高校は何事も生徒の自主性に任せるという方針で、
生徒たち自らが問題提起し、話合うような場がいろいろ設けられていました。
とはいえ、高校生の問題提起なので、たいていどうでもいいことばかりで、ああだ、こうだ、と言い合って
時間をつぶしておしまい……というものでしたが、
今思い返すと、「あんなことも任せてもらっていたのか」と当時の教師陣のおおらかさがなつかしいです。
わたしは後継者不足でつぶれかけているクラブに在籍していたので、
1年生ながら、クラブの予算を確保するための会議に出席してました。
途中で、ある数学好きの数名の生徒が新しく数学同好会を立ち上げたがっている、という話題で、
その是非を問う議論となりました。
「数学同好会は受験勉強に役立つから、学校の経費を使って受験勉強をするのは
間違っている!」とか、
「数学の問題を解くなら、わざわざクラブになどせずに、教室に適当に残ってやればいい」など、
やっかみ半分のどうでもいい意見がぐだぐだ続いていたのを覚えています。
このあたりの記憶はあいまいなのですが、確か、
会議後、近くの部屋で行われるという読書会に誘われ、読んだことのある本だったので
参加することにしました。
読書会の後で、1学年上の先輩が追いかけてきて、
「1年生なのに、すごいよね。K先生も、感心していたよ。」と
声をかけてくれました。
わたしが読書会で発表した意見に関心を持ってくれたようでした。
その後、いっしょに会って話をしたり、映画や劇を観に行ったりする関係が、
その先輩が大学生になり、わたしが高校を卒業するまで続いていました。
実は、そんな高校時代は、中学時代とは別の形で、
家族の問題が深刻さを増した時期でもありました。
事故後の後遺症を引きずりながらも仕事に復帰した父の怒りの沸点は低いままで、
米が炊けるのが遅いといったほんのささいなストレスが、
ありったけの食器を壊してしまうほどの激昂に結びつくような日々が続いていました。
妹は家に寄り付かなくなり、プチ家出を繰り返していました。
わたしにとって、最も重くのしかかっていたのは、母との関係でした。
母はあまりに多くの心の傷を負い、妹のことで責任を感じていたため、
生きる気力も考え判断する力も極端に落ちていました。
まるでおびえている子どものように、
常にわたしに相談に乗ってもらいたがり、慰めてもらいたがり、困り事を解決するために
わたしに動いてもらいたがるようになっていました。
ある時、こんなことがありました。
定期試験の直前で、赤点を取りたくなかったわたしは、
母からの相談を早めに切り上げて、
何とか勉強時間を確保したくて気が気ではありませんでした。
それが、わざとわたしの試験前に合わせるように、妹は家を出て行ったり、問題を起こしたりしました。
この日も、いなくなった妹を探してきてほしいと母に懇願され、
困惑したわたしは、母に向かって土下座して、
「これ以上成績を落としたら、わたしはどうしようもない。
苦手な化学や地理は学校の授業だけじゃ、とてもムリだから」と言って泣きました。
すると母は、「N(わたし)が話を聞いてくれなかったら、いったいわたしはどうすればいいの?」
と悲壮な声で返してきました。
母の優しい性格を思うと、この時はよほど切羽詰まった状態にあったのだろう
と理解はできました。
でも、ずいぶん長い間、その自分中心な言葉が胸に突き刺さったまま、どこかで母を許せない気持ちを
抱いてもいました。
実のところ、その時期のわたしは、家族の問題以外、何も考える余裕がない状態でした。
授業を受けていても、友だちとおしゃべりをしていても、ほとんど上の空で、
何事にも消極的で受け身な態度が当たり前になっていました。
せっかくできた新しい女友だちも、こちらの覇気のない様子に嫌気がさして、
わたしから離れていきました。
文化祭の日に、ひとりでまわろうか、他のクラスの中学時代からの友人を呼びに行こうかと、
心細い思いで迷っていたら、
ふいに読書会で会った先輩が現れて、「いっしょに見てまわろうよ」と誘いに来てくれた時は、
心がとても温かくなりました。
実際につきあっているのかどうか、気持ちを確かめたこともないのでわからなかったのですが、
周囲からつきあっていると思われている人がいることは、
自分が高校生活をエンジョイしているように感じられて、たとえそれが虚構であっても、
慰められました。