保家が棟梁をし、一大大工組を形成し、多い時は70~80人の大工がいたと云われています。

興正寺別院本堂(国重文、寛永15年(1638))、観心寺訶梨帝母天堂(かりていもてんどう)(国重文、室町後期)をはじめ多くの寺社建築を手掛けています。

残存数の少ない貴重な新堂大工製作の石川型地車です。

なお、地区人口は138人と少なく、祭りを維持するのが大変ではないかと思われます。

 

12:23 第七番「中村」地車入場。

河南台地の中央部東側に位置する中村。村名は「中」ですが、地元の方は「中村」と言います。

 

人口672人と多く、レディース隊も編成されています。

 

中村の地車は明治前期に地元大工により製作されたようです。近いところでは、平成26年(2014)に岸和田 大下工務店にて洗い・締め直し・枠交換など大修理をされています。

 

12:23 第八番「神山(こやま)」地車入場。力のこもった「あばれ」です。

 

ここの地車は明治40年ごろ、千早赤阪村吉年より購入と云われています。平成3年(1991)、岸和田 植山工務店にて大修理。

 

地区人口が748人と多く、多くの曳き手で多彩なパフォーマンスが見られました。

 

12:42 第九番「寛弘寺」地車入場。河南台地中央部の大きな村です。千早川の両岸に立地し、町中を富田林街道が通ります。地区人口は1030人。

 

まっ赤な法被と大人数の曳き手で大迫力です。

河南町の地車は現在曳行されているものは18台。

建水分神社(御旅所「比叡前」)に宮入りするのが12台。

山麓奥の地区の平石、持尾の2台は磐船神社、

東山、大ケ塚、山城、一須賀の各町4台は一須賀神社に宮入りします。

 

地車は明治期に千早赤阪村千早から購入と伝わります。奈良県當麻町より購入という資料もあります。令和3年(2021)に大修理。

 

宮入りが終わった地車が順番に並びます。

なぜか担い棒につっかえ棒をして地車の前を持ち上げています。

 

12:56 第十番「白木」地車入場。ここでまだ半分。

 

 

「白木」地区は河南台地のほぼ中央部やや東側に位置しています。

河南台地は氷河期・間氷期の海水面の変化が原因で、川の下刻・側刻作用により数万年前から形成された中位河岸段丘面です。この時代はまた日本列島に人は住んでいません。4万年前頃に大陸から渡ってきたといわれています。

 

地車は平成元年(1989)の製造とのこと。人口は旧白木・長坂・今堂地区(現白木地区)合わせて、730人。

その後、律令時代(飛鳥・奈良時代前期)に広い範囲に為政者(実行者は郡司か?)により、班田収受の法を受けて人為的に旧石川郡の正方位条里地割が奈良中期までに作られました。現在も道が南北・東西に正確に一町(=約109m)ごとに存在しています。大きな河川がないので井路により上流の水越川・千早川の井堰より農業用水を得て田んぼを維持しています。

 

13:05 第十一番「長坂」地車入場。

江戸期になると新田の開発や稲作をはじめ農作物の生産性の向上とともに、さらに井路の拡充や今堂池・寅ケ池・寺田池などの井路の水を引き込む溜池が築造されます。特に江戸後期では金肥の使用や農機具の進歩により、冬場の裏作で大麦・菜種のほか、田んぼで米と木綿の同時栽培などにより、民衆の生活が安定し、財力も増します。そういう背景で地車も幕末あたりから寺内町などの町場だけでなく、ごく一部農村部でも所有するようになったと考えられます。明治になってからは次第に各村に波及していきました。

 

すごい横しゃくり。

住居表示的には「白木」になりますが、長坂には江戸期に白木陣屋がありました。伊勢神戸(かんべ)藩の陣屋で代官がいました。今も石垣が残っています。

 

立派な石川型の地車ですが、詳細はよくわかりません。明治期、富田林寺内町より購入という説も。

富田林村(とんだばやし寺内町)は明治の始めまで各町6台の地車を所有していたらしく、その地車を全部売って、そのお金で郡役所、裁判所、警察、法務局などを誘致したと聞きます。平成6年、植山工務店にて大修理。

また確か富田林市の伏見堂の地車も嘉永6年(1853)の富田林村御坊町の地車と聞きます。

 

13:05 第十二番「今堂(いまんど)」地車入場。

今堂は河南台地中央部やや東側。現在太陽光発電の施設になっている今堂池があります。

この池は江戸期に稲作面積の拡大と稲作生産技術の進歩により水不足になったので、寛文12年(1672)に中間に溜池(皿池)を作りました。

 

頑張ってかなり横にしゃくっています。今堂は現在住居表示は白木になります。

 

ここの地車も明治6~8年頃の新堂村大工の製作と言われています。平成28年(2016) 岸和田 池内工務店(関西地車製作事業協同組合)にて修理。

 

13:22 第十三番「南別井(べっつい)」地車入場。富田林市です。

現在の住居表示は北・南を合わせて「別井」です。これは明治8年(1875)に「北別井」と「南別井」が合併したことによります。村の一番南に元禄期に完成した大きな溜池「寅ケ池」があり、千早川からの井路の用水が溜められています。

 

「べっつい」と独特の響きがありますが、これはおそらく大阪弁でもこの南河内地方には独特の訛(なまり)があるからだと思います。

「芹生谷」:「せりゅうたに」「せるたに」「せりたに」

「加納」:「かのう」「かんの」

「下河内」:「しもかわち」「しもかうち」といくつかの読みがある地域も存在します。

 

地車については詳しい情報が解りません。地区の人口は323人。

 

13:34 第十四番「北別井」

南別井の水下にある北別井。町の真ん中を南北に畑田井路が通り、条里地割が明確に残っています。

井路の横の南北の道は河南京街道と呼ばれ、この御旅所「比叡前」から最終的に京に至る街道筋です。

 

「Google Earth Pro」の空中写真 〈画面をクリックすると拡大します〉

千早川東部の河南台地(河岸段丘面)に縦横規則正しい道が見られます。これが正方位条里地割の痕跡です。

 

楠公誕生地(千早赤阪村水分山之井)から水越川に降りて富田林街道へ、河岸段丘崖を上がり、比叡前→正方位条里地割の道を真北に降りて、森屋、中村、南別井・北別井→山城(やましろ)(河南台地はここまで)→大ケ塚→東山→太子→通法寺→壺井→大黒(おぐろ)→臥龍橋(がりょうばし)を渡り、古市蓑の辻で東高野街道に至り、そこから京方面に通じます。

 

残念ながら、北別井の地車に関する詳しい情報はわかりません。

 

13:42 第十五番「寺田」 

河南町の寺田地区は北別井の東隣り。河南台地の東北の端に位置し、「寺田」の交差点は南北・東西とも正方位条里地割の道。東への道は崖を降りて梅川を渡りまた上ったすぐ左に「ぷくぷくドーム」(町立総合体育館)があります。地区人口は246人。

 

大勢の方が見守る前での「あばれ」。

 

寺田の地車についてはおそらく江戸期の製作で、平成4年(1992)植山工務店で改修。平成25年(2013)河合工務店で修復ということしか解りません。

 

13:52 第十六番「南加納(かんの・かのう)」

河南台地の東側の山麓に位置する地区です。山麓地域では南加納、北加納、下河内が建水分神社に宮入りします。

南加納は山麓部と言ってもまわりはまだ田んぼ、梅川と支流の平石川が村の西部を流れます。標高は80m。村の人口は315人。

 

御旅所まで4370mの道のりです。

 

南加納の地車は昭和11年(1936)製作。大東市津野辺→東大阪市加納の地車を経て、南加納へ。平成8年に彫忠にて修理とのことです。

 

13:59 第十七番「北加納」

こちらの「北」は北加納。南加納より少し北東に位置します。南西部には田んぼが広がりますが、北西部は山麓になっています。村の人口は225人。

ちなみに、立地する高さは

建水分神社180m、比叡前132m、川野辺148m、中村105m、白木87m、寺田77m、南加納80m、北加納101m、下河内210m

二河原辺186m、桐山159m、水分123m(地車庫は166m)、

 

地車については詳しいことがわかりません。平成7年(1995)、植山工務店にて大修理。

 

すでに三方宮入り地車で埋まっています。

 

14:07 第十八番「東板持」

東板持は旧石川郡板持村、明治の始め東西区別しないでそう呼ばれていました。

かたや西板持は旧錦部郡板持村。今年はこの日の翌日、地元の板茂神社に宮入りしました。

東と西で旧郡が異なるのは珍しいですね。小学生の通う小学校も異なります。東板持は大伴小学校、西板持は彼方小学校です。

 

東板持全体の人口は1431人。旧村の一丁目は218人、南・北寿美ケ丘が1213人です。建水分神社に宮入りする地区では一番人口が多いです。

今年は御神輿渡御祭の輪番当番地区で大変でした。

 

ここで気が付くことは各地区の法被や化粧幕に「菊水」の紋がとても多いことです。

 

14:11 第十九番「下河内(かうち・かわち)」

石川の支流の梅川の最上流部近くにある地区、近くに桜で有名な弘川寺があります。御旅所から遠く河南町の最南部に近いところから延々6km以上地車を曳いてきました。おそらく宮入りする地区の中では一番遠いと思います。また比叡前に宮入りする地車では一番標高の高いところ(210m)から来ています。

・千早赤阪村で一番標高の高い地区の地車は「中津原」300m 中津神社

・河南町で一番標高の高い地区の地車は「持尾」273m 磐船神社

・富田林市で一番標高の高い地区の地車は「廿山(つづやま)」128m 錦織神社

地車は平成11年(1999)に製作されたもの。下河内の法被も「菊水」です。菊水の菊がごとく、この時期に田んぼのあぜ道に小さなうす紫の野生の菊を見つけるとなんかほっとします。

 

人口が154人と多くなく、70歳以上の方が多いので、長い距離の宮入りは大変ですが、頑張って「あばれ」ています。

 

14:25 第二十番「馬谷(まだに)」 宮入りの再開が成りました。

あれあれ、いろんな地区の曳き手が「あばれ」ています。

 

馬谷は全地区で一番人口が少なく、17世帯、48人の地区なので、おそらく河南町の他地区の応援をお願いしたのでしょうか?

 

それでも立派な地車で、村から2.3kmも離れた登り坂を延々曳いてきました。やっぱり地車曳きたいですね。

馬谷は河南台地の中村から東に、馬谷川を越えて500mほどのところにあります。

 

15:05 20台もの地車が勢ぞろいしました。

 

15:05 御旅所を中心にコの字形に地車が取り囲みました。

 

14:43 川野辺の俄(にわか)。代表者の口上のあと、前を上げた地車の舞台で俄を奉納します。 

コミカルな寸劇(にわか、俄、仁輪加)を奉納するのが南河内の地車の特徴です。

そのためこの地方の地車(石川型上地車)には3人で俄芝居ができるよう前方部が大きく演台が設けられ、演者が中から出てこれるように幕があります。

 

14:54 二河原辺の俄(にわか)奉納

時代劇が多いですが、現代劇をする場合もあります。最後に落語と同じように必ず「落ち」を付けるのが慣わしとなっています。

10年ほど前までは全ての地区が奉納していたそうですが、現在は時間の都合もあり6地区のみ。輪番制で3年に一度の奉納です。一地区10分程度です。

 

14:54 白木の俄(にわか)奉納

喜志の宮のように化粧をする地域もあります。トイレに行っていたので三町分見逃しました。

 

大阪府で一番人口の少ない(4970人)唯一の村、千早赤阪村の氏神 建水分神社の三市町村にまたがる大きなお祭りです。このあとカメラの電池がなくなり、写すことができませんでした。残念!

このあとまた順番に各地区の地車が御旅所を後にしますが、すべての地車が宮出する頃にはあたりが闇に包まれ、地車の提灯の明かりが周りを照らします。

大字図 富田林百景 「とんだばやし灯籠めぐり」より

「水分」は地域が広いので字が切れています。

地車の情報についてはHP[地車名鑑」を参考にさせていただきました。

*地車情報につきましての誤りがあれば、コメント欄にご連絡ください。

関連記事:建水分神社 秋祭り 御神輿渡御祭 2023.10.25

写真撮影:2023年月10月21日

2023年10月31日 HN:アブラコウモリH

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 堺市美原区、みはら歴史博物... | トップ | 富田林まちかどミュージアム... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

だんじり・祭り」カテゴリの最新記事