昨日はツレ・トモ・地頭とともに、初めてひとりきりでの自習ではない 本格的な稽古を致しました。型や謡について打合せを始め、また ぬえの要望も出して、これから少しずつ骨格を作っていく作業に進んでいきます。
また師匠にも今月から稽古を見て頂く事をお願いし、下旬にはじめて稽古をつけて頂ける事になりました。
普段 ぬえや、ぬえと同じような段階の門下の場合には、自分で稽古をしておいて、公演の1~2週間前に一度だけ師匠に稽古をつけて頂く、というのが普通です。さらに稽古能で再度師匠に見て頂く事もあり、最終的には申合で最後のご注意を頂いて当日に臨む、というパターン。
今回は『朝長』という大曲なので、1ヶ月以上前の今から師匠に稽古をはじめて頂くようお願いしました。申合よりずっと以前に、複数回の稽古をお願いしたのは『乱』や『望月』『石橋』、そして『道成寺』以来の事になります。
さて、『平治物語』。なんせ時代背景が複雑な物語で。
はやく稽古状況を書き込みしたいよう。(^^;)
平治2年正月7日、長田忠致・景致父子が野間より上洛、前左馬頭・源義朝とその郎等・鎌田兵衛正清の首を持って上洛しました。早速 検非違使によって首実検が行われ、9日その首は都を渡されて獄門に掛けられました。
翌10日、改元となって永暦元年となります。23日、除目が行われ、長田忠致は壱岐の守に、その子景致は兵衛尉に任じられました。ところが長田父子はこれを不服として播磨国を賜るか、または本国である美濃・尾張を望みました。これを聞いて平家方でも「長年仕えた主君と実の婿を害したうえに過分な望みとは、あやつの手足の20本の指を20日に分けて切り落とし、首を鋸で引き切りたいものだ」という声が上がります。清盛は当面、その声をなだめますが、清盛・重盛も内心 長田を憎んでいると内々に聞こえると、長田父子は急いで尾張に逃げ帰りました。
【義平の最期】
25日、石山寺に潜んでいて捕らえられた義朝の嫡子・悪源太義平が都の六波羅に引き出されました。義平は青墓で父・義朝の命を受け飛騨に下りましたが、そこで軍勢を集めるのもままならず、そのうえ義朝が討たれたと聞こえましたので、せめて清盛父子なりとも討って果てようと都に上っていたのです。ところが六波羅の様子を窺う義平の姿が露見して、去る18日にはいったんは平家の寄せ手に囲まれたのを、からくも脱出して石山寺に潜んでいたのでした。同日義平は難波三郎経房に仰せて六条河原にて誅されました。
【朝長の首、頼朝の身柄、都に渡される】
2月9日、生け捕りにされた頼朝の身柄と朝長の首が同じく六波羅に渡されました。平頼盛の家人、弥平兵衛・宗清が本国尾張より上洛する途中、不破の関のあたりで物陰に隠れようとした者を捕らえて見れば、これがまさしき頼朝だったのです。さらに都へ向けて進むほどに宗清は青墓に到着しました。聞き及ぶところがあって裏庭に出てみると、新しく築いた塚があります。これを掘らせてみると若者の首と骸があわせて葬られてありました。問いつめられた大炊は力及ばず朝長の骸であることを告げ、宗清は喜んで朝長の首を都に運ばせました。
その後青墓では義朝と延寿の娘・夜叉御前が、父と三人の兄弟が誅されまた捕らえられたのを悲しんで2月11日に川に身を投げてしまいました。11歳の幼い命でした。延寿もこれを嘆き同じ流れに沈もうとするのを大炊が引き留め、彼女は尼となって夫と姫君の菩提を弔いました。
【頼朝・常盤の子たちの処遇】
頼朝は彼を捕らえた弥平兵衛・宗清のもとに預けられていましたが、今日明日にも誅せられるという噂が聞こえてきて、宗清は頼朝に向かって「御命助からんとは思召し候はずや」と問えば、頼朝は「僧法師にも成りて父祖の後世を弔はばやとと思へば命は惜しきぞ」と答えます。宗清も哀れに思って、主君頼盛の母で清盛には継母にあたる池禅尼に相談すると、池禅尼も亡き我が子・家盛に頼朝が似ていると聞いて同情し、平重盛を呼んで清盛に頼朝の助命を願い出ます。頼朝が禅尼の涙ながらの説得はついに清盛の心を動かし、頼朝は伊豆へ遠流と定められました。
常盤は乙若・今若・牛若の三人の幼子を連れて奈良の伯父のもとを頼ってひそかに下向します。ところが平家はなおも義朝の子どもたちを追求していました。常盤の行方が知れないと見るや、その母を召して散々に問い詰めます。奈良でこれを聞いた常盤は子どもたちを連れて急ぎ都に帰ります。まず常盤が雑仕女として仕えた八条院の御所へ参ると、人々は彼女に同情して厚くもてなし、以前のように着飾らせて清げな車に載せて六波羅へ遣わしました。
子どもを連れてけなげにも参上して、涙ながらに母を助けるよう願う常盤の有様、またその美貌にも心動かされた清盛によって子どもたちはいずれも死罪を免れました。乙若は醍醐寺に上って出家し、今若は八条院に仕える坊官法師となり、牛若は鞍馬寺の禅林坊阿闇梨・覚日に預けられて遮那王と申します。
→前の記事 『朝長』について(その8=朝長の最期)
また師匠にも今月から稽古を見て頂く事をお願いし、下旬にはじめて稽古をつけて頂ける事になりました。
普段 ぬえや、ぬえと同じような段階の門下の場合には、自分で稽古をしておいて、公演の1~2週間前に一度だけ師匠に稽古をつけて頂く、というのが普通です。さらに稽古能で再度師匠に見て頂く事もあり、最終的には申合で最後のご注意を頂いて当日に臨む、というパターン。
今回は『朝長』という大曲なので、1ヶ月以上前の今から師匠に稽古をはじめて頂くようお願いしました。申合よりずっと以前に、複数回の稽古をお願いしたのは『乱』や『望月』『石橋』、そして『道成寺』以来の事になります。
さて、『平治物語』。なんせ時代背景が複雑な物語で。
はやく稽古状況を書き込みしたいよう。(^^;)
平治2年正月7日、長田忠致・景致父子が野間より上洛、前左馬頭・源義朝とその郎等・鎌田兵衛正清の首を持って上洛しました。早速 検非違使によって首実検が行われ、9日その首は都を渡されて獄門に掛けられました。
翌10日、改元となって永暦元年となります。23日、除目が行われ、長田忠致は壱岐の守に、その子景致は兵衛尉に任じられました。ところが長田父子はこれを不服として播磨国を賜るか、または本国である美濃・尾張を望みました。これを聞いて平家方でも「長年仕えた主君と実の婿を害したうえに過分な望みとは、あやつの手足の20本の指を20日に分けて切り落とし、首を鋸で引き切りたいものだ」という声が上がります。清盛は当面、その声をなだめますが、清盛・重盛も内心 長田を憎んでいると内々に聞こえると、長田父子は急いで尾張に逃げ帰りました。
【義平の最期】
25日、石山寺に潜んでいて捕らえられた義朝の嫡子・悪源太義平が都の六波羅に引き出されました。義平は青墓で父・義朝の命を受け飛騨に下りましたが、そこで軍勢を集めるのもままならず、そのうえ義朝が討たれたと聞こえましたので、せめて清盛父子なりとも討って果てようと都に上っていたのです。ところが六波羅の様子を窺う義平の姿が露見して、去る18日にはいったんは平家の寄せ手に囲まれたのを、からくも脱出して石山寺に潜んでいたのでした。同日義平は難波三郎経房に仰せて六条河原にて誅されました。
【朝長の首、頼朝の身柄、都に渡される】
2月9日、生け捕りにされた頼朝の身柄と朝長の首が同じく六波羅に渡されました。平頼盛の家人、弥平兵衛・宗清が本国尾張より上洛する途中、不破の関のあたりで物陰に隠れようとした者を捕らえて見れば、これがまさしき頼朝だったのです。さらに都へ向けて進むほどに宗清は青墓に到着しました。聞き及ぶところがあって裏庭に出てみると、新しく築いた塚があります。これを掘らせてみると若者の首と骸があわせて葬られてありました。問いつめられた大炊は力及ばず朝長の骸であることを告げ、宗清は喜んで朝長の首を都に運ばせました。
その後青墓では義朝と延寿の娘・夜叉御前が、父と三人の兄弟が誅されまた捕らえられたのを悲しんで2月11日に川に身を投げてしまいました。11歳の幼い命でした。延寿もこれを嘆き同じ流れに沈もうとするのを大炊が引き留め、彼女は尼となって夫と姫君の菩提を弔いました。
【頼朝・常盤の子たちの処遇】
頼朝は彼を捕らえた弥平兵衛・宗清のもとに預けられていましたが、今日明日にも誅せられるという噂が聞こえてきて、宗清は頼朝に向かって「御命助からんとは思召し候はずや」と問えば、頼朝は「僧法師にも成りて父祖の後世を弔はばやとと思へば命は惜しきぞ」と答えます。宗清も哀れに思って、主君頼盛の母で清盛には継母にあたる池禅尼に相談すると、池禅尼も亡き我が子・家盛に頼朝が似ていると聞いて同情し、平重盛を呼んで清盛に頼朝の助命を願い出ます。頼朝が禅尼の涙ながらの説得はついに清盛の心を動かし、頼朝は伊豆へ遠流と定められました。
常盤は乙若・今若・牛若の三人の幼子を連れて奈良の伯父のもとを頼ってひそかに下向します。ところが平家はなおも義朝の子どもたちを追求していました。常盤の行方が知れないと見るや、その母を召して散々に問い詰めます。奈良でこれを聞いた常盤は子どもたちを連れて急ぎ都に帰ります。まず常盤が雑仕女として仕えた八条院の御所へ参ると、人々は彼女に同情して厚くもてなし、以前のように着飾らせて清げな車に載せて六波羅へ遣わしました。
子どもを連れてけなげにも参上して、涙ながらに母を助けるよう願う常盤の有様、またその美貌にも心動かされた清盛によって子どもたちはいずれも死罪を免れました。乙若は醍醐寺に上って出家し、今若は八条院に仕える坊官法師となり、牛若は鞍馬寺の禅林坊阿闇梨・覚日に預けられて遮那王と申します。
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