虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

もやもやした憂鬱な気分と生きる力

2012-11-14 22:03:24 | 日々思うこと 雑感

↑ 100円グッズを分解して、ブロックに輪ゴムで装着しました。

ぴったりサイズでかわいいです。

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(過去記事から……季節はずれの話題から始まりますがすいません~)

 

このごろ、嫌な天気が続きますね。

5月には「これって5月病かな?」と感じるような何となくぼんやりした不調が心に生じがちですよね。

6月になると、それに続いて梅雨のせいで身体の不調まで加わわって、
何もなくても憂鬱でどんよりした気分になりがちです。

私も定期的にこの憂鬱でどんよりした気分に陥るときがあります。

といっても、この「どんより鬱々とした気分」に浸ること自体、それほど嫌いじゃありません。

「どんより鬱々とした気分」に陥ったとき、
私がまずするのは、
もやもやの気分のもとを静かに眺めてみて、その理由だと思っていたものや、ぐるぐる同じ場所を回っていた考えや、
期待や願望や罪悪感や習慣的に執着していた物事を
手放していくことです。


心からできるだけノイズを減らして、
クリーンでスッキリした状態に近付けていくと、
それまで気付かなかった「どんより鬱々とした気分」のもとが見えてきます。


たいがいが「Aをしても、Bをしても、Cをしても、問題が起こる。どれもしなかったとしても問題が起こる」という状況に巻き込まれていたり、

他の人が悩むべきことを私が勝手に引き受けて悩んでいたりします。


また、ダブルバインドという矛盾するふたつのメッセージを受けやすい状況になっていたり、

何らかの理由で、私の言動が相手をダブルバインドの状況に陥らせていたりするのも、

鬱々した気持ちの背後に見えてくるもののひとつです。

ダブルバインドというのは、最初に「これこれしてはダメ」という否定的なメッセージが出され、
次にそれと矛盾する否定的なメッセージが出されて、
その矛盾する事態から逃げ出してはならないという3つめのメッセージがあるという状況です。

「Aをしちゃダメ、Aをしないのもダメ、この状況から逃げるのもダメ」という

かつてグレゴリー・ベイトソンが
その状況に置かれた人は統合失調症に似た症状を示すと指摘した状況です。
(統合失調症の原因はまだ不明な点が多いので、ダブルバインドと直接、関連つけることはできないです)



「何らかの理由で、私の言動が相手をダブルバインドの状況に陥らせている」というのは、
発達障害のある子を育てている親御さんとの間で生じることがあります。

なぜそんなまずい状況に陥るのかというと、
その背後には、公立小も私立小も発達障害児への支援の体制が
ひとりひとりの子の最善を考えられるところまで整っていないということがあります。

何が必要なのか、何が正しいのかといったごくごく基本的なことさえ、
現場で対応が練られていなかったり、
解決法が共有されていなかったりするのです。

そこで、発達障害をもっている子たちは、その子なりに精一杯がんばっていても、
しょっちゅう困ったことにぶつかるか、
問題を先送りして悪化させてしまいます。

親御さんにしても、私に解決法を相談したり、本やネットで解決法を探ったとしても、
「学校での問題は学校の協力なしには解決しない」
という無力感につながる答えにしか
たどりつけないことが多いのです。

そうした支援が整っていない場というのは、
問題を見えにくくするために、
「子どもが悪い」とか「親が悪い」とか「先生が悪い」とかといった
悪者探しや、

「クラスの他の生徒に迷惑をかける場合、特別支援教室に入れざる得なくなる」といった
見えない圧力があるものです。

そうした表立った問題はなくても、
「お客さん」状態で授業を受けるうちに、だんだん勉強が手に負えなくなって
困る子も出てきます。

小学校での発達障害の子への支援をどう整えるのか、
特別支援級での支援だけでなく
普通級で学んでいる発達障害のある子たちへの対応を
いろんな人が意見を出し合って本気で考えていく必要があるんだろうな、と思います。

そうでなければ、「子どもの心に配慮する」「子どもの自己肯定感を高める」という
当たり前とも思われるメッセージが、
親御さんにとってダブルバインドの状況を作りだし、

「Aをしちゃダメ、Aをしないのもダメ、この状況から逃げるのもダメ」

という心をかき乱すメッセージとなってしまうことがあるのです。

この問題は簡単に書ききれません。またの機会にくわしく書きますね。

話がずいぶんそれましたが、
最初に私は「どんより鬱々した気分」に陥るのがそれほど嫌いではない……
と書いたのは、
だいたいこういう「もやもや~」とした不愉快な気分は、
自分の本当の気持ちや直視してこなかった現実の抱えている問題に
向き合うきっかけをくれることが多々あるからです。

こういう気分とうまく付き合えるようになってきたことが、
私にとって、何十年もかけて身についてきた「生きる力」のひとつだなと感じています。

「生きる力」さえあれば、うまくいかなそうなことも、やってみる力が湧いてくるし、
実際結果がうまくいかなくても、それはそれ、と立ち直りが早いです。


勝負師の世界で無敗伝説を築いた桜井章一氏が、次のようなことをおっしゃっていて、「なるほど」と納得したことがあります。

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才能を磨かない。「生きる」という才能があれば十分だ。
人の才能や能力いうのは、相対的なものだ。
そんなものより私はもっと人の根っ子にある大きな才能のほうが大事だと思う。
それは何かというと「生きる」という才能だ。
生きとし生けるものはみな生命に恵まれて、生命を連続させることで今を生きている。
私はそれこそが人が持つ
普遍的な才能だと思う。
世間で最も評価される才能や能力にばかり関心がいくと、「生きる」という才能は
いつの間にか忘れられてしまう。
そんな才能や能力と違って、人が生命を連続させて、「今ここにある」という才能は
普遍的な強さを持つすごいものだと思う。

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そういえば、うちのダンナやうちの子たち、欠点もたくさんあるし、
しょっちゅううまくいかないことにぶつかっているけど、「生きる力」は
強いです。
娘にしても、ものすごく大きな挫折を経験しても、
「こんな気分のときは、友だちと思い切りしゃべらないとスッキリしないわ」といって家を飛び出して行ったり、
「部屋の徹底掃除でもすれば、あきらめがつくわ」といって動きまわっていたかと思うと、
さっぱりした様子で「それなら、ゼロからやりなおせばいいわ」という結論に行きついています。
「生きる力」の方が強くて、うずくまりそうになる気持ちを押し切ってしまうようです。

ダンナも息子も超人的に「生きる力」が強いので、きっと無人島に流されても、
なんとか楽しくいきていくはず……。

世間で評価される才能や能力だけが注目を浴びがちだけど、
こうした地味な「とにかく生きていく」という力も大事なんだなと再確認しました。

 



今日の記事は、自分用の日誌のようなものなので、だらだらと長ったらしく自分の気持ちについて書いていますから、
忙しい方はスルーしてくださいね。



私は、「このどんより鬱々とした気分に浸ること自体、それほど嫌いじゃありません」などという自分の「何だか変」な
感じ方を言葉にしたのですが、
それについてもう少しくわしく説明することにしますね。

「どんより鬱々とした気分」の背後には、たいてい言語化されていない、意識にのぼってすらいない
「もやもやとくすぶっている考え」が隠れているのです。

私は、これまでの経験から、この「もやもやとくすぶっている考え」に対して、
ある種の奇妙な信頼感のようなものを持っていて、
「もやもや」を感じ取ると、まるで名探偵にでもなった気分で、
「あれっ?何かおかしい」「どうもしっくりこない」
と、自分の心や最近の出来事に探りを入れ始めるのです。

ある種の奇妙な信頼感というのは、
自分が今、感じていることや、考えていることや、信じていることや、見えていることよりも、

この「もやもや」を信用するというか……
「火のないところに煙は立たない」ということわざじゃないですけど……

これといった理由は見当たらなくても、「もやもや」と心がくすぶるからには何か未解決の問題があるし、
潜在している課題があるし、
それを突き止めて、言語化して向き合えば、必ず次の段階に進めると
直観しているところがあるのです。

そのために、憂鬱になった時点で、ちょっとワクワクもしているという
奇妙な心の状態があります。

といっても、ワクワクするには、問題を突き止めて解決する自信があって、
それに至るプロセスが具体的にわかっていないと難しいです。


『「脳にいいこと」だけをやりなさい』 マーシー・シャイモフ著 茂木健一郎訳  三笠書房
に、次のようにありました。

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研究によれば、人は一日に六万個の物事を考えていて、その95パーセントは前日も前々日も
考えていたことだといいます。
問題なのは、その習慣的な考えの約80パーセントが
ネガティブなものだということ。
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私は楽観的でルーズな性格な上、
もともと短期記憶が弱いので、
何かするときは今現在していること以外ほとんど考えることがありません。
それで、「ネガティブなことを考えることって、一日、5パーセントもあるかなぁ?」という程度なのですが、
(その5パーセントも、たいてい食べ過ぎと肩コリについて……と平和なものなので)

それでも、毎日、生活して、働いて、人と交流していれば、
いつの間にか「もやもやした憂鬱な気分」を抱え込んでいることはめずらしくありません。


ずいぶん後になって、その「もやもやした憂鬱な気分」を振り返ると、

「今ならみんなの常識となっていることが、
その時期には言葉にするのもはばかれるようなタブーになっていて、
考えたり言葉にしたりするのも悪いような空気があったんだな」

と、時代の変化とともに、自分も周囲の人も、同じ問題に対する捉え方が、180度変わっていることに
驚くことがあります。
だから、悩む必要はなかった、憂鬱な気分に落ち込まなければよかったというわけではなく、

もやもやしていたからには、

そこには解決しなくてはならない
潜在的な未解決の問題が存在していて、

それは個人的な悩みというより、
その時代と社会が抱えている難題である場合も多いんだな、とも思いました。


たとえば、そのもやもやが、主婦同士の人間関係上の
すれ違いが原因で起こっていたとしても、
性格がどうのとか、言いすぎた言葉がどうのといった表面的な問題ではない
「もやもや」のねっこがあるのではないでしょうか。

それをたどっていくと、
「公園デビュー」とか「ママ友」とかいう言葉に不快感を抱きつつ
やむを得ずその上に関係が築かれていったために、
ある程度親しくなった時点で、

こうした言葉が作っている人間関係の問題を改善しなくては
いてもたってもいたれないようなジレンマに陥る……なんてことが
誰にも起こってくるんじゃないかな?……
それは初め「もやもやした憂鬱な気分」として
心に浮上してくるんじゃないかな?
と思うのです。


何を言いたいのかさっぱりわからないかもしれませんが、
うまく言葉にできないので、ごめんなさい~。

話は変わって
数年前、私が子どもを預かる有料ボランティアをしていた頃、
私の「もやもやした憂鬱な気分」のもととなっていたことは、

おそらく当時、保育の関わっている多くの人々が
同じように自分の中にくすぶらせていた「もやもや」ではないか、
と感じています。
個人の悩みだけど、個人の悩みではない気がするのです。


この有料ボランティアは、
親御さんが病院に行くなどの用事で出かける際、
利用していただくことがよくありました。

市の有料ボランティアとはいえ、長時間になると、けっこう料金がかさむため、
「本当は連れて行きたいのだけど、子どもがあまりに聞き分けがないので、
とても連れていく自信がない」という理由で預かることが
よくありました。

すると、親御さんが「連れて行けない」と判断するのもごもっとも、と納得するほど、
子どもが突拍子のない危険なことを次々としようとしたり、
奇声をあげ続けていたりする場合が多々ありました。


言葉の遅れだけではなく、手をひらひらさせたり、
ピョンピョン飛び続けたりといった
さまざまな常同行動がたくさん見られて、
現在なら、病院で自閉症の診断がつくだろうと思われる子も
当時はたいていが、相談先から「様子を見ましょう」と言われるか、
「もっと子どもにかまってあげて」とアドバイスされるか、
「集団に入れるとよくなるから……」と保育園に入るように勧められることどまりでした。

預かった際に、子どもが、
物を壊したり、階段から飛び降りようとしたり、外に飛び出そうとしたりするなど、
危険な行為を繰り返す場合、
親御さんと市の職員さんに渡す報告書に
起こったことをひとつひとつ細かく書いて提出する必要がありました。

が、そこで私がもやもやと気持ちをくすぶらせて悩んでいたのは、

子どもを預けにきている親御さんが、すごく大変な子育てから解放されて、
ひとりで外出したとたん、
子どもがこんな悪いことをした、あんな危険なことをした……と矢継ぎ早に言われたのでは、
次から困っても他人を頼ることができなくなるんじゃないか……?
ということなのです。

親御さんの姿から、子育てに疲れ果てていて、
どんなささいな指摘にも、過剰に敏感になっているのが伝わってきましたから。



といって、正しい報告をしなければ、次にどんな事故につながるか
わかりません。
報告するだけでなく、子どもを預かる側が
情報を共有して、
事故をふせぐ手立てを打っておく必要があります。

でも、発達障害についての情報を目にすることがほとんどなかった当時は、
そうした問題について話合うことすらタブーとなっているところがありました。

話題にできないので、対応もできない、事故の予防や、問題解決もできないまま
「自分の関わっている範囲で問題が生じなければいいから」と思ってやりすごすしかありませんでした。

「親御さんの子育てをサポートしながら、同時に子どもの安全を守る」という方法や、
「子どもに気がかりな様子が見られた時、どのような対応をすればいいか」という指針が
定まっておらず、
親御さんが悩むか、子どもが困るかするのを、
黙って見ているしかなかったのです。

どうしようもないこととして、意識にも言葉にも上がってくることがないとはいえ、
人間って、自分が困らなくても、自分と関わっている人や子どもが
困っているのを黙って見ていると、
いつの間にか解決しようのない「もやもやと憂鬱な気分」を抱えてしまうものです。

「もやもや」の最中にいるときは、理由も原因も見えないか、
他の表面的な悩みとごちゃごちゃにしていることが多いのです。

そういう時に
「何かおかしい」「私はいったい何に引っかかっているんだろう?」
「正しいことといわれても、正しいと納得できないのはどうしてだろう?」
「どこに問題があるんだろう」「どうすればこの問題の突破口はある?」
「本当に考えても無駄なことなの?」「問題を解決するのに何が必要なんだろう?」

と、自分が執着していることや、錯覚に陥っていることや、信じ込んだり思い込んだりしていることを
手放しながら、
自分のもやもやの原因がクリアーになるまで「もやもや」とつきあっていました。

すると、問題を解決できる人材や解決したい意志があっても、
それらがきちんと機能するような仕組みがなかったり、
人と人をつなぐネットワークがないと、
本来ならプラスに生かせる思いも、
もやもやした憂鬱な気分にすり替わっているときがあるんだな~ことに気づきました。


また「私が悩んでいたことは、私だけの悩みではなくて、
今の時代と社会が抱えている難題でもあって、
でも改善に向けて動き始めているからこそ、
私まで、もやもやそわそわした気分になって、
何かしなくちゃいけないけど、何もできない……というジレンマに陥って
いたんだな。」とも感じました。

偶然なのか、自分の心と同期するように、
自分の悩んでいた問題をめぐって社会が
急速に変化していくのに気づいて、ハッとすることがありましたから。



無視したくなるような「もやもやした気分」も、自分の言葉で表現できるまで
つきあってみると、社会を良い方向に変化させるための
ひとつの力になるのかもしれないな~と思いました。

 

ブログで記事を書いていると、
ちょっとしたジレンマに陥るときがあります。

言葉って難しいです。

伝えたいことが、伝えたい人々にちょうどいい程度に伝わるなんてことは
まれで、ひとつ書けば、そこに新たな疑問や誤解が生まれ、
それを解決すれば、またそこにくわしい説明の必要な問題が生じます。

たとえば、子どもが自由に動けなくなるほど
干渉しすぎてしまう方に会うことがたびたびあって、
それに対する気がかりを言葉にすると、
それをしっかり受け止めてくれる方というのは、
「もうちょっと干渉したり、厳しくしてもいいかも」という
子育てが甘めの方だったり……。

そこで、きちんと叱るべきときは叱ることの必要性を言葉にすると、
それが心に響く方は、
「もうちょっと大目に見る場面が多くてもいいかな」と感じるしつけが厳しい方だったり……。

それでも「終わりよければすべてよし」じゃないですけど、

親子だけで密着したカプセルに入ってしまわず、

ああでもない、こうでもない……と目の前の子どもを見ながら、
外の意見も適度に取り入れて、
自分の頭と手を使って試行錯誤しながら子育てしている方の子育ては、

最終的には、どんな子育てマニュアルより「わが子仕様のベストの方法なんだな」と感じます。


その過程で心が揺れたり、失敗したり、大きな壁にぶつかったりして、

「子育てって、マニュアルも正しい解答もないないんだ、
でも解くことを放棄することもできないんだ」

って事実に足元をすくわれそうになっても、

それでも何とか態勢をとりなおして、
自分らしい楽な姿勢で歩いていけるようになったら、結果オーライなんでしょう。



そんなことを考えたのは、先日、読んでいた本の影響があります。


『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』 檜垣立哉  NHK出版

という一般人向けの易しい哲学書です。

何となくパラパラと読み進むうちに、

ドゥルーズの「解けない問い」に対するポジティブな捉え方に共感して、

ここのところもやもやとくすぶっていた気持ちがすっきり晴れて
勇気がわいてきました。

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ドゥルーズは徹底してポジティブに解けない問いに立ち向かう。

解けないことに直面するこの時代において、ドゥルーズは、現象学のように、
失われた基盤を回復させることはしない。そしてデリダのように、
現在の不可能性をバネにして、到りえない彼方を語ることもしない。

ドゥールズにおいて未決定性とは、新たなものの産出を語るための、
ポジティブなテーマである。
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……ドゥールズは完全に生命系である。

あくまでも唯物的で、彼方の真理も想定せず、無限の流れに内在しながら多様な接合をとげつづける
生命のあり方が、そこでのモデルをなしている。

ドゥルーズは、この世界の解けなさを、未決定的なポテンシャリティー(潜在力)であると
捉えるが、
それは、いつも新たなものの産出をあらわにするためである。

            (『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』 檜垣立哉  NHK出版)
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私が、ドゥルーズを読んだのは、
子どもの頃から「創造的進化」とか「自己組織化」の話題が大好きで、
そうした関連本を集めているからです。

が、今回は全く別の意味で、強く心に響いてくるものがありました。

この著書の内容からかけ離れているのですが、

子育てや教育について、
関われば関わるほど、新たな 
ややこしい問題が立ち現われてくる現状に直面している今、


このドゥルーズのポジティブな捉え方に、
ふっと救われる心地がしたのです。

「人間を相手にしていると、子育てにしても、教育関係の仕事にしても、
次から次へと解くことができないような問題が
生じてくる。

ある一部分に注目すれば、そこから無数の新しい疑問が湧いてくるし、
ひとつの問題を解決すれば、それは次の数えきれないような別の問題につながっている。

でも、そうした解けない状態はそれ自体が、
潜在しているものの大きさや深さを表してもいて、
だからこそ、いつもそこから新しいものが生まれてくるとも言えるだな」

と妙に納得したのです。


私自身が、うまくいかない状態にぶつかるのも、
そこでいったんもやもやとくすぶった気持ちを抱えるのも、
あまり嫌な気がしないのは、

ドゥルーズと同様に解けない問いに向かうときに、
「問題とは解かれるものではなく、創造されるべきもの」と捉えていたからなんだなと気づきました。


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一般的には、問題とは解かれるべきものだろう。
そうした発想は、問題の設定が、真偽という枠組みに深くかかわっていることを
示している。
しかしドゥルーズは、問題が真偽という枠組みにかかわるのは、
社会的・教育的な偏見にすぎないという。

問題を与える教師がいて、つまりは真偽とは何かが
明確にされうる場面があって、そこで問題が与えられるという構図が、
この発想では前提とされている。

だが、こうした構図は、この世界のリアルさを考えるならば、ほとんど戯画的なもの
ではないか。そこで問題の真偽を握っている特権的な人物は誰もいない。

だから論じられるべきは、真偽の枠にとらわれて、正解を見出すことが要求されるような問題についてではない。
むしろ逆に、問題を提起することが、つまり、真偽がそれに従属するような問題を生み出すことが
ここで考えられるべき事柄なのである。

              (『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』 檜垣立哉  NHK出版)

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ドゥルーズは歴史を生きることについて、
「ひとつの正解が設定されることはありえなくて、
解かれ方はさまざまで、
さまざまな解かれ方があることを踏まえて模索し続けること」と説明しています。

それって、今、私が関わっていること全て……
子育てや教育や自分の生き方にも
大いに言えることだなと感じました。

またドゥルーズは生命の本質について次のように説明しています。
「生命の本質とは、できあがった器官=眼にあるのではない。むしろ眼という問題を設定し、
状況に応じて解答を与え、
なおかつ問題を発しつづけていく、その力にこそあるのである」

ドゥルーズの語る生命の本質は、子どもの姿そのものともいえますね。
自分で解くべき問題を発しつづける存在、提示しつづける存在。

親や身近な大人たちも、
子どもとの関わりのなかで次々と問題にぶつかりながら、

子どもも親自身も周囲も全てを成長させるような創造的な展開に巻き込まれて
いるのかな……?

とポジティブな気持ちで、
日々のごたごたを眺めなおしました。


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1 コメント

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ダブルバインドと全体の中の一部2 (かろーら)
2013-11-25 12:06:38
こちらの「もやもやとした憂鬱な気分と生きる力」の記事を印刷し、何度も公的諸機関に我が子の支援のお願いにあがりました。

私はまだこの記事の大切さと、それがきっと将来必ずやもたらすであろう「意識改革」と「具体的な支援へのつながり」を信じています。

「「わからない」のいくつかの形と対処法」にコメントさせて頂いた「1対1の指導」を妨げたもう1つの原因は、家族、親族が営業していた自宅に隣接する防音が不完全なレンタルスペースからもれる騒音でした。ピアノ、ブラスバンド、コーラスグループ、幼児の行事等に使用されていました。

当初はその絶え間なく続くお客様への対応も、「1対1の指導」及び、「1対1の指導のための親の勉強時間の確保」を私から奪っていました。

そして、その音により我が子は更に集中しなくなり、窓の外に関心がいき、すわったり立ったりを繰り返しました。

私は子供を叱るか、途方にくれるかのどちらかの状態に追い込まれました。私が叱っている時だけをみて、家族、親族は、私に対して強い非難を浴びせました。それは後に暴力という形で現れました。
しかし、その叱らなければならなくなる要因のレンタルスペースの営業は何年も停止してくれませんでした。
病院で聴覚認知に難があると診断がでているにもかかわらずです。

おわかりでしょうか?
「原因の元は除かれないのに、そこから逃げることもできない状態」、

「騒音を停止するのもダメ、子供を叱るのもダメ、そこから逃げるのもダメ」

そうです。こちらの記事の「ダブルバインド」の状態に母子ともに落とされてしまったのです。

そして、その状態にわたしと子供を巧妙に追い込んでいる家族、親族は「ラーニングスタイルとエニアグラム1」にコメントさせて頂いたエニアグラム・タイプ9の人が含まれています。

「機能不全家族について もう少し6」に書かれている「どんなに有力な証拠や疑いようのない現実をも」、一切受け付けず、見なかったこと、聞かなかったことにする人たち、

「無意識に拒否する人々」の集合体でした。

ハンデイキャップを持つ子供たちの親は、「無意識の拒否」との戦いの連続です。そして、戦うべき相手が、家族、親族である場合、それは更に過酷なものになります。

そのような事態に陥ったとき、
「機能不全家族について もう少し6」に書かれている

「全体の一部」と捉えることができる人、そして「その全体さえもさらなる全体の一部となるかもしれない」と意識できる人がリーダーとなっている行政による公的介入が必要なのです。
現在の各自治体の教育機関、児童相談所、保健所等、その機能を完全には満たしていません。

リーダーの育成とそのリーダーが能力を発揮できる抜本的なシステムの再構築、

そして、リーダーの人選を的確にできる第三者機関の設置が急務です。

自治体の真価は、適切な人事、まっとうな人材評価がその土台となるべきです。

邪悪な人間が役職につけば、その自治体は人間である最低限の理性という枠からはずれ、動物以下の惨状になります。

血を分けた者までも弱肉強食の流儀で、さも善人を装いながら、自分の利益、昇進のための材料とするその様は、もはや人間ではありません。

この状況が改善されるのはいつなのでしょうか?
こちらの記事にある、
「様子をみましょう。」
「もっと子供をかまってあげて。」
「集団に入れるとよくなる。」といった現在まで続く紋切型の対応は、いつまで適切な支援とされるのでしょうか?

また公的諸機関と連携をとる学術的機関の「地域貢献度NO.1」とは、収益優先主義を貫くことのみを指すのでしょうか。学問の目的が「利益追及」だけに留まることを良しとするその姿勢に、何の罪悪感ももたないのでしょうか?

現代の親たちは、学術機関とさほど変わらない知識の収得が可能です。
それは、インターネットと英語教育からもたらされる世界中からの情報収集の術を知っているからです。
それゆえ、「真のあり方」が否応なく見えてしまい、余計に苦しむ結果となります。

そのただ嘆き、悲しみ、もがいている時間の流れの中で、どれだけの子供たちが救済の手のひらからすべりおちていかなければならないのか。

それを思うと、はがゆく、くやしく、やりきれない思いで一杯です。

私は真実を知っています。
原発のことを憂いているその姿は、ただ単に自分への称賛を目的としたプロパガンダだということを。

そのような人種が、弱者をどれだけ苦しめているか。
「法の場」がその偽善を必ずや、暴きます。









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