那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

次郎物語

2011年11月05日 | 書評、映像批評
『次郎物語』(清水宏、1955年、白黒)

 {あらすじ}

村一番の旧家で元士族の本田家には3人の男の子がいるが、次男の次郎は母親のおっぱいの出が悪いこともあって、分教場の小遣いをしている女性が乳母となって育てている。その女性には女の子がいるが、実の子供より大事に育てる。
 ある日、次郎は家に引き取られる。母は冷たい感じのする人で、祖母は封建制度の悪いところを全部引き継いだような身分主義者。次郎はこの家が気に入らず、乳母を慕う。ただ父親への尊敬の念はある。
 懇意にしている医者の娘に美しい女性が居る。次郎はこの女性にほのかな好意を寄せるが遠くに嫁に行ってしまう。
 父親が他人の保証人になったことから莫大な借金を背負い、大邸宅は売り払われて、町へ出て酒屋を営むことになる。これをきっかけに次郎は母の実家に引き取られる。
 母は思い病に罹り、実家に静養に来て次郎と暮らす。そしてそこで息を引き取る。
中学になった次郎は、酒屋の父親の元に引き取られる。父には後妻ができる。他の兄弟二人は後妻に対して「お母さん」と呼べるが、次郎だけは「おばさん」としか言えない。
 そこに乳母とその娘がやってくる。娘が学校も出たので、この家の奉公人になるのだ。子供たちがこの娘のことを「○○ちゃん」と呼ぶと、祖母が、奉公人は呼び捨てにしなさい、と注意する。次郎は、祖母に反感を持つ。
 修学旅行になる。1年生から3年生まで一緒に旅行に行くので、次郎は兄と一緒の旅行になる。学校の決まりで、お小遣いは一人5円と決まる。兄が、みんな隠れてそれ以上持って行っているんだ、とせがむと、祖母は、今は昔と違って贅沢はできない、兄は3円、次郎は1円で上等、と決め付ける。
 修学旅行先で、兄が上着のポケットに余計に2円入っていたことに気づく。次郎は兄にだけ祖母がやったのだろうと思っていたが、自分の上着を見ると自分にも2円余計に入っている。後妻が入れてくれたものだと知る。
 兄は祖母にお土産を買うが、次郎は後妻にお土産を買う。
修学旅行から帰った次郎は、後妻(義母)を探して「お母さん」と叫びながら家の中を探し回る。裏庭にいた義母は、大喜びで次郎を探し出し、初めて「お母さん」と呼んでくれたことに感謝して、次郎を抱きしめる。


{批評}

ご存知のとおり、児童文学の名作・下村湖人の「次郎物語」の映画化である。
たまたま私はこの小説を読んでいなかったので、小説と映画を比較することなしに、先入観を持たずにこの映画を見た。あまり評価の高くない映画だが、とんでもない、堂々とした佳作である。
 私は『しいのみ学園』を批評したとき、清水宏の真骨頂は、その「即興演出」からくる「ポリフォニックな構造」にあり、物語が単線的になると、凡庸な監督に落ちる、と書いたが、この意見は取り下げねばならない。
 この映画は、物語が単線的に進んでいくが、非常に良くできていて見ごたえがある。その理由を述べる。
第一には、主役が次郎という子供であることだろう。次郎役は小学生と中学生と二役になっているが、特に小学生役(一般公募で選ばれた)がいい。演技が素直で、きかん気の強い少年の性格が良く出ている。中学生役もそれなりに自然な演技をしている。物語が単線的であっても、少年の演技には計算外の「自然」が含まれていて、人為のいやらしさを壊す力がある。
 ここでテマティック批評あるいはモチーフ批評的な見地から一言言えば、清水宏は作品の中で「子供を走らせる」ことを好む。この映画でも、何度も次郎や他の子供たちは走る。3里も離れた病院に薬を取りにいく、といった場面もあり、途中で上着を脱いで上半身裸になって走り続けるシーンもある。実際、子供というものはパタパタとよく駆け出すものだ。走る、という演技は演出を超えた、肉体の自然の表出だ。特に子供の動きには、人間の本能を刺激して、愛らしさ、いとおしさを感じさせる力がある。清水監督はそのことをよく理解していて、わざと子供を走らせているのである。
 ついで、ロケーションと撮影の技術である。室内撮影も多いのだが、『しいのみ学園』の時と異なり、非常に大きな旧家を使っているために、広々とした空間性を感じることができる。
 清水監督はその空間性を出すために、ロングショットを多用している。例えば、二人の人物が対話をするときの切り返しのショットを例に挙げると、人物Aが喋っているときにはバストショットで撮影し、それに対して人物Bが答える場面では、逆アングルから10メートルも離れたロングショットを用いる、といった具合である。こうした工夫によって、屋敷の広々とした空間性が体感できて、芝居に「自然」の空気が舞い込む。
 それから、露出がシャープで非常にいい。『しいのみ学園』の場合は、アンダー気味で、しかも涙のシーンが多くて鬱陶しかったが、この作品では程よいシャープな露出になっていて、人物と周りの風景とがバランスよく映っている。
 それから、これまで書こうと思いながら書きそびれていたが、清水映画は音楽がいい。特別な使い方ではなく、悲しいときには悲しい曲想の音楽を、楽しいときには楽しい曲想の音楽を、といった実に素直な使い方だが、繊細に音楽を取り入れて、旨く観客の心をリードしている。
 以上が技術的に見たこの映画の素晴らしさである。
一方、物語を見直すと、この映画は、喪失の映画である。次郎は、実母の愛を拒否し、乳母を失い、医者の娘を失い、祖母への愛を拒否する。少年にとって母の愛は不可欠だが、次郎にはそれがない。愛を喪失した上に、旧家の厳格すぎる教育、世間体を気にする表面的な道徳の中で、心をかたくなに閉ざし、ますますきかん気の強い、強情な少年に育っていく。その閉ざされた心を開くのは、後妻になってきた義母である。
 愛の喪失と発見の物語である。その少年の寂しい情緒を、村の風景や広々とした旧家の佇まいが育む。

私はこれまで見た中で清水宏の最高傑作は『有りがたうさん』と『按摩と女』だ。特に『按摩と女』のポリフォニックな構造と、即興演出による雰囲気の取り入れは、これまでに見た日本映画のなかでは突出して優れていると思っている。しかし、『次郎物語』のような原作と脚本がしっかりした、単線的な物語映画を撮らせても、それなりに巧いということが分かった。私は、これまでの経験から、原作が名高い文芸映画というのは、大抵つまらないので、この映画もあまり期待せずに見始めたのだが、見るに従い、ぐんぐん惹きつけられ、巨匠清水宏の腕前に脱帽した。たいしたものである。
 なお、『次郎物語』は何人もの監督が映画化しており、中でも島耕二監督の作品が傑作として名高い。しかし、清水宏のこの作品も捨てたものではないことを、再度強調しておく。




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