那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

意味・無意味・感動の話

2013年02月25日 | 芸術・表現
今日は久しぶりに病院で血液検査を受けてきた。
疲れが溜まっているのでサボりたかったが、薬も切れたので仕方ない。

そういう訳で、今日は無理したので、過去に書いた文章でも貼り付けて手抜きをしようと思ったが、どうも見つからないので、昔考えていた芸術論的な話を簡単に書く。

微笑禅の会でも私は「言葉やイメージに囚われているのが一番よくない。如来というものがあれば言葉を使っていない」等々と書いたり話したりしている。

朝、意識は覚めても目が開かず体が起き上がらないまでの一時、放っておくと大抵はネガティブな言葉が連鎖してフラッシュバックのようにイメージが蘇ってくる。そういう時は寝禅がいいと自分の心身を実験台にして様々な工夫を凝らしている。

極端な結論を出せば、人間はそういう言葉やイメージの、意味、に囚われているから対立や紛争が起きる、と言っても過言ではない。

雑談風に言えば、「満月」という言葉は夜の空に光る真ん丸いお月様のイメージを示す。普通はそうなるはずで、例えば書道の心得のある人なら「満月」という文字の形だけを見て「満月」との違いが気になるだろうが、それは例外だろう。例外と言っても、書道家の場合は意味以上に文字の形や筆勢の力が気になり、全体的な感動を重視するので、すでに結論が出たようなものだが、意味と感動の力は当然直結していない。

学校の先生が、満月をテーマに俳句を読みなさい、と言ったとする。普通の生徒は「満月や」から一捻りしようとする。そこで芸術的センスに飛び抜けた生徒が「新月の」と発表し始めると、教師も生徒もドッと引くだろう。所謂ky発言である。そこで「新月の頃より待ちし今宵かな」と締めくくると、教師は「参りました」となる。
 つまり、この生徒は「満月」という意味に単純に囚われず、逆転の発想で満月という言葉を使わずに満月が宿している隠れた感動を最大限に引き出した、つまり表現したわけだ。ここに芸術の力の大きなヒントがある。

禅僧はよく、○(円相図)を一気に描く。何の意味も見えてこないが、語りつくせないほどの意味と効果がこの、○、の中に秘められている。

最も純粋な芸術は音楽だと言われる。例えばモーツアルトのピアノ協奏曲には「意味」がなくて「感動」のみがある。こういう歌詞抜きの純粋な音楽でも社会参加、革命運動が出来る、とかなり無茶なことを主張した人がいるが、音楽は意味がないからこそ感動する。これは別の角度から見ると非常に危険な側面もあり、鬱病で滅入っている人間は感動しすぎてさらにダウンする場合も多く、おぼろげな記憶だがある種の宗教(原始仏教だったかも?)では歌舞音曲の類いは禁止されたと何かの本で読んだことがある。

禅の話題に戻れば、姿勢を整え、呼吸を整えて、無念無想の状態を続けるのが基本になっている。意味とイメージを一切払って、何も考えない。ナンセンス状態を維持する稽古だと思えばいい。そうすると、言語やイメージの組み立てではまず見えてこない豊かな世界が広がる。ゼロが最大限に突然に化けていくのだから面白い。

頭で考えて行動して疲れ果てたときは、何も考えず、物思いに浸る時間を消すこと、そうすると心身が蘇り、善と悪、黒と白との対立が乗り越えられるかもしれない。


眠っているときに赤ちゃんは時々ニコニコと微笑むときがあるが、あれは何を夢見ているのだろう、とフト思いました。赤ちゃんは無敵ですね。


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