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西之島、6キロ以内警戒=気象庁

2014年06月11日 | いろいろ

西之島、6キロ以内警戒=気象庁

 

 気象庁は11日、小笠原諸島・西之島(東京都小笠原村)の中心から6キロ以内では噴火活動に警戒するよう、周辺を航行する船舶に呼び掛けた。
 西之島では昨年11月から活発な噴火活動が続き、陸地が拡大している上、周辺の海底で新たな噴火が起きる可能性もある。水深500メートルより浅い海底で噴火が起きた場合、噴石が2キロ先まで飛散する恐れがあるという。(2014/06/11-17:16)


J婚:「結婚するなら自衛官」注目度アップ 「国も家庭も守ってくれそう」

2014年06月02日 | いろいろ

毎日新聞 2014年06月02日 東京夕刊

宇都宮市で開かれた自衛官とのお見合いイベント。女性参加者の比率が高く、順番待ちする姿も=同市内で2014年5月31日午後3時4分、松本晃撮影
宇都宮市で開かれた自衛官とのお見合いイベント。女性参加者の比率が高く、順番待ちする姿も=同市内で2014年5月31日午後3時4分、松本晃撮影
海上自衛官の写真集「国防男子」=集英社提供
海上自衛官の写真集「国防男子」=集英社提供

 集団的自衛権の議論で注目が集まる自衛隊に、婚活中の女子からも熱い視線が送られている。男性自衛官が参加するお見合いパーティーは応募枠がすぐに埋まり、大手出版社は海上自衛官の写真集を発売。「自衛官との結婚=J婚」という新語まで登場する人気ぶりだ。【松本晃】

 きっかけの一つは東日本大震災での活動だ。自衛官限定の婚活コースがある結婚相談所「Bridal チューリップ」(東京都)の桑山裕史代表(36)は「被災地で活動する姿が連日報道され、近付きがたいイメージから尊敬できる存在に変わった」と分析する。

 また、昨春には航空自衛官を主人公にしたテレビドラマが放映され、人気を後押し。5月には20~30代の海上自衛官の肉体美や仕事ぶりを紹介する写真集「国防男子」(集英社)も発売され、「全国の書店から注文が殺到し、品切れ店が続出している」(担当編集者)という。

 とはいえ、自衛官の任務は危険を伴い、訓練で家を留守にすることも多い。桑山代表によると、「そのデメ リットさえも『自分が彼を支える』『趣味に使える自由な時間が持てる』と前向きにとらえる女性が多い」のだとか。「チューリップ」が女性参加枠約50人で 毎月のように開くイベントは募集2日目には定員オーバーになることが多いといい、最近半年で約100組のカップルが成立した。

 自衛隊栃木地方協力本部が5月31日に宇都宮市で主催したお見合いイベントは、1等陸佐の小林勇夫本部長自らが発案した。参加自衛官は25人だったが、女性は2週間で定員(40人)をはるかにオーバーする70人が申し込み、抽選になった。

 「いろいろな職業を選択できるこのご時世に、国民を守ろうと思う人はあまりいない。人を大切にする思い にあこがれて来ました」。岡山県から参加した派遣社員の女性(30)は目を輝かせた。栃木県真岡市の女性会社員(26)も「公務員で収入も安定していて、 性格もまじめ。結婚相手にはぴったりです」と本気モードだった。

 アピールタイムでは「普段は隊長に服従していますが、私生活で服従できる女性を探しに来ました」と、くだけた一面をのぞかせる自衛官も。自衛官からの告白タイムでは、半数以上の14人がOKをもらった。

 小林本部長は「女性比率が5%だけで、男性にとって出会いが少ないのが自衛隊。国民の生命と財産を守るために、結婚して心の支えを持つことは大きい」とブームを歓迎している。


両陛下、渡良瀬遊水地を散策=田中正造の直訴状も見学-栃木

2014年05月21日 | いろいろ

両陛下、渡良瀬遊水地を散策=田中正造の直訴状も見学-栃木

 
渡良瀬遊水地(栃木、群馬両県など)のヨシ原浄化施設を散策される天皇、皇后両陛下=21日午後

 私的旅行で栃木県を訪問中の天皇、皇后両陛下は21日午後、渡良瀬遊水地(栃木市など)を訪れ、貯水池の水質保全のためヨシが生い茂る湿地を散策された。


〔写真特集〕宰相の系譜~昭和から平成~


 渡良瀬遊水地は足尾銅山の鉱毒を流出させないために造られ、2012年7月には国際的に重要な湿地としてラムサール条約に登録された。あいにくの雨の 中、両陛下は展望台から堤防や貯水池を眺めた後、傘を差して付近を散策。天皇陛下は桑の木を見て「だいぶ実がなってるね」、皇后さまは「ずいぶん鳥の声が 聞こえる」とうれしそうに話していた。

栃木県佐野市の郷土博物館で、田中正造の銅像を見られる天皇、皇后両陛下=21日午後(代表撮影)

 その後訪れた佐野市郷土博物館では、同市出身の田中正造が1901(明治34)年に足尾銅山の鉱毒被害を明治天皇に訴えようとした際の直訴状などを見て回った。(2014/05/21-17:17)

 

 


<袴田さん>高裁も釈放支持 静岡地検の抗告を棄却

2014年03月30日 | いろいろ

 1966年に静岡市(旧静岡県清水市)で起きた強盗殺人事件で死刑判決が確定し、27日の再審開始決定によって釈放された袴田巌(はかまだ・いわお)元 被告(78)について、東京高裁は28日、拘置の執行停止(釈放)を認めた静岡地裁決定を支持し、静岡地検の抗告を棄却する決定を出した。今後、検察が特 別抗告して認められるか、再審開始決定が高裁や最高裁で覆されない限り、再拘束されることはない。

 決定で三好幹夫裁判長は「拘置は死刑執行のための身柄拘束で、死刑執行の一環。再審開始決定をした時は拘置も執行停止できる」と判断。「年齢や精神状態に鑑みれば、身柄確保の必要性が高いといえない」と述べた。

 弁護団などによると、東京拘置所から27日に釈放された袴田さんは、東京都内のホテルで姉秀子さん(81)と水入らずの一夜を過ごした。28日朝は、ご飯とみそ汁の食事のほか、ショートケーキを味わったという。

 その後、東京都東村山市内の病院で検査を受け、疑いのあった認知症や糖尿病は比較的軽度と診断された。袴田さんは「一番強くなった」と話し、再審請求を 経て釈放されたことを喜んでいるという。しばらく入院した後、体調が安定すれば静岡県に戻り、故郷の浜松市内で秀子さんと暮らす予定。

 秀子さんは28日午前の記者会見で「(眠る姿に)不思議な気持ち。夢を見ているような気がした」と笑顔で語った。弁護団の小川秀世事務局長は検察の抗告が棄却されたことを受け「再収容されなくて本当にほっとした」と話した。【山本将克、平塚雄太、荒木涼子】


「籾井氏の発言は誤り」 NHK経営委員長代行が批判

2014年03月28日 | いろいろ

 就任会見での発言が問題になっているNHKの籾井勝人会長に対し、会長の任免権を持つNHK経営委員会の上村達男委員長代行(早稲田大教授)が今月11日の経営委で、「NHKのトップとして(発言の)中身そのものが間違っている」と厳しく批判していたことがわかった。籾井氏の発言自体を正面から批判する意見が経営委員から出るのは初めて。

 上村氏は、籾井氏が就任会見で「(国際放送で)政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」「(特定秘密保護法は)通っちゃったんで言ってもしょうがない」と述べた発言自体を批判。「公の場であろうがなかろうが、個人の見解は変わっていないとおっしゃる中にそれらが入っているとすれば、とんでもない」と指摘した。

 また、籾井氏の従軍慰安婦靖国参拝に 関する発言も「NHKの内部その他でも言ってはいけない」と批判。会長の考えと正反対の意見や韓国・中国の主張など、NHKは多様な事実を報道しなければ いけないのに、会長発言により報道しなくなるという疑念を呼ぶと指摘。その上で、NHK会長の立場を理解するため「勉強と努力をしていただきたい」と苦言 を呈した。

 上村氏の発言を受け、安倍晋三首相に近い長谷川三千子・経営委員も「我々経営委員は会長に対して『もっと勉強して下さい』『その意見は本当に正しいのか』といったコミュニケーションをはかる義務がある」と述べた。

 籾井氏はこの日の会合を欠席していたが、上村氏は堂元光副会長から本人に伝えて欲しいとした。26日の経営委では、上村氏の発言について、籾井会長が「事実誤認がある」などとして議事録に載せないよう求める一幕もあったという。

     ◇

 浜田健一郎経営委員長は26日に行われた経営委後の記者説明で、NHKの2014年度予算案に民主党などが反対する方針を決めたことについて「公共放送として残念だが、現実は受け止める」と述べた。

 籾井氏の発言をめぐっては、25日までにNHKに3万5700件の意見が寄せられ、うち2万3千件が批判的、6500件が肯定的だったという。


袴田さん48年ぶり釈放 静岡地裁 拘置、耐え難いほど正義に反する

2014年03月28日 | いろいろ

 一九六六年に起きた袴田事件の第二次再審請求で、静岡地裁が二十七日、強盗殺人罪などで死刑が確定した袴田巌(はかまだいわお)さん(78)の再 審開始と刑の執行、拘置の停止を決定したのを受け、袴田さんは同日夕、東京拘置所(東京都葛飾区)から釈放された。六六年八月の逮捕から約四十八年ぶり。 法務省によると、再審開始と拘置の停止が同時に認められたのは初めて。

 村山浩昭裁判長は、拘置停止の理由を「長期間死刑の恐怖の下で身柄 を拘束されてきた。これ以上拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」と説明。静岡地検は停止決定を不服として、地裁に職権で拘置を続けるよう求めたが 退けられた。地検は取り消しを求め東京高裁に抗告したが、結果を待たずに東京拘置所に釈放を指示した。一方、再審開始決定の取り消しを求め、三十一日まで に東京高裁に抗告する方針。

 第二次再審請求の最大の争点は、犯行時の着衣と認定された「五点の衣類」が袴田さんのものかどうか。村山裁判長は「認定に合理的な疑いが生じた。後日捏造(ねつぞう)された疑いがある」と結論付けた。

  鑑定は検察、弁護側双方の推薦した専門家二人が担当。ともに、衣類のうち白半袖シャツの右肩の血痕が袴田さんのDNA型と完全には一致しないとの見解を示 した。決定は「五点の衣類の血痕は袴田さんのものでも犯行着衣でもない可能性が相当程度認められる。無罪を言い渡すべき明らかな証拠だ」と判断した。

  弁護団は捏造を裏付けるため、実際に血液を付けた衣類をみそに漬け込む実験も実施。開示された衣類のカラー写真と変色度合いを比較し「みそタンクに長期間 入っていたとする確定判決は誤りだ」と主張した。決定は実験結果を重視し「衣類の染まり具合はみその色に比べて薄く、血痕の赤みも強すぎる。長時間みその 中に隠されていたにしては不自然」と認定した。

◆「ありがとう」ぽつり

 袴田さんは午後五時二十分すぎ、姉秀子さん(81) らと車に乗り込み、拘置所を後にした。拘置所の応接室で秀子さんが袴田さんの腕に触れながら「お帰りなさい」「やっと出てきたね」と声を掛けると、「う ん、うん」とうなずいたという。弁護団によると、袴田さんは移動の車中、きょとんとしていたが、車に酔って立ち寄った駐車場で弁護士に「ありがとう」と感 謝の言葉をつぶやいた。

 秀子さんは二十七日夜、袴田さんについて「外の空気を吸っているうちに、少しずつ顔色が良くなったように感じる」と本紙の取材に満足そうに答えた。

<お断り> 袴田巌死刑囚の再審開始決定が出され、拘置所から釈放されたことに伴い、呼称を袴田巌さんに変更します。

(東京新聞)


沈黙の血痕:袴田事件・第2次再審請求/上 死刑囚忘れられない 「無罪の心証」告白、元裁判官・熊本さん

2014年03月27日 | いろいろ

毎日新聞 2013年12月03日 地方版

熊本典道さん=2013年11月、荒木涼子撮影
熊本典道さん=2013年11月、荒木涼子撮影

 ◇大粒の涙頬伝い

 清水市(現静岡市清水区)で1966年、みそ製造会社の専務一家4人が殺害された「袴田事件」の第2次 再審請求は2日、最終意見書の提出で審理をほぼ終えた。最大の物証とされる「5点の衣類」の血痕のDNA型鑑定をはじめ、弁護団と検察側の主張は鋭く対 立。再審の重い扉を前にして、真相に近づくには半世紀近い時間の壁も立ちはだかっている。【荒木涼子】

 「再審請求にかかる時間が長すぎる」。静岡地裁で死刑の判決文を書いた元裁判官、熊本典道(のりみち)さん(76)は、引退生活を送る福岡市内で取材に応じ、袴田巌死刑囚(77)らの高齢化が進む中で、いらだちを募らせた。

 合議の秘密を破った元裁判官だった。第1次再審請求中の2007年に記者会見を開き、「審理していて無 罪の心証があった」と告白、批判も浴びた。死刑を言い渡す一方、45通の自白調書のうち1通しか採用しなかった地裁判決は「自白獲得にきゅうきゅうとして 物的証拠に関する捜査を怠った」と捜査側を手厳しく批判。熊本さんがその半年後に退官したこともあり、弁護団の間では「(合議体)3人の裁判官の中で意見 は相当割れていたのでは」とささやかれていた。

 熊本さんは車椅子にもたれながら、袴田死刑囚の近況に話が及ぶと震える両手でつえを握りしめる。「今も袴田さんのことを覚えているんです」と、大粒の涙が頬を伝った。

 熊本さんは1審公判中は30歳を過ぎたころ。境遇は自分と異なるものの、同世代の青年だった袴田死刑囚 が被告席にいた。真っすぐに裁判長を見て訴える姿から、不合理な弁解をしているとは思えなかった。刑事訴訟の有罪認定には、合理的な疑いを差し挟む余地の ない立証が求められる。「合理的な疑いとは何なのか」「裁判官の良心とは」と苦悩し続けた審理だった。

 判決を書いた自らが「無罪」に傾いていたと告白すれば、1次請求の決定に影響があると期待もしたが、 27年間に及んだ1次請求は、告白の翌08年に棄却が確定した。熊本さんは数年前から前立腺がんになり、気弱になることもある。「本当のことを言いたかっ たが、今となってみると(告白が)良かったのか正直分からない」

  ◇   ◇ 

 11月19日、東京拘置所の面会申込所で広げられた黄色い表紙のA6判ノートには、この3年余の日付だ けが書き記されていた。袴田死刑囚の姉秀子さん(80)の面会記録帳だが、10年8月以来、袴田死刑囚が面会を拒み続け、姉弟の会話内容などは記載されな いままになっている。

 今では面会申し込みを通じて自分の来訪だけでも伝わるよう、月1回は拘置所を訪れる。「もしかしたら、 ひょっこり顔を出すかもしれんでね」。死刑囚は拘禁症状が出始め、認知症の疑いも出てきた。残された時間は長くない。弁護団が2次請求で開示請求するなど して集めた証拠によって意見書は229ページの大部に及んだ。年開けから再審可否の判断を待つことになる。秀子さんは言う。「時は相当流れたが、私と巌の 無罪を訴える気持ちは何も変わらない。それを裁判所に伝えたい」

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 ■ことば

 ◇再審請求

 有罪が確定した事件について、判決の言い渡しを受けた人の利益となる新たな証拠が発見された時などに判 決を取り消し、裁判の審理をやり直すよう申し立てることができる刑事訴訟法に規定されている手続き。弁護側が提出した証拠が、「確定判決と異なる新規明白 な事実や証拠」と再審請求審で判断されれば再審開始が決定となり、刑の執行が停止される。


袴田事件の再審開始決定、釈放へ 証拠「捏造の疑い」

2014年03月27日 | いろいろ
 

 1966年に静岡県の一家4人が殺害、放火された「袴田事件」で死刑が確定した元プロボクサー袴田巌(いわお)死刑囚(78)=東京拘置所在監=の第2次再審請求審で、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は27日、再審開始を認める決定をした。村山裁判長は「捜査機関が重要な証拠を捏造(ねつぞう)した疑いがあり、犯人と認めるには合理的疑いが残る」と判断。「拘置の続行は耐え難いほど正義に反する」と刑の執行停止(釈放)も決めた。

 死刑囚の再審開始決定は免田、財田川、松山、島田の無罪確定4事件と、後に覆された2005年の名張毒ブドウ酒事件名古屋高裁決定に次いで6件目。

 静岡地検の西谷隆次席検事は「予想外の決定。上級庁と協議して速やかに対応する」と語った。刑の執行停止に対しては即日、不服申し立てをする方針。再審開始の判断については、不服申し立てを28日以降に行う方向とみられる。

 事件は66年6月30日に発生。同年8月、みそ工場従業員だった袴田元被告が強盗殺人や放火などの容疑で逮捕され、捜査段階で犯行を認める自白調書が作られたが、公判では一貫して否認。静岡地裁は68年9月、自白調書1通と間接証拠から元被告の犯行と断定して死刑を宣告し、80年11月に最高裁で確定した。

 08年4月に始まった第2次再審請求の最大の争点は、犯行時の着衣の一つとされる白半袖シャツに付いていた血痕のDNA型鑑定だった。確定判決は、シャツの右肩についた血痕の血液型が同じB型だとして、元被告のものと認定。第1次再審請求でもDNA型鑑定が行われたが、「鑑定不能」だった。

 第2次請求で再鑑定された結果、検察、弁護側双方の鑑定ともシャツの血と元被告のDNA型が「一致しない」とする結果が出た。検察側は「鑑定したDNAが劣化しており、汚染された可能性がある」と主張。弁護側と鑑定結果の信用性を巡って争っていた。

 この日の静岡地裁決 定は弁護側鑑定について、「検査方法に再現性もあり、より信頼性の高い方法を用いている」と指摘。「検察側主張によっても信用性は失われない」と判断し た。そのうえで、犯行時に元被告が着ていたとされる着衣は「後日捏造された疑いがぬぐえない」と指摘。DNA型鑑定の証拠が過去の裁判で提出されていれ ば、「死刑囚が有罪との判断に到達しなかった」と述べ、刑事訴訟法上の「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」にあたると結論づけた。

 さらに「捏造された疑いがある重要な証拠で有罪とされ、極めて長期間死刑の恐怖の下で身柄拘束されてきた」として、「再審を開始する以上、死刑の執行停止は当然」とも指摘した。

 事件では起訴から1年後の一審公判中、現場近くのみそ工場のタンクから血染めの白半袖シャツやズボンなどが見つかり、検察側は犯行時の着衣を、パジャマから変更。静岡地裁判決は自白偏重の捜査を批判し、45通のうち44通の自白調書を違法な取り調べによるものとして証拠排除したが、5点の衣類を始めとする間接証拠類と自白調書1通で、死刑を選択した。

     ◇

 〈袴田事件〉 1966年6月30日未明、静岡県清水市(現・静岡市清水区)のみそ製造会社専務(当時41)宅から出火。焼け跡から専務、妻(同39)、次女(同17)、長男(同14)の遺体が見つかった。全員、胸や背中に多数の刺し傷があった。県警は同年8月、従業員の袴田巌元被告(同30)を強盗殺人などの疑いで逮捕。一審で死刑判決を書いた熊本典道・元裁判官は2007年、「捜査段階での自白に疑問を抱き、無罪を主張したが、裁判官3人の合議で死刑が決まった」と評議の経緯を明かし、再審開始を求めていた。


私的訪問

2014年03月25日 | いろいろ

両陛下、三重県へ出発=20年ぶり剣璽携え、伊勢神宮に

 

 天皇、皇后両陛下は25日午前、伊勢神宮参拝のため、新幹線で三重県に向けて出発された。伊勢神 宮で昨年10月、20年に1度の式年遷宮が行われたのを受けた私的訪問。皇位の象徴とされる剣と璽(じ)=勾玉(まがたま)=を携行した。剣と璽が皇居の 外に持ち出されるのは、前回の式年遷宮後の参拝以来20年ぶり。


【動画】宮内庁、傘寿記念DVDを製作=天皇陛下、80年間の歩み


 両陛下は26日、伊勢神宮の外宮と内宮を参拝する。27日に式年遷宮に関する展示施設「せんぐう館」などを視察し、28日に帰京する。
 剣と璽は戦前、天皇の宿泊を伴う地方訪問には必ず携行されたが、1946年に警備上の理由などから取りやめられた。74年以降、伊勢神宮参拝に限り復活した。(2014/03/25-11:04)


横断幕問題:差別に「スタジアム泣いているように見えた」

2014年03月24日 | いろいろ

毎日新聞 2014年03月23日 21時46分(最終更新 03月23日 23時49分)

観客がいないスタジアムで、差別撲滅を宣言する浦和の選手たち=さいたま市で2014年3月23日午後1時9分、小出洋平撮影
観客がいないスタジアムで、差別撲滅を宣言する浦和の選手たち=さいたま市で2014年3月23日午後1時9分、小出洋平撮影

 サッカー・Jリーグ1部の試合中に観客が差別的な横断幕を掲げた問題で、Jリーグ史上初の無観客試合と なった浦和−清水戦が23日、埼玉スタジアムで行われた。浦和は同スタジアム周辺を含めて立ち入りを禁じ、広告看板の掲示も控えた。観客席には警備員らと 約440人の報道陣の姿が見られるだけ。静まり返った舞台で行われた試合は、1−1の引き分けだった。

 6万3700人を収容する巨大なスタンドに、ボールを蹴る音と選手の声、審判のホイッスルがやけに反響した。まるで練習試合かのような光景に、浦和のDF槙野智章(26)は「プレーへのリアクションがないのが一番難しかった」とこぼした。

 1993年にJリーグが開幕して20年あまり。選手と同じユニホームを身にまとい、時に跳びはねながら 「チャント」と呼ばれる歌を歌って選手を鼓舞するサポーターの姿は、もはやスタジアムの一部となった。だからこそ、この日の静寂には、もの悲しさが漂っ た。浦和の淵田敬三社長は「サポーターがいてこそサッカーなのだと痛感した」。うそ偽りない本音だろう。

 問題の横断幕を掲げた当事者はクラブ側の事情聴取に対し、「ゴール裏は自分たちの聖地。最近は海外のお 客さんも来て統制が取れない」と語ったという。「大勢の観客を自らが統率している」という感覚が誤った方向に増長し、それを止められなかったクラブの責任 を厳しく問われた結果が、Jリーグ史上初の無観客試合だった。「差別は社会の病気だ。東日本大震災の時、日本は世界と団結していた。それが真の日本の姿の はずだ」と語るのはイラン系米国人のアフシン・ゴトビ清水監督(50)。差別と決別しなければならないことは言うまでもない。

 それとともに、この厳罰が浮き彫りにしたのは、スポーツとファンの関係性だろう。槙野は言った。「選手 は試合中に(肉体の)限界を超えるラインを引き上げながら戦っている。苦しい時間帯には、サポーターの声援によって一歩前に足を踏み出せるが、それがな かった」。声援を送るファンもドラマの共演者だということを、誰もいないスタンドが証明したのだ。

 浦和の主将・阿部は試合後、再発防止策を問われると、「クラブとサポーターが一歩ずつ一緒になってやっていかなければならない」と話し、こう強調 した。「同じ経験をしちゃいけない」。2020年東京五輪を控える日本にとって、差別や観戦マナーは軽視できない問題。誰もが、この苦い経験を対岸の火事 にしてはならない。【平本泰章】

 ◇浦和・ペトロビッチ監督の話

 試合がどう流れていくか、予想がつかなかった。サポーターがいないので、ホームチームにとっては不利だと思ってやっていた。

 ◇清水・ゴトビ監督の話

 試合を楽しむことはできなかった。ファンの声がなかったから。ファンから得られるパワー、エネルギーが足りなかった。無観客試合は、これが最後であってほしい。

 中野幸夫・Jリーグ専務理事の話

 本来あってはならないことがあったことに対する憤りはぬぐえない。スタジアムが泣いているように見えた。見ていてつらかった。


景気「良い方向」倍増=外交への懸念強まる-内閣府調査

2014年03月23日 | いろいろ

景気「良い方向」倍増=外交への懸念強まる-内閣府調査

 

  内閣府が22日発表した「社会意識に関する世論調査」によると、「良い方向に向かっている分野」として「景気」を挙げた人が、前年の11.0%から 22.0%に倍増、この項目の調査を開始した1998年以降最高となった。「悪い方向の分野」では「外交」を選んだ人が最も多く、前年比2.5ポイント増 の38.4%。
 安倍晋三首相の経済政策「アベノミクス」に引き続き期待が高い一方、首相の靖国神社参拝などで悪化した中国、韓国との関係への懸念が反映されたとみられる。
 調査は1月16日から2月2日にかけて、全国の成人男女1万人を対象に個別面接方式で実施。有効回収率は61.9%。
 調査では、良い方向と悪い方向に向かっている分野を、それぞれ26の選択肢(複数回答可)から聞いた。「良い方向の分野」では、「治安」が前年比3.8ポイント増の19.4%、「教育」が同6.3ポイント増の17.2%だった。 
  また、国を愛する気持ちの程度を尋ねる設問では、「強い」と答えた人は同2.7ポイント減の55.3%、国を愛する気持ちを育てる必要性についても「そう は思わない」との回答が同3.1ポイント増の13.2%で、愛国心を重視する安倍政権の姿勢が、国民に必ずしも受け入れられていないことが垣間見られた。 (2014/03/22-17:09)


「ママだって、人間」は革命の書。

2014年03月19日 | いろいろ
LPC BOOK JAPANESE
14.03.17 by
 
 
mamadatteningen.jpg
1985年、「胎児はうんこそのものです」と言い切った伊藤比呂美さんの「良いおっぱい悪いおっぱい」。
1993年、妊娠中に性欲が高まりムラムラムラムラしてたまらなかった・・・と記した石坂啓さんの「赤ちゃんが来た」。
1994年、婚姻と無関係に子どもを生む女の冷静と、母になろうが妊娠しようが性的な存在であることの当たり前が描かれた、内田春菊さんの「私たちは繁殖している」。
今となっては、一つの分野として確立された感のある「妊娠・出産・子育て」エッセー・マンガ分野だけれど、あの頃は、「セキララ」に書かれた女の性やカラダの物語! として、ある種のタブー感や革命感は、うっすらとただよっていたと記憶しています。
 
そんな「タブー感」を、久々に思い出しました。
三人の本を読んだ時の「革命感」を、久々に味わいました。
インターネット連載中から話題になっていた田房永子さんの「ママだって、人間」が、ようやく一冊の本にまとまりました。ネットでは掲載されていないラストに向かい、妊娠、出産、そして子育てまで、一気に田房さんが渾身の力で走るように、闘うように、描いています。
 
そう、田房さん、闘っているのです。
本気で、全身で、誠実に、めちゃくちゃまっすぐに、闘っているんです。
その闘いが、あまりにも「女のため」という視線に貫かれているので、私は読みながらドボドボ泣きました。笑いました。感情、ぐるぐる振り回されました。
 
いっ たい、こんな風に全身に傷を負いながら、倒れても何度も「うりゃー」と立ち上がり闘い、そこで得た気づきを一つ一つ優しいリボンに包んで届けてくれるよう に描かれた妊娠・出産・子育マンガって、あったでしょうか。「私だけの体験」ではなく、同じような体験をしている女たちに向けて、または全く体験していな い女に向けて、こんなにも熱い思いを伝える妊娠・出産・子育てマンガがあったでしょうか。
 
妊娠出産 子育ては、とても個人的な体験。とはいえ、それらは時代と社会と、そしてジェンダー問題を、一気に味わうような体験でもある。社会と時代が「母」に「女」 に何を期待しているのか。そんなことを、変化していく体を抱えながら、小さい命を育みながら、ぶつけられるように知っていく時間なのだと思う。
特 に今の時代、車内のベビーカーが問題になったり、妊婦に向けられる視線の冷たさが話題になるような社会。肩身狭い思いで、正解を求めるように、妊娠出産子 育てを体験しているのだとしたら・・・それは何て、冷たく孤独なことなんでしょう。でも、そんな女の孤独は、あなただけのものじゃない。そのことを、田房 さんは気づかせてくれるのです。
 
 
女のエロも、女の孤独も、夫婦の亀裂も、社会の無関心も・・・全てを含めて今の時代の妊娠・出産・子育てが見えてくる凄い本です。「ママだって、人間」は革命の書だと思った。闘い抜いた、田房さん、ありがとう。書いてくれて、ありがとう!!!(北原みのり)

Listening:「みなさまのNHK」が変だ OB、OGが内情語る

2014年03月19日 | いろいろ

2014年03月19日

参院予算委で民主党委員の質問に答える籾井勝人NHK会長=国会内で12日、藤井太郎撮影
参院予算委で民主党委員の質問に答える籾井勝人NHK会長=国会内で12日、藤井太郎撮影

 ◇政権の意に沿い自己規制−−池田

 ◇「中国の取材困難に」の声−−永田

 ◇視聴者が関われない構図−−堀

 こんな上司がいたら大変そうだ。見識を疑う発言や言論が相次ぐ籾井勝人(もみいかつと)会長や長谷川三 千子(みちこ)、百田尚樹(ひゃくたなおき)両経営委員らを頂く「みなさまのNHK」で何が起きているのか。3人のOB・OG、元プロデューサーの永田浩 三・武蔵大教授(59)、元ディレクターの池田恵理子さん(63)、そして元ニュースキャスターの堀潤さん(36)に語り合ってもらった。【構成・小国綾 子】

 −−局内は今、どうなっているのでしょうか。

 永田 籾井会長の問題発言を受け、ケネディ駐日米国大使へのインタビュー取材が一時難航したり、中国での取材が大変やりづらくなったりしている、と現場から聞きました。NHKは日中国交正常化以来、「シルクロード」などの番組で日中の懸け橋となってきただけに残念です。

 池田 職員は報復人事を恐れ、現体制への不満を私に話すにも「内部検閲で内容をチェックされるかも」とNHKのメールアドレスを使いません。閉塞(へいそく)感が強まっています。

 堀 若手局員から「新聞に意見広告を出したい」と言ってきました。「現場の局員は会長発言と一体ではない。公共放送人である私たちは、職場が政界や財界の思惑に巻き込まれ嘆いている」という内容です。局員名では難しいので僕たちのような辞めた者の名前でできないかと。

 −−ニュースはどうですか。民放に比べ安倍晋三首相の外遊の扱いが不自然に大きかったり、福島第1原発事故の汚染水問題の扱いが小さかったりしませんか。

 池田 政権批判ができていない。特定秘密保護法の問題点を掘り下げなかった。天皇誕生日の会見で天皇は 「日本は平和と民主主義を守るべき大切なものとして日本国憲法をつくった」と憲法への思いと評価を語ったが、NHKはここを流さなかった。「ライフワーク は憲法改正」という安倍首相の意に沿った自己規制かと疑ってしまいます。

 永田 ニュースにおける安倍首相の露出度が極端に増えた気がします。変わってきたのは2012年、民主党の野田佳彦政権が早晩倒れるとわかったあたりからですね。

 堀 僕が米国留学中に製作した原発映画を巡ってNHKとやりあっていた頃です。当時、局幹部に言われた のは「ただでさえNHKは反原発だと思われているから、バランスを欠かないよう気をつけてくれ」でした。おかしいですよね。むしろ財界からトップを送り込 まれているNHKは「貿易赤字が拡大する今、脱原発一辺倒でいいのか」となりやすいのに。

 −−報道内容にまで影響が出るのは、籾井会長か誰かが指示したからですか。

 堀 誰かの指示というより「空気」を読んだ結果。

 永田 僕は現役時代、ニュースの編集会議にも出席していたから、各ニュース番組の編集長が「特定秘密保護法の問題点を特集します」と突出することを避けたのだろうと想像できます。「国会の力関係を見れば法案可決は間違いなさそうだ」となると、あえて声を上げない。

 池田 現場への管理や締め付けが格段に厳しくなっているようです。番組の構成や台本をプロデューサーが 仕切ってディレクターはその指示通りに動くだけとか、最終試写はプロデューサーの仕事なのに、部長クラスやもっと上の人がするとか。私は一時期、積極的に 「慰安婦」番組を作ったが、2001年以降、ほとんど作られていませんね。

 −−永田さんはプロデューサーとして01年、従軍慰安婦に関する「番組改変問題」に関わりましたね。

 永田 女性国際戦犯法廷での慰安婦証言を取り上げた番組が政治介入を疑われる状況下で改変されたこの問 題に、局員は二つのことを学んだ。NHKは政治家の介入に弱いこと。もう一つはそれにあらがおうとすると人事的制裁を受けることです。僕を含めた関係者は “左遷”されました。

 池田 「改変問題」で政治介入したとされる一人は安倍首相。あの頃からNHKを自分の広報機関として支配しようと考えたのではないか。

 −−籾井会長が辞めても安倍政権が代わらない限り同じだ、との声を聞きます。

 堀 NHKは国会で予算の承認を受けるため、政界や官僚機構と複雑な交渉が必要だという構造的な問題がある。この点は安倍首相から次の政権に代わろうと同じです。

 永田 時の政権がNHKの会長や副会長を推し、影響力を及ぼしてきた歴史は長い。吉田茂内閣の時も、佐藤栄作内閣の時も。ただ、自分の「お友だち」を4人経営委員にし、再任を含めれば5人が安倍首相に近い人。これほど露骨なのは初めてです。

 −−NHKが政治介入に弱いのはなぜでしょうか。

 永田 政治家の直接介入以外にも、当面の事情として、放送センターの建て替えのために巨額の予算を国会に認めてもらわなければいけない。

 堀 インターネットとの連携が悲願のNHKにとって、総務省と事を荒立てることは避けたい。本来、公共 放送は「みなさまのNHK」、つまり視聴者のものでなければいけない。ところが視聴者が関われる部分がほとんどない。会長や経営委員の任命権が受信料を払 う我々の側にないのがそもそも問題ではないか。

 永田 NHKの事業計画や予算の承認を国会がするのは、国民の選んだ議員でつくる国会は視聴者の代表で もある、との理念からです。ところが現実には予算や人事権を「人質」に取られ、政争の具にされている。NHK職員には会長を辞めさせる権限がないんです。 会長の任命、罷免権は経営委員会にあり、経営委員は国会の同意を受けて総理大臣が任命する。それならばと会長らの罷免を安倍首相に求める署名を集めても、 安倍首相は「政府の介入があってはいけない」と反論できる。巧妙なシステムです。

 池田 政治介入にあらがおうにもNHKの職員には「表現の自由がない」に等しい。市民集会での発言は抑 えられ、本の出版は事前に原稿のチェックを受けるのが当たり前になっているという。以前では考えられない。籾井会長や経営委員は問題発言をしても「個人的 な見解」と言って逃げるのに職員は「個人的な見解」を述べられないのです。

 堀 僕は現役時代、ツイッターで自由に発言し局からストップがかかった。でも同僚らが局側の弁護士から「表現の自由は内規にまさる」と言質を取ってくれた。

 −−視聴者側にできることはありますか。

 堀 視聴者が関われるシステムをもっと増やせ、と声を上げてほしい。僕は真の公共放送の場、多様な言論空間をNHKの外につくりたい。実は僕の活動に多くの現役局員が参加してくれています。

 池田 「声を上げよう」という組合の分会の動きや、今こそ「慰安婦」番組を、という声もあるようです。外からも応援したいですね。

 永田 内側の職員と、我々外側の市民が一緒になって事態を切り開きたい。………………………………………………………………………………………………………

 ■人物略歴

 ◇いけだ・えりこ

 1973年入局。アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)館長。個人として「慰安婦」被害者の証言記録運動に携わった。

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 ■人物略歴

 ◇ほり・じゅん

 2001年入局。市民投稿型ニュースサイト「8bitNews」主宰。米国留学中に作り、上司に上映阻止されたビデオ映画をもとに「変身メルトダウン後の世界」を製作。

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 ■人物略歴

 ◇ながた・こうぞう

 1977年入局。シリーズ「戦争をどう裁くか」のNHK側の統括プロデューサーだったが番組改変問題で東京高裁で証言して以降、番組制作から離れた。


差別の横断幕:スタンドで掲げた観客の入場禁止検討

2014年03月12日 | いろいろ

毎日新聞 2014年03月12日 11時49分(最終更新 03月12日 14時03分)

 今月8日に埼玉スタジアムで行われたサッカーJリーグ1部の浦和−鳥栖戦の試合中、スタンド内に差別的 な表現を含む横断幕が掲げられた問題で、浦和が横断幕を掲出した観客の試合会場への入場禁止処分を検討していることが12日、分かった。近く結論を出し、 発表される見込み。

 横断幕は「日本人以外お断り」の意味もある「JAPANESE ONLY」と書かれたもので、浦和サポーター席へ入るゲートに掲げられていた。試合後に撤去された。浦和では、掲げた人物を特定し、事情を聴いていた。今後も、なぜ横断幕を掲出したかなどの調査は進める。

 また浦和の関係者によれば、クラブではこれまで横断幕の内容について「差別的な意味に解釈できる」と若干幅を持たせていたが、「差別的表現」と認識を改めるとしている。【村社拓信】


(昭和史再訪)ベ平連、脱走兵援助

2014年03月07日 | いろいろ

 ■昭和42年(1967年)10~11月

 時折小雪が舞う2014年正月明けの午後、神奈川県横須賀市中心部にある米軍横須賀基地正面ゲートでは、米軍人らしい短髪の若者が、三々五々出入りしていた。横須賀を母港とする原子力空母ジョージ・ワシントンが寄港中で、市内はいつもより米軍人が多いという。ほぼ半世紀前、ベトナム戦争の最中、この基地に停泊していた空母イントレピッドから、4人の水兵が脱走する事件があった。

 「えっ、脱走兵!?」。東京・お茶の水の「ベ平連(ベトナムに 平和を! 市民連合)」事務所で電話を取った吉川勇一事務局長(82)が声を上げたのは、1967年10月28日午後のこと。米水兵4人は東京に出て、 ヒッピーのたまり場だった新宿の喫茶店「風月堂」に行き着いた。彼らは、たまたま店の前を通りかかった東大生に、安く泊まれるところはないかと声をかけ た。

 東大生は彼らを友人宅に連れていき、さらに聞くと「エスケープ・フロム・USネイビー」。ベ平連が米軍兵士に脱走を呼びかけているのを知っていた彼は、ベ平連事務所に連絡したのだった。

 米国が共産主義の北ベトナムを空爆し、戦争に本格的に介入していた65年4月、作家小田実(まこと)、哲学者鶴見俊輔さんらが「アメリカはベトナムから出て行け」とベ平連を結成した。戦場の様子はテレビで報道され、一般市民にも反戦の思いが高まっていた。ベ平連は政党や組合とは一線を画し、市民による非暴力のデモを繰り返して反戦を訴えた。

 米水兵と会い、意思を確認した吉川さんらは、4人を世話人の一人が住む池袋の公団住宅に連れて行き、16ミリフィルムに彼らの決意表明の様子を収めた。不測の事態に備え、記録を残しておくためだった。小田や鶴見、作家開高健らが同席した。

 NHKディレクターを辞め、ベ平連の世話人をしていた、当時33歳の作家小中陽太郎さん(79)は、すぐかけつけ、撮影を手伝った。

 「まだ19か20の童顔の若者が、この戦争は正しくない、自分は米国憲法の精神に従って行動した、と堂々と語るのには、感銘を受けた」と小中さんは思い起こす。

 数日後、小中さんは長野・蓼科の作家堀田善衛(よしえ)の別荘にかくまわれていた彼らを車で迎えに行き、横浜港からソ連・ナホトカ航路の客船バイカル号に乗せた。ソ連大使館から日本の領海を出れば保護する、という了解を得ていた。

 公海に出たと確認された11月13日、ベ平連は記者会見し米兵脱走を公表。会見の場でフィルムを流すと、内外の記者から驚きの声があがった。1週間後、4人はモスクワで記者会見し、事件は世界的ニュースになった。彼らはその後、スウェーデンに移った。

 以後、北海道から漁船でソ連に密航するルート、偽造旅券でフランスに渡るルートが作られ、ベ平連の手で20人前後の米兵が海外に脱出した。

 立教大学助教授を辞任して脱走兵援助運動に従事した翻訳家高橋武智さん(78)は「ベ平連運動は68年前後の若者の反乱の潮流の一つだった。世界中が沸き立っていた時代だった」と語る。

 脱走兵援助や新宿駅構内で反戦歌を歌う「フォークゲリラ」で中心的に活動した作家吉岡忍さ ん(65)は「ベ平連はぼくにとって、路上の大学だった」と話す。デモをしながら、隣にいる一級の知性から読むべき本を聞いた。男子は髪を伸ばし、ジーン ズをはき始め、女の子はしゃれたミニスカート姿。「反戦だけでなく、カルチャーもファッションも最先端で、ある種の文化革命だった」(牧村健一郎)(牧村 健一郎)

 ■「殺すな」 米紙に意見広告

 南北に分断されたベトナムで、北をソ連と中国が、南を米国が支援し、ベトナム戦争は泥沼化した。ベ平連は、米紙に反戦意見広告も出した。1965年ニューヨーク・タイムズには、鋭いくちばしのワシの隣に、ハトが涙を流す図を配し「爆弾でベトナムに平和をもたらすことができるか」。67年、ワシントン・ポストには、画家岡本太郎による「殺すな」という大きな字を載せた。この字をもとに、デザイナー和田誠さんが手がけた反戦バッジは、若者が競ってつけた。

 ベ平連を名乗るグループは全国で390にのぼったという。73年、パリでベトナム和平協定が調印され、翌年1月、東京ベ平連は解散した。

 ■証言:ベ平連元事務局長 吉川勇一さん(82)

 脱走兵が現れたと知ったときは、正直いってびっくりした。米軍基地の前で、脱走をすすめるビラを配ってきたが、簡単に出てくるとは思わなかった。でも何とか助けなければならない。その場その場で考えていった。理念では知っていた「市民的不服従」に直面し、実践した体験だった。

 記者会見の後、手紙や電話、現金、小切手が次々に寄せられ、事務局は対応でおおわらわだった。ベトナム戦争は、戦後日本の家庭に持ち込まれた初めての戦争だった。テレビ、新聞、週刊誌がこぞって取りあげ、戦争が家庭のなかに入ってきた。多くの人は戦争や空襲を経験し、ベトナムの人々を思いやった。

 脱走兵という概念をひっくり返した衝撃もあった。日本で脱走兵といえば、長く非国民、裏切り者という認識だったが、大きく変えた。その象徴が、記者会見の数日後に、新聞に載った政治漫画(近藤日出造作)だ。その漫画は、リンカーンの像の前に4人の脱走兵が並んでいる。民主主義を体現するリンカーンと脱走兵を同一視していた。

 今振り返ると、ベ平連を含め当時の反戦運動は、社会運動として必ずしも成功したとはいえないが、運動を通じ、個々人が、国や国民という概念を超え、世界の市民・人間の一人だ、とみる考えが生まれた。それぞれのその後の生き方に、影響を与えたと思う。