那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

大正三美人

2013年09月22日 | 世直しのためにどうすべきか

主権回復を目指す会からのお知らせです。

河野洋平に責任転嫁する不可解
http://nipponism.net/wordpress/?p=24378

   <問題の本質をそらしてはいけない!
            「河野談話」の踏襲を明言する自民党・安倍政権こそ元凶だ >

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主権回復の会から「河野談話」「村山談話」の白紙撤回に関する電子署名が可能です。私も署名しています。

私は大アジア主義の立場ですから、日本はアジアと平等の立場で仲良く、と考えていますが、合理的根拠のない慰安婦問題に謝罪する必要は全くありません。皆様もぜひ署名にご協力下さい。

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ついで、私は経済評論家・三橋貴明のメルマガも読んでいますが、安部首相支持派で保守系と言われる彼もこの頃は自民党の経済政策をことごとく批判しています。最新のメルマガでは

>「消費税増税」を実施し、法人税引き下げなど経団連の意向に沿った政策を推進し、国民を困窮に陥らせるとなると、これは総理ご自身で書いていた「瑞穂の国の資本主義」に明らかに反すると思うわけです。というわけで「「TPP参加」を即刻やめて「エネルギー安全保障」を強化せよ! 安倍総理「瑞穂の国の資本主義」への直言 」が本日発売になりました。

と著作の宣伝も兼ねて批判しています。大体、不況のときに消費税を上げたらどうなるかはバカでも分かる問題です。ただでさえ落ちている内需は冷え込み、更に安い商品を求めてデフレスパイラルに落ち込むでしょう。当然庶民の味方の「公明党」は消費税値上げ反対で自民党に抵抗しているかと思ったらhttp://terusoku.ldblog.jp/archives/31400425.html では「アベノミクスで日本経済は少しずつ良くなっている。このチャンスを逃すと、消費税増税の決断をいつするのか。今でしょ」と述べたようで、以下この発言への批判が続いています。予備校のCMのマネでしょうかwww。支持団体の創価学会はなんで黙っているのでしょう? 創価学会の皆さんは増税賛成なんでしょうか? 本当に不思議な組織ですね。末端の信者をよほどナメているのでしょうね。何でもワンワンと言う事を聞くのが信者だ、と上から目線で蔑視していなければこんな屁理屈は口が裂けても言えません。

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ところで「大正三美人」をご存知でしょうか?いつものようにwikiを参照にすると

 大正三美人(たいしょうさんびじん)とは大正時代美人と言われた3人のことである。

九条武子1887年 - 1928年

 旧姓・大谷武子。1887年、京都西本願寺大谷光尊の二女として生まれる。1909年男爵九条良致結婚才色兼備歌人として知られた。

 柳原白蓮1885年 - 1967年

 北小路資武と結婚したがほどなく離婚。九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚したが、宮崎龍介との恋愛で話題をふりまく。1923年、宮崎と結婚し、情熱的歌人として知られた。

 江木欣々1877年 - 1930年

 新橋の芸者で、法律学者江木衷と結婚し、社交界で名を知られた。江木と死別した後の1930年、異父弟・早川徳次の家で縊死。

*また、林きむ子1884年 - 1967年)を江木欣々のかわりに数えられる場合もある。

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とあり、上二人はこのブログが入っている「八王子五行歌会」でも簡単に取り上げました。やんごとなき家系のお姫様ともいえる人たちで、共に社会運動家、歌人として有名(ここで「世直し」と繋がるわけです。ただの美人とはレベル違います)。
そこで、最期はクビを吊って死んだ芸妓(といってもただの芸者じゃありませんよ)江木欣々(栄子)について調べてみました。http://vmugiv.exblog.jp/20656318 より引用抜粋します。


長谷川時雨 『近代美人伝』
引き締まった白い顔に、長くはっきりした眉、
黒目がちの大きな目に、長いまつげが濃く伸びている。
色んな面を見せて複雑に輝く切子の壺のような女性。


父親は佐賀の尊皇派志士のちに愛媛県知事となった関新平。
母親は老舗の袋物屋の娘 藤谷花子。
花子は行儀見習いとして関家に上がっていたが、主人である新平が16歳の花子に手を出し妊娠。
生まれた欣々は父母の顔を知らぬまますぐに他家に養女に出され、
花子は実業家早川政吉の後妻となった。

ゆえに欣々には父方の異母きょうだいと、母方の異父きょうだいがいる。
実父関新平と本妻和気子との間に関悦子・藤子・ませ子。
実母花子と夫早川政吉との間に早川登鯉子、政治、徳次。

このうち、異母妹 関ませ子は鏑木清方の代表的美人画「築地明石町」のモデル、
異父弟 早川徳次は後のシャープの創業者である。

養親が困窮したため神田の芸者になった。
16歳の時、有吉男爵に落籍され男爵夫人となる。
しかし夫が1年あまりで病没したため、今度は新橋の芸者になった。
弁護士江木衷に落籍されて再婚。 
江木40歳、欣々20歳の年の離れた結婚であった。

江木は明治大正期の有名事件はすべて担当していたといわれるほどの敏腕弁護士で、
顧客も政財界のトップクラスばかりであった。
東大の前身である東京開成学校の法科を首席で卒業。
しかし優等生タイプではなく、教授に議論をふっかけては授業を潰したり屁理屈で煙に巻いたり、
悪ふざけでも首席を争う悪戯者だった。
一時官界にいた時は、出張の際に上司への報告がわりに
都々逸を電報で打って済ませたというエピソードが残っているほどである。 

頭の切れる辛辣でシニカルでな性格だが、
派手好きで開けっぴろげで面倒見がよくユーモアを解した人物であった。
彼を評する人々はみな「とにかく痛快な男」と証言している。
独身時代は相当浮き名を流しており、離婚歴もあったらしい。
しかし欣々と結婚すると外で遊ぶのをぴたりとやめてしまい、
その代わり、毎週知人友人有名人を自宅に招き豪華な宴会を開いた。
それを欣々が芸者時代に身につけた客あしらいと美貌でもって贅をつくして歓待した。

夫妻は黒塗りの古風な武家邸を住まいにしていた。
御者・馬丁・門下の弁護士・書生・使用人など、三十人近い大所帯だった。
「我儘者で、贅沢者で、食道楽で、飲道楽である」江木は、
食事・酒・煙草すべて一流の店のものだった。
夏には電車を借り切って書生や使用人まで引き連れて軽井沢へ避暑に行き、
毎週東京から鰻を取り寄せる。

欣々は和漢詩、絵画、篆刻、琴、茶道、華道、柔剣道など、一流の教師を呼んで学んだ。
欣々夫人の豪奢な生活ぶりは婦人雑誌などを通じて大いに紹介され、スター的存在となっていった。
「主人の職業は言わば勝ち負けを争うもの、
家の中は常に賑やかに陽気にしておりませんことには
その日の仕事に非常な影響があると思いますので、
子供のない私は派手な賑やかな妻として仕えております」

欣々は人生の絶頂期にあったが、江木が病気がちになる。
そして大正12年の関東大震災で本邸を失う。
夫妻は軽井沢の別荘にいて無事だったが、この頃から江木の病が重くなる。
ついに大正14年、江木が心臓マヒにより68歳で亡くなった。

別荘をはじめ、江木の遺産が多く遺されていたため生活面で苦労することはなかったが、
江木という後ろ盾を失ったことにより華やかな生活は消えてしまった。

欣々は家を新築し、降るように来る再婚話もすべて断り、
江木の冥福を祈って毎日読経をして尼僧のような生活を送った。

病気のため子宮の摘出手術を受けたが思わしくなく、時々は喀血することもある状態だった。
華美を誇った生活と、後ろ盾となる夫、さらに健康まで失った欣々は神経衰弱にかかってしまう。

異父弟早川徳次が静養のために欣々を大阪に招いた。
二ヶ月ほどの滞在中ほとんど横になっていた。
久しぶりに体調のよかった欣々は住吉大社に参詣に出かけ、
帰ってきてから土産物の菓子などをつまみつつ家族と夕食を取った。
しかし自室に戻った欣々は縊死していた。
江木家の家紋の入った風呂敷で顔を覆い、右手には水晶の数珠を握っていた。

異母妹ませ子の証言。
「死ぬのならもっと早く死なせたかった。あの通りの派手な気性ですもの。
本邸は毎晩宴会のようでした。
江木の力と自分の美貌からだと思っていたから、
顔が汚くなるということが一番怖い、それと江木の力も失いたくない。
それが、江木に死なれたのと、年を取ってきたのとが一緒に来て、
誰も訪ねて来なくなったのがたまらなかったらしいのです。
立派に暮してゆけるだけの財産もあったのに、よっぽどさびしくなったのだと見えて、
そんなことは絶対に言わなかった人なのに家には離れも二つあるから一緒に住まないかとも、
二男を子にくれないかとも言いました。
強い人があれだけ言ったのには、言うに言えない寂しさがあったのだと思いますけれど」

欣々は江木のお墓の隣に並べて葬られた。
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芸者、華族との結婚、死別。芸者、20歳も年上の法学者との結婚、夢のような日々、死別、自殺・・・・・言葉がありません。
 美貌なるがゆえに顔を家紋の入った風呂敷で包んでクビを吊ったというのも泣かせます。
相性が合いすぎる、というのは怖いものだと思います。超秀才・辣腕・ユーモリスト・遊び人の男が外で遊ぶのを一切辞める。一方、妻のほうは幾らでも再婚できるのに断って自殺する。これは恋だけでなく、愛と尊敬も一体になって相手が自分の人格と肉体の一部になっていないと起こらない運命の出会いでしょう。

かつて頭山満翁とその夫人が遣り取りした歌を紹介したときにも言いましたが、「偉人」は「偉人の妻」とワンセットです。これからの人生でこれ以上の人とは出会えない、と確信するから自殺以外に選択肢がなくなるのでしょう。今は拝金主義の世の中だから、不倫されてもお金に困らなければいい、なんて女性が一杯いるかもしれませんが、大正天皇の従妹で大正三美人の一人、柳原白蓮は今の世相と正反対の思想家でした。大富豪の夫を批判して、貧乏記者と禁断の再婚をされました。その部分をwikiから抜粋します。

918年(大正7年)、(白蓮が書いた)戯曲『指鬘外道』(しまんげどう)を雑誌「解放」に発表。これが評判になり、劇団が上演を希望、その許可を求める書状が届いた。差出人は「解放」記者・宮崎龍介だった。龍介の父は孫文辛亥革命を支援した宮崎滔天、宮崎も東京帝国大学で「新人会」を結成し、労働運動に打ち込んでいた。この後ろ盾となっていたのは、東京大学吉野作造早稲田大学大山郁夫らの「黎明会」で、「解放」はその機関誌だった。

1920年(大正9年)1月31日、別府の別荘で会った宮崎は情熱を込めて社会変革の夢を語った。それから白蓮は「ねたましきかな」と詠う「恋もつ人」になった。宮崎も「ブルジョア夫人との交際はまかりならん」として「新人会」を除名になった。白蓮は春秋2回の上京の機会に宮崎と逢瀬を重ねて、やがて白蓮は宮崎の子を宿した。姦通罪のあった男尊女卑のこの頃、道ならぬ恋は命がけだった。

1921年(大正10年)10月20日、白蓮は伝右衛門と上京した機会に姿を消した。2日後の10月22日の大阪朝日新聞は「筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪!」と報じた。内容は「同棲十年の良人(おっと。と同義)を捨てて、情人の許へ走る」というものであった。

 
大正天皇の従妹が、石炭成金の大富豪の妻ながら、社会主義運動誌「解放」の記者と不倫(のち結婚)。その上に夫を批判する文章を新聞に掲載し、華族から除名される・・・これ、実話ですからスケールが大きいですね。

もう遅いのでここまでにしますが、大正時代の女性の生き方を見ていると日本人はいつからここまで転落したのだろうと思わざるを得ません。大正9年生まれの私の母が「日本は滅びる」といつも言いますが、私は「もう滅びてどん底まで落ちた、これから再生」だと思っています。



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