那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

ブログ「陸軍飛行第244戦隊ー調布の空の勇士たち」に目を見張った

2014年04月23日 | 歴史

様々な経緯を経て、府中飛行場の陸軍飛行戦隊による防空発進から知覧の特攻隊まで幅広く記録研究された、桜井隆(昭和26年生まれ)のブログを見つけ、ブックマークの10番に入れた。

調布で生まれた桜井氏が膨大な資料を集め、また聞き取りを重ねて自費出版の形でタイトルの本を出すのだが(こんな貴重な本すら自費出版扱いになっている日本の文化レベルと出版不況にタメ息が出る)、ブログをほんの一部読んだだけでも、一市民が一つのことに興味を持ち、一気に才能が開花して史実研究者に育っていく過程が分かり、感動を受けた。

余談になるが、私の母は青春を軍属として満州で過ごした。そのとき志願して選ばれた女性軍属は30人、母は戦争大嫌いだったために軍需工場には行かず唯一看護婦助手になって助産婦の免許を取った。軍属とは軍人と同じ立場の文官だから、病院に入るのも軍人に敬礼され、待遇もよかったらしい。そして、「B29に日本の飛行機が特攻突撃した。最後のほうでは飛行機がなくなりヘリコプターで突撃した。B29はビクともせずに飛行機やヘリコプターがバラバラになって落ちてきた」と時々語る。なにかの見間違いではないかと思っていたが、このブログを読んで本当にB29への体当たり攻撃があり、撃墜した上でしかも生還例が記されている。特殊な体当たり方法だと想像するが、まだ詳細は分からない。

(さらに余談が続くが、八王子市の総務課と地元の八王子テレメディアが連携して、こういう貴重な戦争経験者の記録を残し、共にアーカイブを置いて定期的に放映するという構想を、地元ビデオクラブの会長の助言も得て、私は市とテレビ局に何度か電話で趣旨を説明し実行するように段取りをつけた。テレビ局とは半年ぐらい前から折衝している。彼らがどれだけ動いてくれるか待っている状態である。母だけでなく、南方戦線から生還した96歳の男性や、被災者の側だが多分唯一残っている「待合」の女性経営者(長らくお会いしてないがお元気だろうか)など何人か私と個人的接点のある情報源もある。すぐに動けば今なら辛うじて戦争を現役で体験した90代の生き証人の声が拾えるだろう。だれも動かないなら私が動かざるを得ないが、個人では限界がある。

尚、これに類した過去の思い出として、戦前の小型映画の価値とその収集保存公開の意義を当時の日本フィルムセンターに強く訴えたが黙殺され、何年か後に海外でその重要さが指摘されて慌てて動いたときは、ほとんどの生き証人が逝去されていた、という研究者時代の苦い体験がある。公務員になって身分保障される立場に立つと切迫感(埋もれる文化への哀れみの情)が鈍くなるのだろう。二の舞にならなければいいが、と思っている。ついでに言えば、もし天命が私に健康と経済の余力を許すなら、浪曲の譜面の保存と演奏者の育成を促進する企画を実行してみたい。浪曲はオペラにも劣らない日本の伝統演芸である。この灯火を消してはならない)

本題に戻る。私は桜井氏のブログを一見して、元々研究者の才能があったのだろう、厳格な実証主義の立場が貫かれているのに強く感動した。例えば、映画化された特攻隊を扱った戦争映画『月光の夏』に対してhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/gekko.htm で指摘をしている。余り美化せず、情緒や感傷に浸らず、虚構と事実を峻別せよ、との、資料を持って語らせる有無を言わせぬ反論である。

一方、

「「あゝ祖国よ恋人よ―きけわだつみのこえ 上原良司」という本の、韓国のテレビが取材、放映して「いまや世界の上原良司になりつつある」などと、はしゃいだ「あとがき」の中に、その番組が賞を受けたと書いてありました」

から始まるhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/uehara.htm では特攻隊を反戦の材料とするイデオロギーに対して、これも事実を指摘した上で反論する。一部引用する。

 現役将校を養成する陸軍士官学校の場合、いかにも軍国少年が集まったかのように思われるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。

 予科士官学校は中学4年程度の学力で受験できたため、「腕試し」で挑戦して受かってしまった者や、一人でも多くを陸士へ送りたい学校側が、成績はよいが経済的に大学進学が困難な生徒を受験させた例も少なくありません。
 入校当初は、天皇制を批判する生徒さえいたそうです。しかし、それを排除するのではなく、教官が真心と情を持って時間をかけて生徒を感化し、卒業までには一人前の軍人に育てたのです。

 上原少尉の場合には、操縦と同時並行の速成教育ではありますが、それでも無事に少尉に任官しているわけですから、彼の言動は陸軍にとっては許容範囲だったことになります。
 また、彼は自ら志願して合格した幹部候補生(特操)の課程を修了、少尉任官を果たし、そして命令を忠実に承行して戦死しました。その軌跡と結果を見れば、
彼が立派な陸軍将校であったことは明白な事実です。

 上原少尉と56振武隊の同僚である小沢(こざわ)幸夫少尉は、飛行機受領のために一旦調布に戻った際、同期生が渋谷の神泉で開いた送別の宴で6航軍参謀の言動を批判し、
「俺はあんな奴らのためには絶対に死にたくない」
と、語っていました。でも彼もまた、命令を承行して特攻戦死を遂げました。

 特操に限らず特攻隊員の中で、疑念を抱かず全てを納得して死んでいった者など、果たしていたのでしょうか。けれど、苦悩しながらも、軍人としての責務は皆、忠実に果たした。そこが立派なんです。

 上原少尉も、決して戦争を否定していたわけでも、軍を否定していたわけでも、国家を否定していたわけでもありません。ただ、客観的に、この戦争に勝ち目はないと考え、それを表明していただけです。

 にも拘わらず、編者は「思想形成」「思想変革」「思想闘争」などの耳慣れない言葉を羅列して、上原少尉を「思想家」に祭り上げようとしています。
 軍人としての彼を評価せずに、いかにも彼が反戦あるいは反天皇制国家の闘士でもあるかのようにアピールすることは、上原少尉に対して実に非礼だと私は思います。

 更に、編者は「農民兵士」(これも学徒兵も、おかしな言葉です)
の残した紋切り型の遺書と上原少尉の遺書を比較して、その違いを「先進的」と賞賛しています。
 しかし、上流の裕福な家庭に育って大学にまで進んだエリートと、高等教育は受けていないであろう、ごく普通の庶民の文章が、元々同じであるはずがないです。また前述のように、彼が言いたいことを言えたのも、厳格な階級社会である軍の中で、将校という立場であったことと決して無縁ではありません。
 比較するのなら、編者が「高い教養を身につけた…」と書く、「学徒兵」のそれと比較すべきでしょう。

事実を踏まえて論じるからブレがない。作意が無い。中々出来ないことだである。

その素晴らしい業績はブログを読んでもらうことにして、興味深い逆説を発見した。これほど実証的客観的な姿勢を貫くと、逆に神秘体験を繰返すらしい。次のような記録が散見できる。ブログ中「私の原点」より引用する。


 正直なところ、つい数年前までは自分自身が本を書くなどとは夢にも考えておらず、244戦隊は有名な部隊なので、誰かの手によって記録が出版されるものと確信し、それを待っていた。が、一向にその気配はなく、このままでは30年来の疑問を永遠に晴らせないのでは…と不安を感じ、しびれを切らして自ら乗りだしてしまった。

 平成2年に本格的調査を開始以来、不思議なことはいくつもあった。目に見えない誰かが、天の高いところから眺めていて指図してくれているとしか思えなかった。なかでも、かつての飛行場用地で、陸軍の飛行服を着て南西の空を静かに見通している大学生くらいの青年を一瞬目撃し、後日その人物が特定できたという体験は、我ながら信じ難いものだった。彼は、昭和20年6月、沖縄の海に散った特攻隊員だったのである。
 生まれて初めて出会ったこの出来事はショックだったが、長年会いたかった旧友に会えたようで嬉しくもあり、沖縄の海の底から40数年の歳月を超越して何かのメッセージを伝えに来てくれたものと確信した。彼が言いたかったことは何なのか考え続けたが、自分なりにこう結論してみた。
「予断や虚飾を排して実相を記録しろ…」と。

 だが、村岡戦隊会長が「自分も戦隊史を書きたかったが余りの資料のなさに断念した」と言われるように、戦隊に関する確たる資料は皆無に近く、作業は困難を極めた。それでもここまで来られたのは、天佑に違いない。
 「自分がやらねば…」という使命感が徐々に強まる一方、まだ多くの戦隊員各氏が健在である今日、244戦隊の一ファンでしかない人間が、おこがましくも「戦隊史」などと銘打って、さも見てきたようなことを書いていいものか…という疑念もつきまとい、果たしてどこまで実相に迫れたか自信はない。もしできることなら、特攻隊の彼にも感想を聞かせてほしいものだと思っている。

1995年夏 櫻井 隆

 

 

さらに「陸軍特攻」の中の「黒木少尉の微笑」の項では以下のような不思議な体験を綴られている。

 そんな知覧での写真の中で、私が以前から気になっていた一枚がありました。
 その写真に写っている特攻隊員の、死の直前にも拘わらず、全く緊張も不安も感じられぬ、微笑さえ浮かべた表情は私にとって衝撃でもあり、これが誰なのかを知りたいと思っていたのです。

 その後、「従軍カメラマンの戦争」という本の中に同じ写真が掲載されていて、この操縦者が、調布から出た55振武隊の隊長黒木國雄少尉(陸士57期)であることを知りました。
 黒木少尉の知覧での様子は、本書にも、高木氏の「知覧」にも、このサイトにも詳しく書かれておりますが、死の直前の彼が、何故こんなにも穏やかな表情を浮かべ得たのでしょうか。
 そして、彼の視線。いったいどこを見ているのだろうか。このときの知覧飛行場が映っているのか。いや、もっともっと遙か遠くを眺めているように、私には思えてなりません。

 作家の伊藤圭一氏が以前新聞に、「戦記を書いていると、英霊が導いてくれたとしか思えない経験をする」という意味のことを書かれていましたが、私も航空戦史に関わるようになってから実に不思議な出来事に出会いました。

 本を書く端緒にもなったのが、平成2年に、かつての飛行場の用地で160振武隊の佐々木少尉が私の眼前に現れたことです。
 佐々木さんは、更に今から6年ほど前の秋の夜、「ドーン」という家を揺るがすほどの衝撃音(完全に地震だと思った)とともにこの世に姿を現されて、その時には家族が間近で目撃しています。
 この事件を英霊からのメッセージと受け止め、その意味するものを半年悩み考え続けた末の結論が、実は当サイトの開設でした。

 これを戦隊会で話したこともありますが、「あぁ、あなたも。やっぱり…」という反応が多く、不思議がる人がいないのです。
 死が身近な戦争の時代には、人の第六感が鋭敏になって霊的な経験をする人が多いのかもしれません。戦死する人は、一週間ほど前から死相が出て分かったとも聞きましたし、遺族の中にも不思議な経験をした人がおります。

 戦隊史に着手した当初、初対面の方に、「あなたには戦没者の亡霊が取り憑いている」と言われました。そのときはピンと来ませんでしたが、生来臆病な怠け者が、英霊に励まされ動かされて、なんとかここまでやって来れたのは事実ですから、今となってみると、やはりそういうことなのかと思います。

 最初に佐々木さんが現れたとき、決して凝視しているのではない彼の眼差しが、なんと遠くを見ているのだろうと感じたのですが、改めて思い起こすと、その視線は、写真の中の黒木少尉のそれと共通しているようです。

 では、彼らの目には何が映っていたのでしょうか。
 勿論、全くの空想でしかありませんが、昔の言葉ならば「まほろば」というのか、平和な理想郷となった遠い遠い未来の祖国の姿が見えていたのではないかと、私は考えます。だからこそ、こんな穏やかな表情になり得たのではないかと。

 


これは資料の積み上げとインタヴューによる徹底的な実証主義の調布飛行場を本拠地とする航空隊の歴史の本である。しかし、鬼神のように資料を解読し、隊員たちに感情移入するに連れて、このような神がかり的体験に至った、という点が面白い。私は現代科学は諸法実相の万分の一も解読していない、と思っているので、実証主義も神秘体験も両方そのまま受け入れる。気合の入った一本の弓が岩を貫く奇跡を桜井氏は体験されたのだろう。それは史実に迫りたい、英霊の声を聞きたい、という謙虚な心が産み出したものであり、真面目な研究者であればこういう体験をするのが当たり前、「図書館の天使」と言われるシンクロニシティの強烈な恩寵の産物だと思う。

次々とブックマークを増やしているが、これは私自身が余りに多忙なため、ここに残してあとからジックリ読もうと思うブログの本棚の意味合いもある。30代だったら徹夜でこのブログを読むところだが、早寝早起き命令が出ているのでこの辺で止めておきます。



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2 コメント

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内容について (斎藤孝夫)
2015-02-01 01:14:38
第二次世界大戦中にヘリコプターは実用化されていません。体当たり?ありえないと思います。
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Unknown (那田尚史)
2015-02-02 01:23:39
ヘリコプターについては
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1229895892 を読むように

体当たりは母も目撃し、桜井氏も書いている通りです。ありえない、と思ったら桜井氏に抗議したらどうでしょう?
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