那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

中井コッフについて

2011年01月28日 | 書評、映像批評
『中井コッフの書画と短歌』(薬師神義武著、印刷所:セキ株式会社、平成2年8月1日発行)

愛媛の歌人といえば誰でも正岡子規を知っている。しかし、「子規の次はコッフ」と比較称される中井コッフの業績を知っている者はかなりの短歌通にもいない。せいぜい愛媛県宇和島市の知識人がその名を知るのみである。
 今回取り上げた本にしても、著者の自費出版であり、興味を持った読者がいたとしても、取り寄せようがない。(どうしても欲しい人は宇和島市の観光課に問い合わせてください))
 実に惜しいことだ。

側面から見れば、著者・薬師神氏の行ったことは、ちょうど私が実験映像を批評して活字に残す作業に似ている。映像作家も歌人も世に多いが、その業績を活字で残し出版しなければ、その存在は埋もれてしまうのだ。身の引き締まる思いがする。

中井コッフは明治14年に愛媛県宇和島市に生まれた。本名は中井謙吉。愛媛師範学校入学後、一年間京都絵画専門学校で絵を学び、愛知医学専門学校を出た。医学生のころよく焼き鳥を好んで食べ、とくにそのカシラばかりを食べていた。学友たちが面白がって、ドイツ語で「フォーゲル・コップ(鳥の頭)」という渾名をつけた。そこでコップと雅号を選んだが、コップ酒のコップと間違われるために半濁音をとってコッフと号するようになった。

コッフは地元宇和島で小児科医を開業し、名医と慕われた。同時に、短歌と書画においても一流の業績を残した。生涯に読んだ歌の数は6万を超えると言われる。
 ちなみに彼のもう一つの業績として、浪花節を「浪曲」と名づけたことがあげられる。当時浪花節は品格の低い庶民の娯楽と見られ、その芸術性は省みられなかった。コッフは浪花節のファンであり、とくに桃中軒雲右衛門に心酔していた。そこで浪花節の芸術性を訴えるために、謡曲の名にもじって
浪曲という呼称を創案し、日本に広めたのである。それにちなんだ歌もある。

 浪曲と吾改称し優越感 持ちて語りしその浪曲を

 義士伝を語りて居れば自ずから 吾雲右衛門になれる心地す

コッフの短歌の特質は、本格的古典主義的短歌群と、短歌のための短歌、そして徹底した日常短歌の3極に分かれることである。第一種の代表歌は以下のようなものだ。

 夕山に鳴き残りたる鳥の声 ひとつひびきて静かなるかも

 山の雨はや目交に降り下りて 径辺の小田に音たてにけり

 此世にて汚れしものは皆焼けて 焼け残りたるは清し白骨 (辞世の歌)

次いで短歌のための短歌、の代表作を引用しよう。コッフにとって短歌とは、絵画と書と歌とが一体になって初めて成立するものだから、絵と書の歌が多い。

 平幕も横綱倒すわれも日日 子規、茂吉等に勝たむと勢ふ

 これ以上吾には出来ぬ歌と絵と 日毎詠み書き寸暇だになし

 歌も詠み絵も画かねば本当の 写生の味は解らざるべし

 写生の絵 本図になほし失する香を 写生の味と子規は言いけり

 写生せしものを本図にかきかへて 完成しても写生に及かず

 写生の香千言万語説かむより 絵をかきてみよすぐ解るべみ

 吾の絵はとるに足らねど振ふ手に 血のにじむ程力みかきしもの(コッフは半身不随だった)

 楽しみて文字書く時はおのづから 筆にいのちのある如動く

 子規の書は歳に比べて傑れたり 鉄石の書は尚いや勝る

 拙きを自慢の如く言ひながら 恥書き残す今の歌人の徒

以上の歌は、歌そのものをテーマにした純粋短歌である。
 しかし、私は便宜上あえてコッフの短歌を3種に分けて、その一種を「短歌のための短歌」に分類したが、現実には、これも「徹底した日常短歌」のサブジャンルとみなすべきである。
 作者は、短歌のことばかりを考えて日常を送っているからこそこのような純粋短歌が生まれたのである。この辺り、映画と比較すると面白い。奥山順市の構造映画は、特殊な純粋主義、排他主義の芸術と思われているが、必ずしもそうではない。映画が好きで好きで、映画のこと以外に興味を失ったために、日常の関心をそのまま表現するとたまたま排他的構造映画になったのに過ぎない。
 コッフの純粋短歌も構造映画も理屈は同じである。
読めば解るように、写生とは、ものを見てそれをスケッチしたときの妙味である。本図に直すとスケッチの味が消える、とコッフは言う。この論は、「未完成(アンフィニート)芸術論」の主張に等しい。
 
コッフは70歳になっても恋の歌を歌っている。英雄色を好む、というが、芸術家というものもまた恋心を永遠に失わない人種なのだろう。私は40半ばにして、恋も性も飽きてしまった、と公言しているが、コッフの歌を読んで、少し宗旨を変えようかと思っている。以下、コッフ70歳の歌。

 我ために丸髷に結ひ来 世の中に 吾に一人の汝とし思ふ

 炊きかけの飯出来る間と暁の 吾の小床に人はそひねし

 寄り添ひて触り寝し股かつつましく 揃へし写真見つつ恋しき

 余命なき齢になれど春されば 頗り思ふそのかみの人

 汝と吾の二人の外には知らぬこと 山の墜道に雫滴る (この歌は76歳の時のもの)

コッフは6万首もの短歌を詠んでいるので、日常短歌を挙げると枚挙はないが、終戦時の憤りを詠んだ歌は実に見事であり、他に類を見ない。
 見事というのはこういうことである。戦後の日本人は、日本人の最も醜い国民性である「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」が表面に出、実に見苦しい歴史を残すこととなった。すなわち戦争に負けたのは軍人のせいだ、と自らかつて戦勝に酔っていたことを隠して東條英機らのみを悪者にし、マスコミ、知識人たちは揃って民主主義万歳を唱えて、マッカーサーを神様扱いした。現在でも日本人がマッカーサーに宛てた手紙が無数に残っていて、NHKが特集を組んだことがあるが、まさに水飲み百姓がお代官様にすがりつく調子で情けなく、私は思わずチャンネルを回した。実に嫌なものを見た思いがした。b某カルト宗教のカリスマが書いたと言われている小説でも、マッカーサーは「諸天善神」と称えられている。

このような風潮に対して、骨のある文学者は敢えて反動主義の態度を取った。批評家・小林秀雄は「俺は馬鹿だから反省しない。利口な奴はたんと反省するがいい」と述べて敗戦の懺悔を拒み、小説家・太宰治はまさしく反動的に「日本浪漫派」に所属して日本主義を謳った。コッフもまたそれら反逆者の一人であり、しかも徹底的な反逆者である。

 豚にさえ試さぬ前に日本の 無辜の民の上に原爆落とす

 一瞬に骨となりたる三十万 魂あらば呪え鬼畜原子国

 東条氏ら七名は皆一角の 人物なりき南無阿弥陀仏

 東條氏ら天皇陛下万歳を 唱へて安く果てしとあはれ

 米兵等日本婦人に暴行す 歴史の上に大書し置くべし

 神ありて戦争裁判するならば 勝ちたる国も共に罰せん

 東京裁判の中に真実の 判事は一人R、Bパル氏のみ

 人道の罪裁くならば印度人を 掃射しし英を裁けとパル判事いふ

 原爆投下の悲惨の決定の判決は 後世が下すとパルまなじり裂く

 マッカーサー 乃木将軍が敵将のステッセル大将を遇せしを思へ

 世界中何れの国を見て試ても 武士道を越すエチケットなし

パル判事というのは東京裁判で「日本無罪論」を主張したことで知られる。
コッフの魂の叫びは、当時徹底的な反動主義者とみなされたであろう。現在、漫画家・小林よしのりの「戦争論」が話題を呼んだのを呼び水として、被虐史観の見直しがなされ、やっと冷静に歴史が見えるようになり、原爆投下の非人道性、東京裁判の違法性が認識されるようになったが、当時としてはコッフの憤りは異例中の異例であったことを知らねばならない。
 私はここに、写生=リアリズムの透徹した目を培ったコッフの見識と勇気を見る。彼は傍観的に正論を述べたのではない。愛する息子二人を戦死させながら、東條ら戦犯の死刑に義憤しているのである。

 我が愛子散らしめし戦しし人も 殺されたれば吾合掌す

この心の動きの立派さはどうだろう。日本中が、「戦争を起こした東條が憎い。身内を殺した東條が憎い」と叫んでいるときに、この「私」と「公」との見事な一致。これこそ明治人のはらわたを貫いていた武士道なのである。コッフが桃中軒雲右衛門の演じる赤穂義士伝を涙して喜び聞いたのも頷ける。私もまた、義士伝を浪曲、講談、映画、歌舞伎で目にするたびに涙を流す一人である。

さて、実は、この私の蔵書『中井コッフの書画と短歌』は、東條英機の孫である東條由布子さんに贈呈した。
 いきさつはこうだ。何年も前のことだが新宿のトーク酒場として有名な「ロフトプラスワン」で民族派の大立者だった
石井一昌氏が二月に一度のペースでトークショーを開いていた。そのトークショーに私も出席したおり、石井氏より
東條由布子さんを紹介された。

彼女は「祖父東條英機 一切語るなかれ」(文春文庫で入手できる)という本を出版されており、その中で、敗戦後東條英機の子孫として生きることがどれほどの困難を極めたか綴られている。
 特に、由布子さんの弟が転校したとき、担任の教師がクラスの生徒に向かって「東條君のお祖父さんは、泥棒よりも悪いことをした人です」と紹介したエピソードが載っている。
 私はその下りを読んで、胸が掻き毟られる想いがした。東條は開戦と敗戦の責任を天皇の代わりとなって絞首刑になった忠君・犠牲者であるにもかかわらず、このように恨まれた。昨日まで日本軍の快進撃に万歳をしていた日本人が、全て東條ら軍部のせいに押し付けて、マッカーサーを神と仰ぎ見たのである。

私は、東條由布子さんに、愛媛の宇和島にそういう大多数の醜く卑しい日本人と全く違った目で敗戦を見つめ、自らの子息を二人も戦死させながら東條英機の霊に手を合わせた日本人がいることを知らせたくて、この本のことを告げ、贈呈することを約束したのである。
 この本は私の愛読書であり、また希少本で、コッフの美しい絵と書が多数掲載されており、この本に残された東條英機への歌を由布子さんが読めば、どれほど慰められるだろう、と思い、彼女に捧げた。(後日、丁寧にも一読されて返却された)
 
読者はコッフの日常短歌を見て、その凡俗ぶりにあるいは落胆されるかもしれない。しかし、この凡俗ぶりはまねの出来るものではない。私は愛国者の一人として、心が揺れるたびにその思いを歌に託そうと思い、コッフの真似をしてやろうと何度も思ったが、無理だった。心の動きが全て三十一文字に化けるには、よほどの修練を積まねばならないと悟った。
 正岡子規の句は上手すぎて誰にも真似が出来ない。コッフの歌は誰にでも詠めるようで、実は誰にも真似が出来ない。俗にして俗を超えている歌である。

コッフは犬を愛した。その犬の死を嘆いた歌を数首引用して、この文の括りとする。

 犬の仔の病みて呻けばうかららと こえかけてやるなほるなほると

 既にして終末呼吸する仔犬に ロジノン・メタポリン注射うちつぐ

 事切れし仔犬の顔の麗しさ 耳さへ立ちて死花咲けり



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