仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

信砂川鉄橋列車転覆事故(その2)

2009年05月30日 | じもてぃーライフ
信砂川鉄橋列車転覆事故】のつづき。
公式記録がわずかしか残されていない同事故であるが、『ましけむかし記録保存事業/第1号』(平成13年/増毛町教育委員会・元陣屋)に記載されている元郵便局員・小○金太郎氏(故人)の体験談の中に興味深い記述がある。
一部を引用すると、
↓ここから
(前略)ポーポーと汽車の非常汽笛が鳴ってて、(とっさに立往生だと判断し)私はスコップを持って人夫6人と青年団員をつれて駆けつけた。
(中略)やっと動けるようになり、5時頃になってようやく発車。
私は最後部に乗込み、連れていった人夫などが乗ったか人数の確認をしながら次の車両に渡り戸を閉め、取っ手から手を離すと同時に、ギィーというブレーキの音とともに列車は急停止した。
窓の戸を開けてみると、(たった今自分がいたばかりの)後部の客車がない。
下の河原を見ると、客車が腹を上にして横たわっていた。
夢中で堤防を駆け降りて客車に近づき、救出しようとしたが、戸も窓も開かず、スコップでガラスを割って中に入った。
列車は逆さで座席が頭の上にあるため、狭くて救出はきわめて困難であった。
とにかく車両から外へ出さなければならないので、負傷者を腹や背中に乗せ、少しずつずって(這って)外へ運び出した。
救出が終わり、家に帰って自分のからだを見ると、全身血を浴びて真っ赤に染まっていた。
すでに12時を回っていた。
(後略)
↑ここまで
同誌は聞き取りの記録であり、小○氏は当時(50年以上前)の出来事を思い出しながら話していたと思われる。
汽車が吹き溜りから脱出した時刻については『増毛町史』(昭和49年/増毛町)の記述とずれがあるのだが、充分に現場の様子を残した貴重な記録であることは間違いない。
そして、これは『新増毛町史』(平成18年/増毛町)でも触れておきたい部分ではあったものの、同誌は昭和45年前後以降を範囲としており、年代的に収録範囲外であったことと原稿枚数の関係で、残念ながら記述を見送ったのだった。
つづく